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利輝と影正  作者: 在江
第一章
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8 その理由

 疑われている。


 花鈴は父の変化を敏感に嗅ぎ取った。

 事件を発見した当初こそ、目の前で利輝を殴る意外さを見せた優輝であったが、藤野家の元当主として、元来兄と同じ立場にあった。


 花鈴にしてみれば、決して近しい存在とは言えなかった。

 田舎の住人にしては洗練された物腰の父を友人は羨ましがったが、花鈴にとっては当然で、むしろその他の面では物足りなかった。もっと溺愛して欲しいのに、などと考えていた。


 表向き、父の態度は変わらない。花鈴に接する時には、これまで以上に言葉を選び、気を遣っている。

 しかし、表情に僅かな変化が表れていた。花鈴を見守る筈の目に、揺らぎがある。


 事件後に利輝の部屋へ出入りしただけで、疑われたのか。

 か弱い少女が五歳も年上の男に性交を強要できるなどと、花鈴が自分で想像してさえ荒唐無稽な話を、ただそれだけの事で父が信じるだろうか。


 もし疑われるとしたら、もっと確実な証拠が出た時である。

 証拠といえば、あのマグカップは一体どこへ消えたのか。それが決定的な証拠になるとは思えないものの、花鈴はずっとその行方が気に懸かっていた。


 危険を冒して利輝の部屋へ入ったのもそのためである。


 消えたのは本も同じであった。兄は本を読む方ではなかったのに、珍しく父の本棚から引き出してあった。空隙の隣に、花鈴が授業で内容を聞いて、衝撃を受けた小説があった。

 まさにこの場にふさわしい。それで何気なく入れ替えた。大した意味はなかった。多少、兄を追い詰める材料にはなるかもしれない程度だ。


 その本も、ない。一冊分の空間が残っていた。いつか父が言い繕ったように、母が掃除したのならば、ありえないことだ。


 母は、あの時部屋にマグカップがあったことすら覚えていなかった。花鈴がどこかへしまったまま、忘れてしまったと思い込んでいる。


 新しい物を買ってあげると言われたが、花鈴は断った。陶芸展の即売会で見つけた物で、どのみち、同じ物はまず手に入らない。


 祖母にもそれとなく尋ねたが、当夜を思い出すだけで切なそうに涙を流すばかりで、やはりマグカップがあったことなど覚えていないらしかった。


 厳しい祖母であったが、あれ以来すっかり年寄りじみてしまったのを見ると、花鈴は自分でも思いがけず一抹の寂しさを覚えた。

 それでも後悔はしていない。同じ女でありながら、これまで祖母は当主の味方であった。それが、今度の件で、利輝の敵に回ったのだ。


 大きな収穫であった。祖母を押さえ、母を味方につければ、単純に人数の上で多数派となる。

 加えて、父の優輝も、祖母には遠慮する部分があった。

 事件の衝撃が薄れる前に、次の手を打たねばならない。今や、父にマグカップの行方を尋ねるなど論外であった。


 花鈴は、マグカップも本も父が隠したのではないかと考えついた。他に父が疑惑を持つ要因は考えられない。

 不在の間に父の部屋を探しても見つけられなかったが、弁護士事務所へ持ち込んだかもしれないし、父なら外にいくらでも隠す場所を設えることができる筈であった。


 仮に父がそれらの品を抱えていたとして、何故それが疑惑の根拠になるのか、相変わらず思い当たらなかった。花鈴は人知れず苛立った。



 「はい。書類は弥由に持たせてください。わかりました。よろしくお願いします」


 影正がスマートフォンを切って、利輝を見た。


 「一志殿にお願いしていた、血液分析の結果が出ました。利輝様の血液から、睡眠薬の成分が検出されたそうです」


 利輝は黙っていた。それが何を意味するのか、判断できなかった。考えようとすると、事実を枉げて利己的な結論を出してしまいそうだった。影正は言葉を切って待っていたが、再び話を始めた。


 「これで利輝様が例の間に意識を失っていた理由は、睡眠薬を飲まされたためだと説明がつくと思いますが」

 「他の解釈が入る余地はないのか」

 「あります。厳密に事が起きた時刻が特定されておりませんから、事を終えた後で、嫌疑を逸らすために利輝様が飲んだ、と主張される恐れがあります」


 念のために訊いたつもりが、ばっさり切り捨てられた格好になった。利輝は答えを聞いて、思いのほかがっかりしたことに気がついた。しかし守護人の表情には明るさがほの見えた。


 「ご自分で睡眠薬をお飲みにならなかった以上、少なくともご自身の記憶については確信をお持ちになられたのではありませんか。だからこそ、解釈の余地があることに気落ちなさったのでしょう」


 指摘されて納得した気になった。利輝は曖昧に頷いた。影正は肯定と捉えたらしい。更に居住まいを正した。大事な話を切り出す前触れである。主も緊張した。


 「彼女が部屋に入ってくるまでの間、何をしていたか覚えておられますか」


 いきなり過去に引き戻された。これまでも事件に関する話をしていたには違いないとはいえ、回想を強いられるのは別の問題であった。それでも利輝は守護人の問いに答えるべく、記憶を探った。


 「寝付けなくて、ごろごろしていた。本も見たけど、頭には入らないし、眠くもならないし、てんで役に立たなかった」

 「その本の題名は」

 「いろいろ。宿題出ていただろ。ああ。親父の本棚、正確には祖父さんの本棚からもちょっと拝借した」

 「題名は」


 模擬裁判の被告席で検事から尋問を受ける気分だった。大学のゼミで体験したことがある。青柳検事はその時と同様、容赦なく質問を重ねた。


 「ううん何だったかなあ。字が細かいし、長くて暗そうな話だったなあ。作者の名前は昔習った覚えがあるんだけれどなあ」


 影正は一向助け舟を出す気配を見せない。すっかり検察側の人間である。利輝は呻吟して、記憶に浮かぶ古ぼけた本の表紙を読もうとした。求める物の代わりに、古びた紙の臭いと独特の字体が蘇る。どのみち始めの方しか読んでいないので、話の筋から推測しようにも筋すら浮かばなかった。


 「ええと、丑松(うしまつ)という奴が出てくる話なんだけど」

 「丑松、ですか。結構です」


 守護人が微笑を浮かべて、どこからか透明な袋に入った本を、利輝の見える場所へ押し出した。記憶にあるのと寸分違わない。祖父の本棚にずらりと並んだ揃いの一冊である。


 「『新生』という小説が収められた巻です。ベッドの側に取り出してありました」

 「そんな題名だったかなあ」

 「丑松という人物が出てくる小説は、『破戒』です」

 「ああ、それなら聞いたことがある」

 「藤村の作品としては、『夜明け前』と併せて有名ですからね。利輝様が読んでいらした本は、明らかにそちらでしょう。その本は、棚へ戻しましたか」

 「いや、読み出したら、花鈴が」


 途端に胸の辺りが重く感じられ、利輝は言葉を切った。いよいよ、記憶が抜き差しならない箇所へ差し掛かった。影正は気付かないふりをして、話を引き継いだ。


 「つまり、片付けなかった。しかし同じ夜のうちに私が入った時、棚の外へ出ていた本はこれ一冊でした」

 「変だなあ」

 「島崎藤村という人は、良家の生まれですが、家庭的には恵まれない人でした」


 訳が分からぬ利輝を前に、影正は急に作家の講釈を始めた。


 「父親が近親相姦をして彼に弟を与えました。この父親は後に精神の安定を欠いて死亡します。そうした経緯を目の当りにして育ったにもかかわらず、後に藤村自身も近親相姦を犯しました。その出来事を書いたのが『新生』です」


 既に話の途中から、気分の悪さを感じていた。影正の言わんとする意図が掴めないまま、ますます具合だけがひどくなる。極端に拡大された花鈴の顔が眼前に浮かぶ。瞼を下ろすと画像は一層鮮明になった。重い瞼を持ち上げる力もないところへ、耳元に人の気配を感じた。


 「利輝様、お気を強くお持ちください。今は、あなたが無罪である証拠について、ご説明申し上げているのです」


 影正の声が息のかかるほど間近に聞こえ、肩に手の重みを感じた。利輝は瞼を持ち上げた。花鈴の顔は掻き消え、美しく整った顔が目の前にあった。そこからは僅かながらも、主を心配する表情が読み取れた。利輝は静かに息を吐いた。


 「済まない。続けてくれ」

 「はい。利輝様のたまたま手に取られた有名な本をわざわざ片付け、作品としてはさほど流布しておらず、しかも事件を暗示する内容の本を敢えて取り出したことは、一つの意図を感じさせます」


 「つまり『破戒』を『新生』と交換した人物は、その本を利輝様が前もって読んでいたと周囲に思わせることで、事件の犯人が利輝様であると強調したかったのでしょう。尤も狙い通りの効果を得るためには、本を見た他の人も内容を知っている必要があります。正直、あまり良い作戦とは言えません」


 「ぱっと見ただけならば、むしろ『破戒』の方が強い印象を与えることができるでしょう。こちらは所謂部落差別を扱った作品ですが、内容を知らなければ『破戒』は道徳的な戒めを破るという意味で、『新生』よりもわかりやすいからです。どちらの小説も読破せずとも、作家の自伝と文学年表で内容の調べはつきます」


 「本が交換されていたとしても、何の証拠になる?」


 「交換された本に、利輝様の指紋がなければ、本を交換した人が利輝様に被せようとした意図をそのままお返しすることになります。やはり状況証拠にしか過ぎませんが」


 「加えて、恐らく薬品を混入させたコーヒーと、それが残されていたマグカップもあります。これらは計画的な事件であったという証拠にしかなりませんが、血液分析の結果と併せることで、薬を飲まされたのが利輝様であるという証拠を補強するでしょう」


 「でもそれは、僕が後から飲んだと思われるだけかも、とさっき君が言った」


 守護人は動じなかった。


 「こうした事件が水掛け論に陥りやすいことは、ご存知でしょう。むしろ、これだけの物証を得られたのは、非常な幸運でした。今回の場合、利輝様が被害者と証明されたとしても、藤野家が蒙る傷の深さは殆ど変わりません」


 影正は言葉を切った。利輝は、決断を求められていると感じた。藤野家の当主として適切な判断を下す材料として、事実を確定するため、守護人はこれまで奔走してきたのだった。また、それがこの地に留まる理由でもあった。


 「そもそも、花鈴は何故こんなことをしたのだろう」

 「お分かりになりませんか」

 「君はわかるのか」


 すぐに答えはなかった。利輝は待った。その間も考え続けた。思い当たらないうちに、相手が口を開いた。


 「推測でしかありませんが」

 「構わない。教えてくれ」

 「利輝様に成り代わり、藤野家の当主になろうとしているのだと思います」


 廊下を足音が近付いた。弥由が、一志から預かった書類を携えて訪れたのであった。

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