6 最初の疑念
「いいえ。向坂と青柳の方へは私の見解を伝えてありますが、弥由が半信半疑といったところです。御先代様にもお話だけは致しましたが、ご理解いただけたかどうか」
「つまり」
「つまり、私と当人以外は、利輝様が実の妹を手篭めにしたと思っているということです。尤も、分析をお願いした一志殿については、証拠の客観性という意味で、そのように思ってもらっていた方が、後でこちらに有利に働く可能性があります。血中に証拠が残っていればの話ですが」
影正は淡々と告げた。利輝は前後の記憶がはっきりしないせいもあって、守護人が言うように本当に己は悪くないのか、自信が持てなかった。
前々からの予定で優輝の車を車検に出した。戻ってくるまでの間は恵梨花に事務所まで送迎してもらった。
事務所へ着いてから、忘れ物を思い出した。家へ電話しようとして、出がけに恵梨花がそのまま買い物へ行くと言っていた事も思い出す。
「気晴らしに花鈴も連れて行こうと思ったのだけれど、まだ外に出たくないって言うから。家に残すのも心配だし」
「母がいるから心配ないよ」
妻を思いやって優輝は言ったものの、事件以来、和江にあまり頼れなくなったと感じていた。なおさら、一人で家事を切り盛りする妻を家に閉じ込めておく訳にいかなかった。
「よかったら、私の自転車を使ってください」
考え込んでいるように見えたのか、事務の女性が言うので、ありがたく拝借することにした。自転車に乗るのは久しぶりのことである。最後に乗ってから、十年以上経っているかもしれない。外の空気を直接肌で感じる気分のよさに、優輝の頬が自然と緩んだ。
家の門をくぐると、案の定、和江の車だけが残っている。玄関の引き戸には鍵がかかっていなかった。部屋へ行って忘れ物を取ったついでに、家の中をざっと見て回る。
和江は自室で居眠りしていた。背中がやけに小さく見え、声をかけるのも躊躇われた。起こさないよう、そっと離れる。
花鈴の部屋へ行くと、入り口の戸が少し開いていた。どきりとした。恐る恐る覗いた部屋に娘の姿はない。トイレかもしれない、と自らに言い聞かせながら、忍び足で向かう。気配はない。
思い切って開けると、やはりいなかった。風呂場にもいない。つい最悪の状況を思い浮かべていた優輝は我知らずほっと息をつく反面、不安も募った。
台所にもいない。まさかと思いつつ、利輝の部屋へ向かう。離れに続く廊下で、遂に花鈴と出くわした。
「花鈴。もう、そんなに出歩いても大丈夫なのか」
安心半分、つい声が大きくなった。花鈴の顔色が心なしか悪いように見えた。優輝の問いに、娘はぎこちなく微笑んだ。
「大丈夫よ、ありがとう父様。それより」
「何だ」
花鈴が歩き出したので、優輝も歩いて離れから遠ざかった。娘の表情を見た途端に、微かに兆した疑念は完全に霧散した。刺激しないように、娘が口にする言葉を待った。
「兄様、あのまま帰っちゃったの?」
躊躇いがちに尋ねた。優輝は危うく涙ぐみそうになった。未だに利輝に怯えているのだ。血を分けた兄というのに、と思うと不憫でならなかった。利輝は青柳家で蟄居している。
すぐに東京へ戻したいのは当人も含めて全員が望んでいることではあったが、帰省したばかりですぐ帰京すれば、近隣に怪しまれるかもしれないとの影正の判断に優輝も同意して、留まらせていた。
利輝の荷物は既に影正がまとめて持ち去っており、離れに息子が立ち入る危険はない。帰ったと断言してやれず、その上すぐ目と鼻の先にいるとは娘に言いづらい。
「もう家には来ないから、花鈴が心配することはないんだよ」
力を籠めて言ったものの、花鈴の顔は晴れなかった。俯いて、考え込んでいるようにも見える。優輝は黙って娘に付き添った。
「あの部屋、誰か掃除してくれたのかしら」
「入ったのか」
さすがに優輝も驚いた。危害を加えた相手の部屋へ、不在を確かめもせずに入るとは、あまりにも無防備、と注意しかけ、妹が兄の部屋へ入ったからと言って咎められない、と思い返し、娘が可哀想になった。父の気持ちを知ってか知らずか、花鈴はわざとらしく笑ってみせた。
「ほら、あの部屋、お祖父様の御本があるでしょう。学校の宿題でどうしても見たい本があるんだけれど、まだ外へ出かける気にはなれなくて、持ってきてもらおうと思っても誰もいないみたいだったから。心配かけてごめんなさい」
話しているうちに萎れ、両手で顔を隠すようにする。優輝は慌てた。
「父さんにいつでも電話してくれれば、取りに行ってやるから、無理しなくていいんだよ。部屋はきっと、母さんが掃除してくれたんだよ」
慰めようにも、手で触れてよいものか、戸惑いがあった。花鈴が過剰に反応して拒否するかもしれない。結局触れることができなかった。
「あなた、花鈴のマグカップを知らないかしら。うさぎ柄の?」
さっきから食器棚からカップを出したりしまったり、落ち着かない様子で立ち働いていた恵梨花が、とうとう優輝の方を向いて尋ねた。食器の触れ合う音がいつまでもかちゃかちゃと神経に障るので、そろそろ注意しようと思っていたところだった。娘の名前を掲げられると、優輝の気もたちまちそぞろになった。
「さあ。見た覚えがないなあ。奥に入り込んでいるんじゃないのか」
言いながら腰を上げて、もしや妻が見逃しでもしたのではないかと食器棚を覗き込む。ことあるごとに増殖したカップ類は整然として、求める物は見当たらなかった。奥にある小さいカップなどは底しか見えない。
「私も確かそこにあったと思って探したんだけれども、どこにもないの。珍しくコーヒーを飲みたいって言うから、新しいカップに入れてあげようと思ったのに。花鈴、あれを気に入っていたでしょう。確か、展示即売会で一目惚れしたのよ」
恵梨花も落ち着かないのは、何かのきっかけで娘が壊れてしまうのではないかという不安からである。ともすると、花鈴よりも母親や祖母の方がひどい打撃を受けているように感じられることがあった。
「花鈴が使ったまま、自分の部屋に置き忘れているのかもしれないな。最初の頃、よく自分でコーヒーを入れて持って行ったじゃないか」
恵梨花はその推論に飛びついた。
「そうだったわね。とりあえず他のカップに入れて、部屋へ行った時に探してみるわ」
妻の後ろ姿を見送りながら、優輝は記憶に何かがひっかかるのを覚えた。ぬるくなったお茶を啜った途端、閃いた。利輝の部屋にマグカップがあった、と青柳影正が言っていたのだ。
花鈴が加害者であるという証拠が出るかもしれない、と。
影正は利輝こそが被害者であると言っていたが、その後常に打ちひしがれた花鈴が姿を晒していることもあって、その一件はすっかり記憶の底に沈んでいた。
芋づる式に一つの光景が蘇った。人気のない時を見計らったかのように、花鈴が離れの方から歩いてきたことがあった。あれは学校の宿題を借りに行ったと言っていたではないか。
また閃いた。その時、花鈴は手に何も持っていなかった。あっと思った。
「まさか」
かつて立った法廷の場面がフラッシュバックした。被告の青ざめた顔をまざまざと思い出す。巧妙に組み立てた論理を崩された瞬間の表情が、何故か花鈴と重なった。
花鈴はマグカップを探しに行ったのではないか。しかし既に、影正が引き上げていた。
優輝は実際、そのカップを見ていない。最初に飛び込んだ時点でカップが部屋にあったかどうかすら覚えていない。花鈴が入った時、カップが離れになかったことは確実である。食器棚も探したかもしれない。だが見つからなかった。
それで娘は母が別の場所へ片付けたかもしれないと考えて、コーヒーを飲みたいと言ったのではなかろうか。
花鈴が何故マグカップにこだわるのか。利輝が花鈴お気に入りのカップに飲み物と薬を混ぜて飲ませた、という証拠を青柳家の守護人が主のために隠滅するのなら理解できる。
問題のカップを買ったのは、利輝が正月を家で過ごして帰京した後のことである。今回息子が帰省してから事件が起こるまで、そのカップは使われていない。
初めて見たときに、うさぎ柄のそれを花鈴のカップであると推測するのは、難しいことではないかもしれない。
しかし恵梨花も言っていたように、最近カップは奥の方へしまいこまれていた。表からぱっと見ただけでは、新しいカップがあることまではわからない筈だ。
すぐ出せる場所にいくつも適した容器があるのに、あるかどうかもわからない物をわざわざ探すだろうか。目当ての物を取り出すまでに、誰かに見咎められる可能性も高い。
利輝が花鈴のカップを持ってうろつけば目につく。他方、花鈴が自分のカップを探すのは自然である。
それにもし、利輝が花鈴にコーヒーを入れたのなら、花鈴の部屋へ持ち運ぶのが自然な動きだろう。
もちろん普段の言動から考えて、妹は兄を部屋へは入れまい。邪悪な意志を持ってコーヒーに薬を入れた兄は、逆らわず時間を見計らえばよいのだ。実際に事が起きたのは、妹ではなく兄の部屋であった。少なくとも花鈴は利輝の部屋へ自ら出向いている。
優輝の胸に湧き出した黒雲はたちまち一面に広がった。すぐに頭を振る。
いつか目にした裁判記録を思い起こす。被害者が加害者を自ら部屋へ招いた故を以て全ての行為に合意があったと認定できないと同様に、被害者が加害者の部屋へ自らの意志で赴いたからといって、合意があったと決めつけることはできない。
すなわち、花鈴が利輝の部屋へ自分から行ったとしても、それだけで利輝の無罪は成り立たない。利輝が策略を用いて誘き出したかもしれないのだ。
まるで無害に見えた利輝が、狙い済まして豹変したとしても筋は通る。力で花鈴は利輝に敵うまい。
マグカップなどまるで関係ない。それが残っているために、花鈴が困る理由があるだろうか。
いくらお気に入りでも、自分で取りに行く必要はなかろう。恵梨花にでも頼めばよい。
例えばカップに薬が入っていたとして、それが何の証拠になるというのか。被害者である花鈴が気にする理由はない筈である。それに致命的な証拠が残っているのだろうか。また頭を振る。
あの時花鈴は既に本を読み終えて、返したところだったかもしれない。マグカップを探しに行ったとは限らない。
どうしても必要な物があれば無理に持ち出すとして、元へ戻すためとはいえ、自ら二度も加害者の部屋へ行けるものだろうか。しかもその時点で、相手の所在を知らなかったのに。
次から次へと思いもよらない考えが浮かぶのを止められない。気がつくと掌に汗をかいていた。優輝は汗の滲んだ掌を見つめた。またぞろ疑問が頭を持ち上げた。