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利輝と影正  作者: 在江
第七章
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5 秘められた傷

 二人とも、わざと肝心な言葉を避けている。脅しという単語まで飛び出しているのに、優輝には端緒すら掴めない。椅子の中で動けずにいる事が、ひどくもどかしかった。


 「守護人は死ぬ前に引継ぎを行います。影久(かげひさ)も儀式の後、私に全ての記憶を引継ぎました。和影(かずえ)様はお館様になられ、守護人の生をまっとうされなかったので、最期のしきたりについてご存知ないのも仕方ありません」


 守護人同士の引継ぎの話は、優輝も影正から聞いて知っている。母は守護人からお館様(やかたさま)になったため、引き継ぎを受けなかったのだ。



 「死ななければならないことは、知っていた。私が伯父上を死なせた」


 父の日記に記された一節が、鮮やかに蘇った。


 「引退は死を意味する」


 優輝はそこから守護人の因習を手繰り出し、影美の引退から死を取り除いた。


 母は初めから知っていた。知りながら、優輝に教えなかった。優輝にとっても大伯父に当たる青柳影久を死なせ、影美をも見殺しにするつもりであったと言う。確かに、それは殺人に等しい。


 今や優輝は完全に目が覚めた。しかし、目も開けず、椅子から動きもしなかった。話の流れからして、目覚めたことを二人に知られてはならない。


 「いいえ。和影様は、ご自分が守護人に命じられた儀式を覚えていらっしゃいますか。あの時、影久は自ら引退を止めました。許可を与えたのは一輝(かずてる)様でしたが、先ず発言がなければ従来通りとなった筈です。つまり、彼が死にたくなかったならば、私が守護人を命じられた儀式でも、再び引退を止めればよかったのです。本人は引き継ぎで、もう充分生きたと申しておりました。決して、和影様のせいではありません」


 影美の声は、温かく聞こえた。


 「お前は優しいところもあるのね」


 母にも影美の温かさが伝わったようであった。頬を緩める様子が目に浮かぶ。すうっと息を吸い込む音が聞こえた。短い沈黙の間に、すっかり空気が入れ替わった。


 「伯父は常に冷酷だった。私は物心ついた時から、あの人が恐ろしかった。あの夏、あの人に()()()()後も、憎むより恐ろしさが増した。一輝様と結ばれ、人からお館様と呼ばれる身分になっても、伯父が生きている限り、あの記憶から逃れられない。いつまでも体に棘が刺さっているようだった」


 「一輝様の亡きあと、日記を見つけた。引退すれば確実に死なせることができると知ってからは、儀式が待ち遠しかった。そして、本当に伯父は引退後すぐに死んだ。猟銃の事故。お前は一緒にいたと聞いている。あれは、自分で撃ったのよね」


 部屋の空気が急に下がった。殴られたように、頭がくらりとする。椅子から腰が浮くのを、必死で堪える。

 今だけは絶対に、絶対に二人の注意を引いてはならない。


 母がこれほど重大な秘密を抱いて生きてきたことに、優輝は気付かなかった。

 否、一度は気付いたのだ。父の日記によって。だが、影美に否定され、それを信じた。信じた方が楽だった。

 利輝と花鈴の事件が起きた時、母がひどく取り乱した理由は、ここにあったのだ。


 影美は、全て知っていて、優輝に教えなかった。若かりし日の所行が走馬灯のように蘇り、冷や汗が滲む。女絡みの問題を起こす度に、一体どんな目で見られていたことか。

 優輝の懊悩をよそに、母の告白は続く。


 「でも、あの人が死んでも忌まわしい記憶は消えなかった。よりによって、私の血を継いだ利輝と花鈴があんなことを。私が死なない限り、いつまでも、何度でも、あの記憶は蘇って私を苦しめる。一体、伯父は孫の代にまで祟るような酷い仕打ちをしでかしておきながら、どうして平然としていられたのかしら。やっぱり伯父が憎い。生きている間は恐ろしかったけれど、死んだ今は憎しみばかり」


 「和影様。気を落ち着けてください。体に障ります」

 「今更、体の心配をしても遅いわよ」


 それでも影美の言葉で、母は落ち着きを取り戻したようであった。それは優輝も同様である。気が緩み、冷や汗で湿った掌を、拭いたい衝動に耐える。


 「影久は、和影様になさった事を悔やんでおりましたよ」


 ぽつり、と影美が言った。沈黙が続く。


 「話して」

 「長くなりますよ」

 「話しなさい。いえ、知りたいの。教えて」


 「影久は、戦地から生きて戻りました。主の輝重(てるしげ)様は戦死なさいました。初めてにして、二度と体験したくもない狂気の高温と湿気と飢えに晒されながら、輝重様は藤野家の当主にふさわしい態度を貫き通されました。またそのことが、輝重様のお命を縮める遠因となり、影久の命を救う一因ともなったのです。戦地の様子で和影様がお聞きになりたいのは、むしろ利也(としや)お祖父さんのことでしょうね。生憎、離れた部隊へ配属になったので、利也さんの最期は私にもわかりません」


 利也は母の父で、出征して戦死した。母は父の顔を知らない。()()の母は戦後再婚して、杏次郎(きょうじろう)を産んだ。孤独感が仕える主に父性を見出したのか。

 優輝の父一輝も父親を戦争で失っている。父親不在という境遇の共通性が、二人の距離を縮めたのか。しかし当時、似た境遇の子は他にも大勢いた筈だ。やはり親密な主従関係が元となっているのだろう。


 「和影様が一輝様の守護人を命ぜられた時、影久が引退を拒んだのは、死にたくなかったからです。戦地で主を失い、悲惨という言葉でも足りないほどの死を目の当りにし、地獄をくぐり抜けてまで生き残った。たとえ八百年余続いたしきたりに逆らおうとも、生きながらえた命を自ら捨てたくなかったのです。決して、和影様の能力が劣っていたせいではありません。生き延びよ、とは、輝重様の御遺言でもありました」


 「そうだったの」

 「一輝様が儀式の時から和影様に並々ならぬ想いを寄せていたことに、影久は気付いておりました。和影様の方は守護人としてお仕えされていたので、影久も幼き恋と安心しておりました」


 「ところが、年を追う毎に一輝様のお気持ちは深まり、その想いに応えるように和影様は美しく成長されました。自分が伝統を破っただけに、影久はこれ以上伝統を崩してはならない、と焦ったのです」


 「一輝様が和影様を正式に妻として迎えようとお考えであることを、影久は見抜きました。主と守護人が婚姻することは、藤野家と青柳家の関係を根本から覆すほど重大な問題でした。いよいよ猶予ならぬと判断した影久は、和影様に考え得る限りで最も惨い仕打ちを致しました。戦地で見聞きした情景が記憶の底にありました。義務感で自分を駆り立て、夢中で致しましたが、直後から自己嫌悪に悩まされました」


 「その事が却って一輝様のお気持ちを頑にさせる結果を招いたことを考えても、後に和影様が一輝様のお子を身ごもらねばならない身分となったことから考えても、あれほど深く和影様を傷つける必要はなかった。影久のしたことは、人間としては勿論のこと、守護人としても間違いでした」


 「守護人として誤ちを犯すことは、影久にとって死と同様に辛いことでした。辛さのほどは、守護人であった和影様にも、少しはご理解いただけるかと思います。和影様が今でもお心を痛めていらっしゃると知れば、改めて影久はさぞかし悔やむことでしょう」


 影美は語り終えて沈黙した。母も口を開かない。長い話である。病人には聞くだけで体力を消耗するだろう。優輝も疲れを感じた。誰かが身動きする音がした。


 「ではあの事は、他に誰が知っているの」


 長い回り道をして、母は話を元へ戻した。その口調は、先ほどと違い、随分柔らかく聞こえた。


 「向坂のご隠居夫妻と一志さんはご存知でしょう。私の父、杏次郎(きょうじろう)も薄々勘付いていたと思います。後は、私と影正です」

 「影正にまで話したの」


 母の懸念は、優輝にも理解できた。利輝と花鈴の事件を、影正がどのように見たか、気になるのだ。母の心配は杞憂である。影美が優輝に対して沈黙を守ったように、影正も余計な事は言わずに務めを全うするに違いない。


 「引継ぎですから」

 「嫌な習慣ね。私は、守護人の勉強が大嫌いだった」

 「お察しします。一輝様の日記を処分なさるべきでした」

 「いいえ」


 やけにきっぱりと、母は言った。


 「優輝が一輝様の日記を見つけなかったら、儀式の後すぐに、お前は死んだに違いない。そうしたら、私は死ぬまで猜疑に悩まされなければならなかった。だって、あの時お前はすっかり死ぬつもりでいたもの。そうでしょう、影美?」


 影美の答えはなかった。優輝は、影美が苦笑したのではないかと思った。それだけの間をおいて、母が口を開いた。


 「優輝は知らないのね」

 「はい」


 母は、優輝に聞こえるくらい、長く息を吐いた。


 「よかった。それだけが心残りだったのよ」

 「お疲れでしょうが、最後に一つ、お伺いしたいことが」

 「いいわよ」

 「和影様は、向坂家へ養子縁組をなさってから、藤野家へ嫁がれました。日常では、名前に影の字を使わずにお過ごしです。それほどまでに守護人であった痕跡を消す努力をなさったにも関わらず、何故戸籍の名前を変更しなかったのですか」


 優輝も、それは聞きたいところであった。確かに手続きは面倒であるが、弁護士などに頼まずとも、自力でできないほどではない。


 「養子の話は、お義母様とお義祖母様がなさったことよ。あの方達は、当時そこまで思いつかなかったのね。優輝が生まれて、ずいぶん経ってから、戸籍のことを聞かれた。もうその時には、日常生活に差し支えないことがわかっていて、子育ての合間にするには手続きも面倒だったし。でも一番の理由は、一輝様にとって、私は元の和影だったということ。戸籍をいじることは、あの方との思い出を消すことになると思ったの」


 「理解しました。お答えいただき、ありがとうございます」


 影美が口を開くまでに、少し間があった。それから、人の立ち上がる気配を感じる。


 「では、これで失礼します」

 「私は少し寝る。疲れた」

 「お休みなさいませ」

 「影美」

 「はい」

 「私、伯父を許せるかもしれない。死ぬまでには」

 「はい」


 優輝の脇を通り過ぎる時、影美が一瞬立ち止まったような気がした。首を巡らすことはできなかった。

 すぐに扉の開閉する気配が伝わった。影美はほとんど音もなく立ち去った。


 過ぎ去れば、全てが夢の出来事にも思われた。

 優輝は目を閉じたまま、動かなかった。


 長い時間が過ぎた。母の寝息を確かめ、漸く身動きを許した時には、体がすっかりこわばっていた。

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