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苦手な方はご注意ください。

【1/29追記】私が偽物…ですか?

作者: 氷下魚

2025/1/29追記しました!

身代わり子がどうなったの!?という感想を多くいただいたので、彼女のその後を補足です。

――――――――――


以前書いてたものの供養をば。




私が暮らすアイルデン国には変わった風習があります。

いえ、《変わった》という表現に関してはあくまでも他国から見てのものとなり、この国で生まれ育った私にとってはごく一般的な、当たり前にあるものです。


『子は指を過ぎるまで天のもの』


これは両の指、つまり十歳までは天に戻る…死ぬ可能性が高い為大事にしようという教訓です。

この国は大陸の北に存在し、国土の殆どが寒さが厳しい土地である為現在のようにインフラが整う以前は子供が早死にすることが多かったそうです。

無事の成長を祈る反面、早死にしたとしても神の御許へ還ったのだと我が子を亡くした親を慰める意味も込められているように感じます。


そしてこの教訓を元に作られたのが今もなお形を変えて続く我が国の風習です。


過去にはもっと差別的な意味を含む風習だったと記録されていますがかつての王による改革で身分制度が緩和された現在、風習はどちらかといえば縁起を担ぐというか…ただの通過儀礼のようになっています。

ですので一部を除いて特に害があるようなものでもなく、幼い頃を懐かしむ時に話題にのぼる程度の軽い物だったのです。

そう、一部を除いては………






「この場においては敢えてこう呼ばせてもらおう、公爵令嬢マリサ・シュターテン!

 私は今この時を以て貴様との婚約関係を破棄する!」


和やかな歓談の場に風穴を開ける大声が響く。

かつてこの国に改革を齎した偉大なる王により議会制度発足、身分制度の緩和政策が発令された日を記念する式典、その後の祝賀パーティーの最中だった。

緩和されたとはいえ身分制度自体は撤廃されてはおらず、この場にいる者達は一部の資産家や様々な分野で優れた能力の持ち主を除いて皆王族や貴族である。

(平民には王家や土地を治める領主から祝いを贈られている為それぞれで楽しく過ごしているのだろう、街は昼間のように賑わっている)


そんな中で上げられた大声は一人の淑女の名が乗せられており、そしてその名がこの場も特に位が高く特別な存在である事は皆が周知している。


マリサ・シュターテン

アイルデン建国から連綿と受け継がれた由緒正しい血筋であり、数度の輿入れや降嫁の記録を持つ王家との繋がりも深い名家シュターテン公爵家、唯一の子女の名だ。

かつて社交界を騒がせ…いや、狂わせたとも言われる艶めいた美貌を持つ父と、下級貴族の出ながらも女性の地位向上を志し先陣切って内政に携わる才女を母に持ち、その血統のプラス面を余すことなく受け継いだ美しく聡明な淑女である。

アイルデン国に多く見られる銀髪の中でもシュターテン家にのみ見られる青みがかった独特の色合いは緩やかに波打ち透けるような肌をより白く見せ、また輝くヴァイオレットの瞳を際立たせている。

彫刻のように整った顔立ち、印象的な色彩、そして慈悲深さを感じさせる柔和なその表情はアイルデン国に伝わる冬の女神の化身だと囁かれるほどだ。


そんなマリサを大声で呼びつけ、更には婚約破棄を叩きつけたのは同じ(…とは言うものの先々代の愚行により著しく力を弱めた)公爵家子息であるドルガ・ティッカイトである

由緒正しさで言えばシュターテンと同等の血筋であるティッカイト公爵家の、こちらも唯一の子息だ。

金髪碧眼を持ち恋愛小説の主人公のように甘やかで端正な顔立ちは今や憤慨を全面に出し、割れた人波の向こうに立つマリサを射殺さんばかりに睨みつけている。


「ドルガ様、本日はアイルデンにとって大事な記念日。

 晴れやかなこの場を私事で乱すなどもっての外でございます。

 お言葉の本意は別室で…」

「この場だからこそだ!貴様の浅はかで卑しい罪を皆の前で暴いてくれる!」


驚きや困惑を淑女の仮面の奥に封じ込め、なるべく優しく努めた口調で別室への移動を促そうとしたマリサの言葉にドルガはより強い言葉を被せた。

周囲の貴族は突如として起こった公爵家同士の揉め事にどうする事もできず、成り行きを見守っている。

この二家が結ぶ婚約の重要性は貴族はもとより国の大半が知っており、迂闊に口を出し万一にも事を荒立てれば一族が国を追われるだろう。下級貴族の当主達は寄親に視線を送り、上位貴族はそれらを頷きと鋭い目線で制止し不動を伝えている。


「マリサ、大丈夫かい?」


一触即発にも似たそんな雰囲気の中でマリサに歩み寄るのはシュターテン公爵その人だ。未だ翳る事なく深みを増した美貌に穏やかな表情を崩さないまま僅かに震える我が子の華奢な肩を抱き留める。


「お父様…」

「あなた、マリサをお守りくださいませ」


二人を守るように立つのは、上質ながら装飾の少ない、ごくシンプルなドレスを身に纏ったシュターテン公爵夫人だ。

宝玉にも例えられる父娘に比べれば表面上の美しさは欠けるものの、確かな実績に裏打ちされた自信と誇りを感じさせる凛とした表情は種の違う美を感じさせ、見劣ることはない。


「我が娘にどのような罪があるのかぜひお聞きしたい所ではありますが、場を乱すのは紳士として褒められたものではありません。

 今ならまだ皆さま目を瞑られるでしょう、口を閉ざし速やかにご移動なさいませ」

「男爵生まれ如きが俺の行動を制限するな!平民同然の分際で公爵家に盾つくなど身の程知らずも甚だしい!」


ざわ、と人並が揺れる。


「ドルガ様…!なんという事を言うのですっ!」


父公爵の腕から叫んだのはマリサだった。

罵倒された公爵夫人は表情を動かす事はなかったが、ドルガのその一言はこの場の空気を変えるには十分すぎるものだ。

身分制度の緩和を祝した場において下位貴族をその身分により罵るなど泥を塗るにも等しい。


…ましてそれが、ティッカイト家の者から発せられるのならば尚更。





マリサとドルガの婚約は生まれた時から決められたものだった。

かつての王が発令した身分制度の緩和は民や下位貴族からは総じて喜びの声とともに受け入れられたものの、上位貴族にとってはそうとは限らない。


より善き政の為改革を行った王を支持し、民や下位貴族とも融和を目指す『新貴族派』

絶対的な王政、それに付随する王侯貴族の強い権力の復活を求め緩和を受け入れない『旧貴族派』


上位貴族はその真っ二つに割れ、長く対立を繰り返してきた。

もっとも、『旧貴族派』は改革後も権力を振りかざし領民に重税を課し続け自身は贅を貪るという所謂【お貴族様】な暮らしを止めなかった為、現在はその血筋と共に悪名が響き渡っている有様だ。

そんな長い対立は『旧貴族派』の中に純血主義を芽吹かせ、婚姻は同派閥内のみ…あるいは近親婚すら行われてきた事から年々出生率は下がり続けている。そうでなくとも敵対派閥、あるいは平民との恋を選び出奔する若者は少なくない。


そんな先細りの確定している『旧貴族派』の救済の為に結ばれたのがマリサとドルガの婚約だった。

シュターテン家は『新貴族派』、ティッカイト家は『旧貴族派』の筆頭にあたり、王命として二人が婚姻を結び『旧貴族派』『新貴族派』という隔たりを崩す一手とする…それがこの婚約の大義だった。

これは『旧貴族派』の中で育った比較的若い世代の一部が自らの置かれている立場を理解し、嘆願という形で派閥の統合を王へと願い出た末に叶ったものだ。

この二家の婚約は王家や議会、上位下位貴族など様々な人間が関わり、婚姻が果たされた暁には二人共が同等の裁量を持つ…嫁入りでも婿入りでもない新たな公爵家を創設する事も決まっている。


この国にとって非常に意義のある、言わば国を挙げてのビッグプロジェクトとでも言える婚約だった。



それを破棄、ましてそれが婚約する事で救われる立場にある『旧貴族派』筆頭のティッカイト家から口にするなど、誰が思えただろうか。



「身分差による暴言は今後の大きな瑕疵となり得ます。

 先程の軽々しく口にした婚約破棄とともに撤回することをお勧めいたしますわ。

 ティッカイト家と我がシュターテン家の繋がりはアイルデンの末永い平和の為…いくら年若いと言えどその意味が分からぬ歳ではないでしょう」


シュターテン公爵夫人は変わらぬ淡々とした口調でドルガに撤回を求めるが、そのドルガはハッと鼻で笑い飛ばし傷もペンだこも何一つない綺麗な指でマリサを指した。


「大儀には何も影響しない、する筈がないのだ!

 先程俺は敢えてこの女をマリサ・シュターテンと呼んだが、それは俺がこの女の罪を明確にするためだ。そのマリサ・シュターテンの偽物のな!」


再度周囲が大きくどよめくが、それは先程のものと明確に違う呆れや嘲りを含むものだった。

幼い頃から父である公爵と共に社交界に姿を見せていたマリサの姿はその場にいる誰もが一度と言わず目にしたことがある。

父譲りの珍しい髪色、母譲りの紫色のアーモンドアイ。要素は変わらず美しさだけを純粋に足して生まれたその容姿は二つとないものだ。


「へぇ、何を根拠にマリサを偽物扱いするんだい?」


性別と年齢、僅かな色彩の違いさえなければ瓜二つだっただろう、シュターテン公爵は身を屈めマリサの顔と並ぶように見せつける。


「この子の容姿を見れば一目瞭然だろう?

 私に似た顔に愛する妻の瞳の色、我々の愛の結晶として申し分ない筈だ」


そうだろう?と公爵が周囲の貴族を振り返れば頷く者や拍手をする者などが大半で、根拠もなく噛みつくドルガを笑うものが増える一方だった。

その様はかつての社交界ならば公爵家の子息に対し無礼だと咎められ制裁が加えられるものだったが、今や旧貴族派にそれほどの力はない。

何をしているのだ、と頭を抱える者や、周囲の新貴族派に対し自らは関係ないと必死な形相で訴える者が大半という有様だ。


「それにねぇ…仮にこの子が本物のマリサでないなら、本物はどこにいるんだい?」


その言葉を待っていた、そんな声が聞こえそうなほどドルガは一瞬で愉悦の表情を浮かべる。

そしてそのドルガの後ろから覚束ない足取りで一人の少女が歩いてきた。


「………?」


その場にいる貴族は勿論、シュターテン夫妻も頭に疑問符を乗せる。

現れた少女はサイズの合わない粗末なワンピースに身を包み、殆ど黒に近い濃い紫の瞳は自信なさげに伏せられくすんだ銀髪を素っ気なく束ねている。

表情はひどく怯えているようだが迎え入れるよう腕を広げ振り返ったドルガと目を合うと安心したように微笑みを浮かべた。

栄養状態の悪さを思わせる顔色の悪さも身なりも振る舞いも、貧しい平民の少女でしかない。

恐らくドルガが警備兵に金を渡し引き入れたのだろう、年若い警備兵がその後ろに控えている。


予想外の登場人物に周囲は顔を見合わせるが、マリサだけはその少女の顔に何か気付いたのかピクリと片眉を上げた。


「ドルガ様、その方は」

「この令嬢こそ本当のシュターテン家の娘!本物のマリサ・シュターテンだ!」


そう胸と声を張るドルガ曰く…


生まれた時から婚約を結ばれていた為、ドルガは幼い頃からシュターテン家に行くことが多かった。

「無口」で「つまらない」マリサと遊ぶ気もせず毎回さっさと庭に遊びに行っていたが、その際に迷い込んだ小さな離れに閉じ込められているこの少女と出会い、本当のマリサである事を聞いたという。


最初こそ信じ難かったものの、マリサは閉じ込められていながらもそれを恨む事をせずいつも前向きに外についての話を聞き希望を持って笑っていた。

その純粋で明るい心を持つ姿に貴族の気高さを見出し…そして、恋に落ちた。とのことだった。



まるで吟遊詩人さながらに語るドルガの姿に宴の場は今度こそ困惑に包まれる。

確かに少女はマリサと同じ年頃だが、シュターテン家の娘というにはあまりに外見がそぐわない。

最初は失笑を浮かべていた貴族達も話が進むにつれ、どう見ても平民の少女でしかない娘をわざわざ本物のマリサだと連れてきたドルガの精神状態を心配し始める始末だ。

この場をどう収拾させるのか…貴族の内心は全てシュターテン公爵へと向けられ、そしてまた彼もその期待に応えんと一歩踏み出した。


「ふむ…うちの屋敷の離れと言ったね?」

「あぁ」

「ならば、その娘はマリサの身代わり子じゃないか」


シュターテン公爵の言葉に周囲の貴族は気付きや納得の声をあげる。


身代わり子とは主にアイルデンの貴族家で行われる風習だ。


今よりもずっと昔、医療の未発達から出生率が安定せず幼子が早逝することが多かった時代に貴族の子は極めて大事に育てられていた。

寒さに耐えうるよう大人よりも栄養価の高いものを与えられ、万に一つも怪我することがないよう殆どの時間を暖かな部屋の中で毛布のように厚い衣服を着てベッドの上で過ごす。

しかし、いや、だからこそ幼子は突然死に見舞われる事が多かった。


日光に当たる事も運動することもせず、ただ食べているだけの生活は現在の考え方からすれば虐待にも近い。

突然死も今では肥満が原因によるものと言われている。

それでも当時はそうして子供を守るのが当たり前だった。それ以外の守り方など無いと考えられていた。


手を尽くしても起こる悲劇にどうするのか…有体に言えば、オカルトである。


貴族は我が子が生まれると同じ月に生まれた赤子を探し、屋敷に囲い置く事で身代わりになると信じた。

そして誰が言い出したのか、囲った身代わり子が病気や怪我をすれば我が子は健やかに育つという尾鰭まで生え、身代わり子は皆何の罪もない幼子ながら冷水を浴びせられ鞭打たれ、死ぬまでではない苦痛を与える毒を飲まされた。

10歳を迎えればお役御免となるがそれも生きて出られるというわけでもない。

貴族の子が苦難なく長く生きるようにと、身代わり子の多くは最後まで身代わりとして苦難の末にその命を散らされた。


そんな恐ろしく悲しい身代わり子の風習は長く続き、早逝する事が少なくなった今も貴族の間で続いている。

しかし、それらはかつての残酷なものから形を大きく変えており、身代わり子と言われているものの現代においては子の健康を願う通過儀礼でしかない。


その方法は家々で異なるが、とある伯爵家では我が子と同じ月に生まれた子を預かり、一年間同じように育てるという。

勿論一年を過ぎれば無事に謝礼とともに親元へ帰されるし、一年の内に怪我や病気をした場合はきちんと治療もされ、謝礼も上乗せされるので身代わり子にもその親にもデメリットはない。


とある侯爵家は身代わり子を定めはするものの屋敷で囲う事はせず、子が十歳を過ぎるまで毎年誕生パーティーの日に子よりも豪奢な服を着せ並び立たせるだけだという。

豪奢な服を着ているから貴族の子はこちらなのだという病魔への意思表示らしい。

謝礼というものはないが豪奢な服は毎年そのまま持ち帰らせるので、それを売って得たお金で身代わり子の生家は豊かな暮らしができる。


貴族は我が子に縁起を、身代わり子側には明確なメリットを。

身代わり子というものは今や、双方に得るものがある健全なシステムとなっている。


「我が家の身代わり子は同じ月に生まれた子を十歳まで屋敷の離れで住まわせるという形をとっている。

 家族も同じ離れで暮らさせているが使用人としても雇用しているから…恐らく君が屋敷に来た時はそれぞれ仕事に就いていたんだろうね」

「そう!この少女はマリサの身代わり子として離れで暮らしていた!

 身代わり子などではない、本当のマリサだというのに!」

「…つまり、今この場にいるマリサはその子と入れ替わった偽物だと?」

「そうだ!その悪魔のような女のせいでマリサは満足な食事も与えられず、薄汚い襤褸しか着られないんだぞ!」

「…………」


公爵はドルガが言う所の『本物のマリサ』を足先から頭のてっぺんまでじっと見つめた後小さく息を吐いた。


「我が家はよほど見くびられているらしい」

「…えぇ、大変遺憾です」


心底呆れた、というような公爵とは異なり、公爵夫人は言葉の通り眉間に片眉を吊り上げ怒りを滲ませている。


「我がシュターテン家では女主人である私が責任をもって身代わり子とその家族の生活を保障しています。

 雇用している両親は二人とも優秀かつ勤勉な為昨年部下をつけ昇給させていますし、離れを出た今も家族揃って使用人用の寮に住まわせ、住み込みに近い形で勤務している筈です。

 勿論貴族に並ぶという事はありませんが、少なくともそのようにみすぼらしい恰好しかできないような生活はさせておりません」

「…は…?」

「彼女の顔をよく御覧なさい。

 確かに顔色が悪く痩せているように見えますがそれは化粧の効果です。

 首元の肌は血色もいいし、手もそこまで荒れていない。髪もわざと埃をかぶったのでしょう…所々手入れされた艶が見えます」


指摘され、マリサを名乗る少女は自身の首を隠すように手を当てる。

その動きは公爵夫人の言葉が真実だと言っているに等しいものだが、ドルガはまだ折れなかった。


「く、暮らしぶりがどうであれ彼女が本物のマリサではない証拠にはならない!私が見初めた彼女こそが本物の貴族!本物のマリサ・シュターテンだ!」


嘘をこの場に持ち込んだ時点で破綻したも同然なのだが、ドルガにとって己が一度信じたものを取り下げるのは屈辱だったのだろう、少女への恋慕もそれを後押ししているのかもしれない。


「本物の貴族ねぇ……マリサ、少しドレスの裾を上げられるかい?」

「はい、お父様」


マリサは父公爵の言葉のままドレスの裾をほんの少しだけ持ち上げ、自身の足の甲を晒す。

右足は白のレースをあしらった踵の高いショートブーツ、左足は甲を大きく魅せる白いハイヒール。

アシンメトリーな足元だが、これはアイルデンの貴族女性が公の場に出る際の正装となっている。

因みに男性は手袋は左手のみ、右手は素手か甲の開いた手袋を付けるのが正装だ。


「知っての通り、アイルデン貴族は皆生まれてすぐに貴族証を刻む事が義務付けられている。男子なら右手の甲に、女子ならば左足の甲へだ。

 そして勿論マリサにもそれは刻まれている。

 シュターテン家の紋章である鷹と、マリサ個人のものとしてカトレアの花を合わせたものがね」


マリサの足にはオパールのように白く虹色がかった色で刻印が刻まれていた。

翼を広げた鷹とそれに守られるようにして咲く一輪のカトレアは肌に溶け込むような淡い色ながらけして消える事はない。


周囲の貴族はわかりきっていた結果に頷き、微笑んだ。

だがドルガだけは眉間に皺をよせ、吐き捨てるように声を荒げる。


「そんなすぐに消えるもの、証拠になるわけがないだろうがっ」

「……え?」


マリサの小さな疑問の声は透き通る声質のせいか、殊の外よく響いた。

そしてその声を皮切りに周囲の貴族達は一歩後ずさり、視線をドルガの右手に向けヒソヒソと囁き合う。


「なんだ…なんなんだ貴様ら!」

「…ドルガ様、お言葉ですが私の貴族証は生まれた日に刻まれて以降一度も消えておりません」

「貴族証に使われる魔石絵具は純度の高い魔石を家ごとに伝わる秘伝の配合で混ぜ合わせ両親らが魔力を注ぎながら作られる。

 親の魔力が一番馴染みやすいからね…そしてその合わさった魔力が強く、繋がりが深いほど貴族証は消えにくくなる」


高位貴族の血筋は殆どの者が強い魔力を持って生まれ、その中でも公爵家は群を抜く。

マリサは母こそ男爵家出身だが、父は筆頭公爵家。確かな両親の魔力を混ぜ込まれた絵具で刻まれたそれは今日まで一度たりとも淡い輝きが衰えた事はない。


「そんなくだらない嘘を…!」

「ドルガ・ティッカイト公爵子息」


激昂せんと強く睨みつける視線を遮ったのはシュターテン公爵夫人だった。

小柄なその体でマリサの前に立ち、厳しい眼差しをドルガに向け口を開く。


「貴族証に関し夫、シュターテン公爵の言葉は一切嘘偽りありませんし、この事は貴族学校の教本にも載っています。

 しかし、一方で確かに近年すぐに消える貴族証というものは増えつつあります………身分差による婚姻によって」

「身分差か…フン!男爵家の分際で身の程を弁えず公爵家に入り込む輩もいるわけだしな。そうなってもおかしくないだろう」

「私達は確かに魔力差のある婚姻でしたが、私も末端とはいえ貴族家に生まれ魔力を保有している為該当いたしません。該当するのは主に、平民を迎え入れた貴族家です」


身分制度の緩和によって平民が貴族家に嫁入り、婿入りするのは一般化しつつある。

今はまだ下位貴族のみで高位貴族に直接平民が嫁ぐことはないがいずれはそれも自然になっていくのだろう。

そうなると生まれ持った魔力差により、小さな問題がいくつか生じる。


そのひとつが貴族証だった。


親の魔力により刻まれる貴族証は両親が貴族であるなら多少の差があれど問題なく定着・固定させることができるが、両親の内どちらかが魔力を持たない平民だった場合それが著しく下がってしまうのだ。


「貴族と平民の子供は貴族証を刻んでも早ければ数ヶ月、長くても数年で消えてしまう為、その度に刻みなおす必要があります。

 しかしながら魔石もそれなりに値が張るため現在は貴族証を刻まない家も多く、その場合は魔力を持つ親が魔石に魔力を込めお守りとして持たせるそうです」


数ヶ月、数年という部分にドルガの顔色が変わる。

正面に立つ公爵夫人はその異変をいち早く察知し、斜め後ろに立つ夫、シュターテン公爵に目配せする。

公爵は心得たと頷き、両腕を広げる大仰な仕草を取り声を張り上げる。


「さぁさぁ、貴族証についての講義はここまでだ!

 ここは王城、今は宴の真っ只中!これ以上の無粋はやめにしようじゃないか」

「ま、まだ話は…!」

「追加の講義を受けたいならば別室だ。

 ……まぁ、受けない方が身のためだと思うがね」


ちらり、公爵がドルガの右手に目をやると、その手の甲に輝く筈の貴族証はマリサの物に比べどこか違和感を感じさせるものだった。







「…急に呼びつけるとは、いったいどういう了見だね。シュターテン公爵」

「お楽しみの所すまなかったね、ティッカイト公爵に夫人よ。

 しかし今回に関しては事が事だ…貴方方にも同席してもらわなければならない」


ドルガの両親であるティッカイト公爵夫妻は宴の場から離れた個室で休憩をとっていたところを、王城の小会議室を借りたシュターテン公爵に呼びつけられていた。

ドルガと同じ金の髪を撫でつけ、不機嫌を隠しもせず大きなグラスになみなみ注がれた葡萄酒を煽るティッカイト公爵の姿は尊大で、見ていて気持ちのいいものではないが夫人は特に諫める様子もなく静かに横で座っている。


彼らが来る事で場にはシュターテン、ティッカイト公爵夫妻とその子供、そしてそれぞれの従者と王城の警備兵というごく限られた場が調った。

内容を秘したいなら王城を出るべきだが、今回に関してはどちらかの屋敷で話し片付けていい問題ではない、とシュターテン公爵は考えている。


「先ほど、宴の場でドルガ君が我が娘を偽物と呼び婚約破棄を叫んだのだが、父親である貴殿は把握しているのかな?」

「…何を言っている?ドルガがそのような真似をする筈がないだろう」

「嘘や幻ならと私も思うが、多くの貴族もその場にいる確かな事実だ。

 平民である身代わり子を本当のマリサだと言って宴に連れ込み、それはもう歌劇の主役のように堂々としていたよ」

「な、なんだと…!?」

「しかし、それはもう言ってしまった以上仕方がない事だ。

 私がこの場を設けたのは別件…婚約を破棄する可能性があるという点では全く繋がりがないわけではないが」


そう言って、シュターテン公爵は王城の警備兵を近くに呼び寄せる。


「名乗りたまえ」

「はっ!」


元々この部屋の担当だったらしい警備兵は、姿勢を正し旧貴族派に属する家名と自身の名前、階級を名乗ると右手の甲を正面に向ける。アイルデン王国の兵士がとる、正式な敬礼だ。

伯爵家に連なる彼の右手には青みがかった貴族証が刻まれている。


「ふむ、丁度よかった。彼がそちらの派閥ならこれが一方的に陥れるようなものでない事は理解してもらえるだろう。

 そして折角立派な名乗りをしてくれたのだ、我々も応えようじゃないか」


兵からの敬礼を受けた者は自らの貴族証を向ける事でその敬意を受け取ったと示す。女性は足に刻んでいる都合上見えにくいが、ドレスの裾を持ち上げるという所作がそれにあたる。

掲げられたシュターテン公爵の右手に刻まれた、翼を広げる鷹を象った貴族証はマリサと同じくオパールの光沢を持ちシャンデリアから降り注ぐ光を受け眩いほどに輝いている。


公爵がわざわざここで貴族証を見せる意図を理解した夫人も、マリサもそれに続きそっとドレスの裾を気持ち程度に持ち上げた。


彼らのその動きを見たティッカイト公爵は己が呼ばれた理由を悟り、息を呑み自らの右手を握りこむ。


敬礼には貴族証をもって応える…アイルデンの貴族ならば当然の事だ。

ましてそれが自身の派閥に属する者からであれば、むしろ派閥違いのシュターテン公爵家よりも先に示さなければならない。


しかし、ティッカイト公爵はそれを躊躇った。


「父上、応えを…」

「…発言を許した覚えはないぞ、ドルガ」



完全なる出遅れだった。


把握が遅れ、後手に回った事で主導権も逃げ道も全てシュターテン家に奪われ塞がれてしまっていた。

驕りと酒で貴族としての勘や思考回路が鈍っていなければ、きっといくらでもやりようはあった筈だ。


貴族証を向ける敬礼への応えは今回のような限られた場であればそこにいる中で最も位が高い者、当主だけで十分だった。

しかし相対するシュターテン公爵家は当主だけでなく夫人、そして子女までもが応えている…そうなると、ティッカイト家も全ての者が応えなくてはならない。


同格の二家が揃った場でその足並みを乱す事は重大なマナー違反であり、礼を捧げた兵士への侮辱になる。


「…旦那様」


それまで口を閉ざし、存在を薄くしていたティッカイト夫人が口を開いた。


「…お、お前…」


艶やかな赤毛をゆるくまとめ、嫋やかな美しさを持つティッカイト夫人は公爵の唯一の弱点ともいえる存在だ。

同じ旧貴族派の下位貴族に生まれた彼女を、公爵は崇拝するかの如く愛していた。

その愛は深く、ある時領地を襲った災害で両親を始めとする家族の悉くを失いたった一人残された彼女を周囲の反対全てを押し切って公爵家への正妻として迎え入れたことからもわかる。


…妻の為にと公爵が権力を振りかざさなければ、美談として語り継がれていた事だろう。

夫人は主張に乏しく、物静かな女性であったが公爵は彼女が求める求めないに関わらず与え続け、そして今も彼女の為に民から奪い続けている。


「あの者がこちらに属する者ならば…応えなければなりません」

「あ、あぁ…勿論だ」


最愛の妻の言葉に押され、ティッカイト公爵は唇を噛みながら自らの右手を掲げ貴族証を向けた。

狼を象ったその文様は金色に輝き、褪せない太陽のようにも感じさせる。


そして夫人も、ドレスの裾をそっと持ち上げる。

見る事は出来ないがその自然な動きは貴族証が確かに刻まれていると予測させた。


そして、ドルガが右手を掲げた。

彼の右手に刻まれているのは確かに父公爵と同じティッカイト家の家紋である狼だが、輝きは比べるのも烏滸がましいほどだった。

公爵を太陽とするなら、ドルガはその光を受けた路傍のガラス片…高位貴族の子息にあるまじき輝きの弱さだった。


その場にいた、ドルガを除く全員が一瞬でその違いを理解する。


「……残念だが、この婚約は陛下に申し出て正式に破棄させてもらおう。身分について言いたくないが今回に限っては公爵家の子供同士だからこそ意義がある」

「ま、待て!これは…!」


狼狽えるティッカイト公爵に、ドルガは何が起きているのかわからなかった。


「父上、いったい何の話をしているのですか?

 貴族証など貼り替えればいいだけで…」

「黙れっ!」


問いかける声を、公爵は声と拳で遮った。

殴られ床に倒れこんだドルガは頬を手で押さえながら痛みに呻くが誰もそれを支えようと、慰めようとはしない。


ドルガはその時初めて、全員から向けられる温度のない視線に気が付いた。


「…な、なんなんだ…なんで、そんな目で…!」

「…貴族証については先ほど説明しただろう。

 高位貴族…それも公爵家の子供から貼り替えればいいなどという言葉が出る時点でおかしいんだ」


その言葉に、ドルガは自身の右手を見た。

金色ではあるが輝きが鈍くなってしまったそれは、既に文様の端の一部が欠け始めている。


それも致し方ない事だろう、彼がその文様を刻まれたのは()()()なのだから。


「は…で、でも…俺は、公爵家の…父上の魔力を継いで…」

「公爵家の魔力であっても輝きを維持できないというなら、余程相性が悪いかそもそも魔力がないか、だ。

 どちらか判じたいなら今ここで魔術を使ってみるといい」

「魔術、そう、魔術なら…!」

「その必要はないっ!やめろドルガ!」

「《氷の剣》!」


ドルガは高らかに、いつも披露している得意魔術を叫んだ。

常であればその右手に美しい氷でできた長剣が現れる筈だったが…長剣が現れたのは、ドルガではなくティッカイト公爵の手の内だった。


「……魔力の、共有…?」


ぽつりと零したのは、マリサだった。

平民や一部の下位貴族など、本来魔力を持たない者が魔術を行使する時は魔石を使用するか魔力を持つ者に共有してもらう他ない。

共有とは、魔力を宿したなんらかを媒介に共有した魔力を消費し、一時的に魔術の行使を可能にするごく一般的な技術だ。

しかし、この技術にも本来の魔力の持ち主が近くにいる場合、魔術はそちらで発動してしまうという欠点がある。

そう、今のドルガと公爵のように。


「なるほど、公爵の魔力を練りこんだ魔石絵具なら媒介として申し分ない。魔術は基本的には右手で行使するものだから一見すると本人の魔力を使用してるように感じるだろうね」

「では、ドルガ様は本当に…」


今度こそ皆が言葉を失い、静まり返る。


ドルガは自分の掌を見つめたまま動かず、公爵は氷の剣を投げ捨てると何事かを考えるように頭を抱えている。

それに対しシュターテン一家は何も言葉を掛けることもせず、静かに彼らを見つめていた。


その静寂を断ち切ったのは、ティッカイト夫人の声だった。





「私の子はどこです」





響く声は氷のように冷たく、まるで今にも砕けてしまいそうなほどに危うい。

先程までの淑女然とした口調とはまるで違うそれにその場にいる皆が夫人を振り返る。


夫人は、ただ自身の夫を見つめていた。

人形のように無表情で、怒りも悲しみも何も映っていないその顔で、公爵を見つめていた。


「私の子はどこにいるのです」

「いや、私達の子供は…」

「私の子を、どこにやったのです」


ティッカイト夫人は、ドルガが自分の子ではないのではないかとずっと疑いを持っていた。


産後すぐに抱いた我が子は確かに自分とよく似た赤毛の子であった筈なのに、次に目を覚ました時には金色に変わっていたのだ。

混乱していたんだろう、と夫や産婆に言われ納得しようとしていたがドルガが成長するにつれ自分は勿論夫とも髪色以外似ていないその容姿に、疑念は濃くなる一方で消える事はない。

そして疑念があるまま再度の懐妊を目指すことなどできず、夫人はずっと孤独の中で悩み、苦しみ続けてきた。


「私の子、私の唯一の家族をどこにやったのです!!」


災害で父母はおろか兄弟や祖父母、近しい親戚までもを一度に失った彼女にとって血を分けた我が子を産む事は悲願と呼ぶに値する、強い願望だった。

子供を授かれるなら相手など誰でもいいと思うほどに、その心は孤独の中に溺れていた。

公爵との婚姻も愛情があったわけではなく、子供を安全な場所で産み育てられるならば誰でもよかったから、丁度良く伸びてきたその手を取っただけ…


それほどまでに渇望していた我が子が、何の繋がりもない者とすり替えられていると知れば…夫人の豹変も致し方ない事だろう


「私の子を返して!返してぇぇえ!!!」



鬼女のように怒り叫ぶ夫人に警備兵は応援を呼び、場は一気に衆人に晒される事となる。

半狂乱でティッカイト公爵に組み付き叫び続ける夫人の姿にまだ王城に滞在していた貴族達は何事かとこぞって見物し、そしてその騒ぎはやがて王の耳にも届いた。



王家はその後、ティッカイト公爵家について徹底的に調べあげ真実を詳らかにした。


本当のティッカイト家の子は、既に亡くなっていた。

健康に産まれてはいたが女児だったために、男子を望んでいた公爵の命令で捨てられ孤児院に入ったが、数日でこの世を去ったと記録が残っていた。

旧貴族派が運営していたその孤児院は劣悪な環境で、病や栄養不足で命を落とす子供が後を絶たないといい…もし拾われたのが新貴族派の孤児院だったなら、健やかに成長していたのかもしれない。


そしてその娘の代わりにティッカイト家に入ったのが、身代わり子として選ばれていたドルガだった。


ティッカイト家の身代わり子は悪とされたかつての風習を色濃く残しており七つを迎えるまでに命を落とす事が多い為、孤児や貧しい平民から子供を買い取って行われてきた。

表向きは同じ敷地で暮らしていると通してきたが、今回の調べで明らかになったその非道な行いについても王家に裁かれる運びとなった。


ドルガは公爵の計画も知らなかったことから被害者となったが、帰るべき本当の両親の所在もわからず孤児院で受け入れる事になったらしい。

自身の出自が公爵家どころか貴族ですらないという事がショックだったのか、心を病み孤児院の部屋に閉じこもっているという。



ティッカイト公爵はドルガの出生について虚偽の登録を行い王命を違えた罪を問われ、身代わり子への不当な扱いへの罰として家そのものも取り潰しとなった。

処刑こそされないものの今後は王家が運営する魔石工場で生涯魔力を搾り取られる事となる。

重すぎるのではないかという声もあったが、これまで圧制を強いてきたティッカイト公爵は貴族にも平民にも忌み嫌われ、命を狙われる可能性すらある、言わば保護を兼ねた措置だった。



ティッカイト公爵夫人はとある商家の前会頭が身請け人となり、平民として暮らしている。

前会頭は夫人の母方の親族で、家族を失った彼女の悲劇を知ってはいたが既に公爵と婚姻していた手前何もできなかったのだという。

自身の母の幼い日の話を聞き、我が子が眠る集合墓地に通う毎日は彼女の慰めになるだろう。





そしてシュターテン公爵家では…


「では辺境伯家の身代わり子の調査に行ってまいります」

「あぁ、いってらっしゃい」

「気を付けてね」


マリサとドルガの婚約が消滅したことで、融和に続く婚約は別の貴族家へと鉢が回り、彼女は正式にシュターテン家の後継者となった。

筆頭公爵家の令嬢であるマリサと釣り合うような男子は旧貴族派におらず、今は女公爵となるマリサの伴侶として国外から婿を迎える為両親が手を尽くしているところだ。

そしてマリサは、王家に掛け合い身代わり子という風習を調査・記録するプロジェクトを開始した。


元々が風習という曖昧なものなせいか、記録も取らず家々に采配を任せてきた身代わり子というシステムは穴ばかりだ。

今回の事件も、公爵が原因ではあるが身代わり子であるドルガがいなければ別の未来に繋がっていたかもしれない。


風習自体を統一し登録制にすることで今後同じような事件が起きないよう、マリサは母譲りのバイタリティで各地を飛び回っている。




〈追記〉---------------------------------


「そう、貴方はアリサと言うのね」


ドルガの婚約破棄、そして冤罪ではあったがマリサへの告発騒動の翌日、シュターテン公爵家の離れに二人の少女の姿があった。

勿論離れの外には侍女や護衛も待機していたが、室内にはたった二人だけ…それも、片側は両腕を縄で繋がれている。


昨夜、ドルガが本物のマリサだと言ってのけた少女は確かにマリサの身代わり子だった。

同じ月に生まれ、身代わり子に選ばれたその少女は幼い頃から今二人が居る離れで暮らしてきたが役目を終えた後は使用人の居室へ両親と共に移り住んでいる。

マリサの母は少女の両親の働きを評価し、それに見合う役割を与えてきたが昨夜の事件でそれは水泡と帰した。


「わ、私は何も…!ドルガが勘違いをして、勝手に私を、お嬢様だと言って…」


身代わり子…アリサは、冷や汗を流し顔の色を失いながら必死に弁明をするがその目には確かな屈辱が滲んでいる。


本来なら、アリサも両親と同じように使用人として雇用するのが最も適切だった。

公爵家で働くとなれば余程の事がない限り生活基盤は安定し、飢えることなく暮らしていける。貴族家出身者も多い為苦労はあるが、両親が働いていれば同僚の娘として馴染むのも早かった筈だ。


しかし、アリサには両親が口を揃えて辞退させるほど使用人としての適性がなかった。

最終的にはドルガとの邂逅が引き金となったのだろうが、彼女は幼い頃から自身を選ばれた特別な存在だと自認してしまっていたのだ。


身代わり子という風習が持つ残酷な過去を伏せ、名誉な役目だと教えてきた両親に間違いはない。子供に聞かせるにはあまりに重く、ともすればトラウマにもなりかねない。

しかしアリサは身体は成長しつつも学ぶ事を厭い、読める範囲の少女向け文学に傾倒した結果…ごく浅く狭い知識の中から自分にとって都合のいいものだけを拾い集め信じ込むようになってしまった。


彼女にとって自身は『その身を捧げる事で公爵家に幸運をもたらす、極めて重要な存在』であり、『悲劇に苛まれ、運命に翻弄される者』だった。

そんな自認を持つ彼女にとっては、自分のおかげで繁栄している筈のシュターテン家の娘に見下される現状はさぞ屈辱的なのだろう。


「貴方は身代わり子で居続ける為に、ここに忍び込んだ。

 あの方とも、ここで会っていたのでしょう?」

「………だ、だって…」


売れない役者のようにわざとらしく大仰に振る舞い、両親に対してもただの舞台装置のように接する彼女を、両親も矯正しようとしていた。

学びを得て現実を知れば恥ずかしい言動や行動を反省するだろうと教会が運営する学び舎へ通うように手筈も整えた。

しかし、彼女は学び舎へ行かずその時間を離れに忍び込んでいた。

元々離れは身代わり子が必要な時にだけ使用するもので、アリサ達がそこを離れた時点で閉鎖されている。敷地内でも奥まった場所にある離れをわざわざ毎日見回る事もなく、小さな窓が一枚割れ、二人の出入り口になっていたとしても気付く事はない。


「ここでしか、貴方は身代わり子ではいられなかったから」


特別な存在である自分を維持する為に、アリサは苦境の中に身を置かなければならなかった。

両親と営むべきごく普通の暮らしに満足できず、よりドラマチックな時間を味わう為に。


閉鎖された離れ…世間と隔絶された空間は彼女の理想の自分に噛み合い、そしてそこで繰り返されるドルガとの逢瀬も胸を満たすものだった。


「けれど私が十歳の誕生日を迎えた日に、貴方の役目も終わっています。

 今の貴方は我が家で雇用していた使用人の娘であり、過去ここに許可なく立ち入っていた時間も不法侵入でしかありません」

「で、でも私は身代わり子で、わ、わたし、私がいなきゃ公爵家は…!」


本来ならもう何年も前に醒める筈だった夢は、期限を切らし既に毒へと転じてしまった。


勤勉で優秀な使用人だった両親は娘が騒動を引き起こした責任を取り、今朝方揃って退職願いを出した。

屋敷の女主人である公爵夫人は自身の管理不足だったと引き留めたが、二人の意思は頑なで今は引き継ぎや退去準備に奔走している。


アリサの行いへの庇いだてもせず、涙ながらに頭を下げた二人の姿にマリサも心を痛めた。

身代わり子という風習のせいで歪んでしまった哀れな親子は、今後二度と会う事はない。


「当家に仕える使用人の娘であり、領民である貴方の罪は領主である公爵閣下が裁かれました。

 名代として次期公爵マリサ・シュターテンが貴方に罰を下します」


身分制度が緩和されつつあるとしても、引き起こした罪はその時代に応じた裁きが下される。

もしこれが後世に語られれば身分を笠に着た理不尽だと言われるかもしれない。そしてその後世は、間近に来ているかもしれない。


しかし、マリサはまっすぐに前を…己の身代わり子を見つめ言い渡す。


「平民アリサは身代わり子である事を利用しシュターテン公爵家の名誉を穢し、ティッカイト家子息と騒動を引き起こしました。

 よって罪の刻印を刻んだ上で、公爵領からの無期限追放を命じます」

「はぁ!?私は身代わり子なのよ!?私に罪の、罪の刻印なんて刻んだらアンタ達に不幸がくるに違いないわ!!私がいなきゃ、アンタ達なんて…!」


罪の刻印とは、貴族証と似た手法で刻まれる黒色の魔術刻印だ。


罪を犯した者の血と砕いた魔石を混ぜ、罰を下す者の魔力で練り上げる絵具を用いたその刻印は()()()が訪れるまで化粧で隠す事も魔術で上塗りする事もできない。

刻まれる者は殺人などの重罪人ではなく軽犯罪など更生の可能性があるような者が殆どだが、首や手の甲、頬など見える位置に刻まれる為…刻まれた者の多くは迫害を恐れ、自主的に修道院や下級の労働施設に身を寄せる事となる。


勿論そのまま家族の助けを得て市井で暮らしながら罪を償う事もできるが、アリサの場合それに加え領地からの追放…修道院へ行く以外の道はないだろう。


「罪の刻印はその罪が神によって償われたと認められた時、色を失います。

 己の罪を理解し、善き行いをする事で罪が償われ…理解しないまま過ごせばどれだけ善行を積もうと神に認められる事はありません。

 …かつて私の身代わりだった貴方の、一日でも早い自省を祈ります」


そっと、マリサの指先がアリサの首から胸元をなぞる。

ゆっくりと模様を描くように動くその指を、逆の手で持つ小瓶から絵具が追いかけ薄く日に焼けた肌へ黒色を残す。


「いやだ、やめて!やめてよぉっ!」


痛みもなくむしろただ撫でられているだけの感覚に過ぎないというのに確かに刻まれていく証にアリサは悲鳴を上げ身を捩ろうとするが、両手を縛る縄にかけられた拘束魔法のせいで体は指一本動かす事もままならない。


やがてマリサの細い指が彼女の肌から離れると、そこにはシュターテン公爵家の家紋が逆さになった、かの家で罪を犯したという証がしっかりと刻み込まれていた。


「ぁ…あぁ…私、私に、なんでこんな…!

 だって、だって私は…特別で、特別な…そう………私は、名誉ある…役目を…」


現実を受け入れられず、ぽろぽろと涙を零しながら譫言のように自身を肯定する言葉を呟くアリサにマリサはそっと厚手のショールを掛ける。

それはアリサの母が、せめて最後にと娘の為に編んだものだが、彼女がそれに気付くことはないだろう。



その後、アリサは隣接する領地ではなく山を一つ越えた先の領地まで馬車で移送された。

ドルガが送られた孤児院とも遠く、本当に誰一人知る者がいない場所で修道院までの簡略化された地図とショール、軽食と水の入った籠のみを渡された彼女は生気のない目ではあるがゆっくりと歩き出し、地図が示す通り修道院の方向へ向かっていった。


「…そう…そうよ、私は特別だから…今から行くのも特別な場所なのよ…本で読んだわ…聖女なのよ、私は…」



彼女の罪がいつ消えるのか、消える日が来るのかは誰にもわからない。



身代わり子がどうなったの?という感想と同じくらい、ドルガの父親についてもご意見いただきましたのでこちらも簡単に補足させていただきます。


ドルガの父親は旧貴族派の家で生まれ育った為その思想を持っていますが、夫人との婚姻の際一族ととっっっても揉めてます。

先に同世代のシュターテン公爵(当時はまだ子息ですが)が伴侶に男爵家の令嬢を迎えると決めたので、旧貴族派としては下位貴族ではなく高位貴族、それも王家と縁があるような家との婚姻をさせたかった。

そうする事で新貴族派との違いをハッキリさせ、その頃から計画されていた二家の婚姻の時、より優位に立とうとしていました。


しかし、若きティッカイト公爵はなんとしても夫人を妻に迎えたかった。

それはもう恋というより執着でしかないような感情でした。

夫人は特に公爵へ思いもなく、派閥に属する者としては距離を置くべきと考え自ら他家へ嫁ごうとしていましたが…そんな時に起こったのが家族を巻き込んだ災害です。

公爵は、災害への支援を故意に遅らせています。

強い魔力を持つ公爵が現場に行けば、少なくとも夫人の家族は助かったでしょう。

しかし彼の到着が遅れた事で両親や兄弟は末の娘である夫人を残し、現場へと向かい帰らぬ人となりました。


そして公爵は美談を盾に夫人との婚姻を強行しました。

一族は勿論抗議し、第二夫人にと高位貴族の娘を押し付けようとしますが婚姻してすぐに夫人が身ごもった事でその案も封殺されます。


しかし公爵は妻を愛する一方で強い権力へも固執していました。

生まれ育った環境で培われた価値観は崩れず、けれど夫人を愛する自身を優先する為に歪ませていたのです。

ドルガ(本来の公爵の子も)とマリサは同じ年に生まれましたが、マリサの方が数カ月早くに生まれていた為、女の子では役目を果たせない。

だから手離し、身代わり子だったドルガを実子と偽り穴ばかり空いた旧貴族派の教育を施しました。


ただ王命を果たす為、マリサと婚姻を結ぶ人形があればよかった。

どれだけ愚かでも真実が発覚する前に婚姻、もしくは子さえ成してしまえばシュターテン家も黙認せざるを得ない。


王命を果たし、自分と夫人が生きている間だけ権力を維持できればもう後は何も考えていません。

恋のせいで病んだ結果の短絡的な発想と、それらを無理矢理つなぎ合わせ正常性バイアスを働かせた状態だったわけです。


色々なんでや~????とまだまだ突っ込みたいところもあるかと思いますが、以上です!


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後日談の追記、ありがとうございます 身代わり子のその後が気になっていたのが解消されました。こっちもセルフとはいえ選民思想教育の結果か…… あと、公爵は歪んだ馬鹿ですねぇ……まぁ女の子だとわかると二人目…
マリサの身代わり子は結局どうなったの? 後、どういう思いからドルガに近付いて、何を思って″本物″を装ったの??? 公爵の話からは両親はまともっぽいのに…… 明らかに偽装してた事から鑑みて ドルガが勝…
さらっと嘘つき女が消えた件について
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