先にお別れさせていただきます〜婚約者様が復縁を迫ってきても、もう遅いです〜
12〜17日にかけて短編を毎日投稿予定です。
その1作目となります。
婚約をこちらから終わらせると決めた朝、私は鏡の前で呼吸を整えた。肩までの栗髪、灰青の目。寝不足の影が少しあるけれど、顔は上げられる。今日の私に必要なのは完璧さではなく、静かな決心だ。
王城の応接間は、いつもより少し涼しかった。窓は高く、光は淡い。机の向こう、エリアス殿下は書類に目を落としている。淡い金髪、薄い青の瞳。整っているのに、私へは焦点が合わない——それがこの数年の彼だった。
「……それで、要件とは?」
距離を感じさせる声。私は礼をし、口を開く。
「殿下。私たちの婚約は、こちらから破棄させていただきます」
ペンが机に落ちる音。殿下の睫毛が揺れ、遅れて私を見る。
「待て、リディア。式の日取りは、やむを得ない事情で——」
「三度、延びました。理由は共有されませんでした。側妃候補のご令嬢と並ばれた夜も、私は信じようとしました。けれど、それは私の役目ではありません」
私は、贈られた髪飾りと真珠を机へ置く。殿下はしばらく黙り、言葉を選ぶように喉を動かした。
「君に恥をかかせたいわけではなかった」
「それでも、私の時間は戻りません」
それ以上は言わない。私は礼をして部屋を出た。背中で扉が閉まる音が、ずっと前から決まっていた合図のように響いた。
馬車に戻ると、侍女のアネットが手を握ってくれた。彼女は柔らかな茶髪をひとつにまとめ、落ち着いた制服をいつもきれいに着こなす。表情は穏やかで、目だけがよく働く。
「お疲れさまでした、お嬢様」
「ありがとう。帰りましょう。家へ」
実家の門をくぐると、庭の緑が目にやさしかった。父は広い肩の上着を軽く整え、私を見るなり短く頷く。母は私の頬に手を添え、体温を確かめるように微笑んだ。二人の間に言葉は多くない。それでも十分だった。
「しばらくは領の仕事に入りたいの。帳簿も」
「任せる。必要なものは全部使え」と父。
翌朝から私は書庫にこもった。硝子工房、穀倉、道路、橋脚。数字は無愛想だが正直だ。読み進めるほど、うちの硝子は腕に対して販路が弱い、と浮かび上がる。
「隣国の商都に窓口を作りたい」
応接で伝えると、執事のベルトラムが目を細めた。端正な燕尾服に銀の懐中時計。余計なことは言わない人だ。
「候補は?」
「リオネル王国の港町セレス。新興商会が多く、独占が緩い。暁梟商会と話したい」
父が笑う。「使節は用意する。お前は顔だ。数字で通せ」
数週間後、私とアネット、少数の護衛はセレスの石畳を踏んだ。潮と香辛料の匂い、混ざる言語、積み上がる木箱。目が醒める街だ。
暁梟商会の扉を押すと、小さな鈴が鳴った。カウンターは磨かれ、棚の帳簿は背の高さが揃っている。
「ようこそ。暁梟商会、代表代行のミケルです」
栗赤の髪を束ねた若い商人。手は紙の粉で白く、笑うとき片方の口角が上がる。無駄のない仕草が、日々の仕事を物語っていた。
「資料を拝見しても?」
「もちろん」
やり取りの最中、奥からもう一人が現れた。
「遅れて失礼。リオネル王国宰相代理、ルカ・ファルネーゼ。商会の監査役も兼ねています」
短く整えた黒髪、灰緑の瞳。装いは質素で通すが、立ち姿が場を整える人だった。声は低く、言葉は削られている。
「ここでは肩書より、品の価値と対話を重んじます」
「望むところです」
硝子の透過率、加工の歩留まり、輸送の破損率。私は持参の数字で答え、現物見本で補強する。最後に、売上の一部を王都の孤児院に寄付し、年次公開する案を出した。
「信頼のための投資です。見返りは求めません。公開だけ約束します」
ルカは短く頷いた。
「良案です。短命な利益より、長い継続を選べる取引先を望んでいました。——ミケル、共同で」
「異議なし」
握手を交わす。掌の温度が思ったより人間的で、私はそこで初めて肩の力を抜いた。
最初の出荷は慎重に始めた。海風は強く、箱は補強。荷馬車の揺れで割れた分は保険で吸収する。一便目は無事に届き、商会はすぐに追加発注を出した。工房の職人たちからは、久しぶりに誇らしい顔が届いた。
うまくいくだけでは、物語にならない。三便目で事故が起きた。橋板の釘が抜け、車輪が落ち、箱が二十。被害報告を読む指が冷たくなる。
「詰め替えの順序を見直しましょう。重い箱を中心へ。藁ではなく、薄い木枠を内箱に——」
私は失敗の責任を自分へ引き寄せ、対策を箇条書きにした。ミケルがすぐに現場へ飛び、二日後には新しい詰め方が戻ってくる。破損率は半分以下に下がった。数字は嘘をつかない。対策もまた、嘘をつかない。
忙しい日々の合間、王都からの正式文が何通か届いた。王太子殿下の意向により、話し合いの場を設けたい、と。私は丁重に辞退する。礼は尽くした。私の時間は、もう別の場所へ流れている。
「お嬢様、セレスからお客様です」
案内された応接に、ルカが立っていた。今日は移動帰りらしく襟元が少し乱れている。彼は余計な前置きなく切り出した。
「通商路の整備で民間の意見を聞きたい。……それと、個人的なお願いが一つ」
「どうぞ」
「私と婚約していただけませんか」
心臓が一度強く打つ。彼は私を正面から見ていた。
「あなたの判断と手際、人への配慮を尊敬しています。政治は正しさだけでは動かないが、正しさに寄り添おうとする意志がなければ腐る。無礼を承知で——隣にいてほしい」
即答はできない。私は指を組み、息を整えた。
「考えさせてください。片づけるべき未練が一つ、残っています」
「王太子殿下のことですね。——結論が出たら、最初に私へ。急かしません」
そう言って彼は帰った。扉が閉まると、胸の中で固く結んだ糸が、少しほどけた気がした。
ほどなくして、王都からの使者が門を叩く。今度は正式の護衛がついていた。
「王太子殿下が直々にお越しです」
私は応接へ向かい、扉を開けた。立っていたのはよく知る顔。けれど以前より少しやつれている。完璧だった均整に、遅れて体温が戻ってきたように見えた。
「リディア」
「殿下。遠路をありがとうございます」
「突然すまない。……話がしたい」
彼は座らず、言葉を継いだ。
「すべて、私の不徳だ。仕事のせいにして目を逸らした。噂も否定すべきだった。君は一度も責めなかったのに、私は沈黙に甘えた」
遅い謝罪は、きちんと遅い声で届く。私は頷き、静かに答えた。
「殿下。私が必要なのは、私がいない場所で思い出される必要ではありません」
「どういう意味だ?」
「隣にいたときに、選んでほしかった。式が延びるたび、理由があると言われるたび、私は信じようとして自分を削りました。……信じるべきは、最初から私自身でした」
しばらくの沈黙。彼は目を閉じ、短く息を吐いた。
「遅かった、ということか」
「はい。もう、遅いのです」
「相手がいるのか」
「相談を受けています。私の仕事と意志を尊重してくれる方から」
殿下はゆっくり頷いた。
「君の幸せを、願う」
「ありがとうございます。殿下も、どうか」
それで終わりにした。私は机へ戻り、ルカに手紙を書く。要点だけを短く。
『お待たせしました。もしまだ望んでくださるなら、私に隣に立たせてください』
返事はすぐに来た。端に小さな地図が添えられている。新しい通商路の草案だ。
『もちろん。では仕事をしましょう、婚約者殿』
婚約指輪は細い銀に小さな石がひとつ。派手ではない。指に馴染む。私はそれを見て、ようやく「似合う」という感覚を覚えた。
契約は回り続けた。孤児院からは手紙が届いた。硝子窓が入り、冬の風が弱くなったと。寄付の公開は面倒だが、面倒なほうが信頼は長持ちする。工房には若い見習いが増え、破損率はさらに下がった。やがて季節がひと巡りし、両国共同の舞踏会の夜が来た。
私は濃い青のドレスを選ぶ。形は簡潔、装飾は最小限。髪は後ろでまとめ、耳に小さな光だけ。鏡の前で深呼吸を二度。十分だ。
ルカは濃紺の礼装。胸の梟が小さく光る。彼の立ち姿には余計な飾りがない。隣に立つと、場のざわめきが半歩静かになる。
「大丈夫ですか」
「ええ。少しだけ怖いだけ」
「怖いと言えるのは強さです」
扉が開き、光と音が満ちる。最初の曲。彼が手を差し出す。
「踊っていただけますか、婚約者殿」
「喜んで」
歩幅が合う。視線を上げる。彼の灰緑の目は、私だけを見ている。私は足元を見ない。
人の波がふと割れ、エリアス殿下が現れた。深い森色の礼装。以前より静かな目で、私の前に立つ。
「おめでとう、リディア」
「ありがとうございます、殿下」
「——あの日、君の言葉の意味をようやく理解した。自分のために選んだのだな」
「はい。殿下に恨みはありません。けれど、私の人生は私のものです」
殿下は短く頷き、去った。私の中に、波紋は起きない。静かで、広いだけだ。
曲が戻り、私たちはまた歩き出す。裾が揺れ、グラスが触れ合う音が遠くで鳴る。私は胸の内で、あの一言をもう一度つぶやいた。
「先にお別れさせていただきます」
選ばれない私へ。後回しにしてきた私へ。誰かの顔色で立ち止まる私へ。さよなら。
夜会は長く、やがて庭へ人が流れた。月は薄く、風はやわらかい。欄干にもたれていると、アネットがそっと近づく。今日は控えめな灰色のドレス。髪を少し高く結い、いつも通りの落ち着いた目をしている。
「お疲れさまです」
「ありがとう、アネット。明日もお茶、お願いね」
「もちろん」
少し離れたところで、ミケルが誰かと話している。袖を肘までまくり、身振りで図を描く。彼は相変わらず忙しい。忙しいことは、いいことだ。
「婚約者殿。明日の朝、通商路の視察があります。早いですよ」
背後からルカの声。私は頷く。
「承知しました。私の好きな朝です」
「仕事の話ばかりしている気がします」
「そうやって始まったでしょう、私たちは」
「たしかに」
笑い合う。そこに無理はない。私は胸の真ん中に、はっきりと書く——私の人生は、私のもの。
翌朝、馬車に揺られながら窓の外を見る。薄い川霧、畑の上の白、遠くの樹列。ルカは地図を広げ、ミケルは荷の帳面を確認している。アネットは私の膝に温かい茶を置いた。
「梟の道、北の橋脚は最優先で」とルカ。
「はい。補強材は昨日の案で。破損率、さらに落とせます」と私。
「任せます」とミケルが短く返す。
言葉はまた仕事に戻る。けれど、仕事が私を削る感じはもうない。私は選んでここにいる。選び直せることを知っている。扉は重いけれど、鍵は意外と軽い。
いつか「もう遅い」と言われた誰かが、この物語を読むかもしれない。もしそうなら、伝えたい。遅いと決める権利は、たぶん自分が持っているのだと。
私は窓を少し開け、朝の冷たい空気を吸い込む。指輪が小さく光る。隣の彼が、前を見たまま言った。
「怖いときは、怖いと言ってください。強くあろうとする義務は、あなたにはありません」
「覚えておきます」
私は微笑む。今日もまた、選び直す。静かで、確かな忙しさが、私の一日を満たしていく。
最後までお読みいただきありがとうございます。
次の短編の投稿は明日の20時を予定しております。