8 ままならない
花鈴は顔を上げることができなかった。視線はスマートフォンに固定したままであった。相手の視線が頭に突き刺さるように感じられた。
急に、口の中から喉にかけての水分が干上がり、声を出すのが難しくなった。喉に痛みを感じながら、花鈴は言葉を絞り出した。
「うん。でも、今はだめ。できない。ごめんなさい」
宇宿の指から力が抜けるのが分かった。滑り落ちるように、花鈴の腕から離れていく。花鈴は電話ごとハンドルを握り、足で地面を蹴った。
宇宿は追ってこなかった。花鈴の頭の中で、宇宿と楠根が抱き合ってキスしている場面が繰り返し再生された。
抱き合うまでは一瞬なのに、抱き合ってからは時間が止まったように二人はいつまでも離れなかった。
背を向けていた筈の宇宿の顔に、利輝の顔が重なった。
花鈴のペダルを漕ぐ足が止まった。上から見下ろした兄の表情は、苦悶に満ちていた。花鈴は暗闇に目を凝らした。
利輝が父から殴られたこと、両親と話し合って家を追われたことが次々と思い出された。
一方で、楠根が宇宿を抱き寄せたのか、その逆なのか、気になるのにどうしても思い出せなかった。
いずれにしても、花鈴は楠根の邪魔をする権利を持たなかった。それだけは確かなことであった。
惰性で走っていた自転車の速度が落ち始めた。
花鈴は、機械的に足を動かした。帰宅後、足を擦りむいていたことに気付いた。
傷口からは、血が滲んでいた。
夏休みに入り、弥由はアルバイトを変えた。週三日、平日の昼間にレストランで働き、残り四日は一日限りのイベント手伝いといった短期間のバイトを探すことにした。
清掃のバイトは辞めた。夜のバイトに反対していた次由が歓迎したのは予想通りであったが、会社からも慰留されなかったのは意外で、弥由は寂しく感じた。
都会では働き手が多い。弥由一人辞めたぐらいでは、痛くも痒くもないのだろう。
夜のバイトを辞めて、大学の講義がなくなった分まるごと暇になったかというと、そうでもない。
夏休み中にすることはたくさんあった。休み前の試験が終わってほっとする間もなく、休み明けにも試験が待ち構えていた。
試験勉強は高校の時と同様にすればよいとして、大量のレポートや制作物を、一夜漬けで仕上げることはできない。
小学校の自由研究や図画工作以来の課題である。小学生の時には、父母が手伝ってくれたものであるが、まさか大学生にもなって両親の手を煩わす訳にもいかない。
煩わせたくとも、二人は遠く離れた場所にいた。何よりも、課題は弥由が就職するために必要な訓練であった。自力でできないようでは、父にそれみたことかと揶揄される。
大学の課題の他にも、利輝のバンド“Regal Mazy Myths”のドラムパートを練習しなくてはならなかった。お披露目会の主催者とも引き合わされた。
弥由の通う大学でも少数派の、黒ずくめの一団を目にした時には、正直なところ、怖じ気づいた。
しかし話してみれば、親しみやすい人達で、終いには影正と利輝をそっちのけにして、衣装の話で盛り上がった。
彼女達が着る服は、専門の洋品店でしか売っていないそうで、見るからに凝った造りであった。中には服飾学校に通う友人に頼んで作ったという人もいて、弥由の興味をそそった。
バンドの衣装を作れたら面白いとは思ったが、今の弥由の技量で、影正や利輝の分まで作るのは無理であった。衣装よりも、ドラムの習得が先である。
音楽専門学校の短期コースで基本を学んだ後は、ひたすらライブで演奏する曲を練習した。
影正から携帯ドラムセットを借りて、アルバイトが終わった後、次由が戻るまでの間、毎晩部屋でイヤホンを付けてスティックを動かした。
バイトがない日、利輝の都合がよければ三人で一緒に練習し、影正から指導を仰いだ。
一人で練習している時には結構上達したつもりでも、実物のドラムセットで演奏してみると、思うような音がでなかった。
影正も利輝も根気よく弥由に合わせてくれた。二人とも、自分のパートは申し分なく演奏できる。
事の成否は、弥由次第なのである。吹奏楽で一人前に演奏した記憶がまだ新しいだけに、弥由は申し訳なくも悔しくもあった。
忙しい日々が続く中、八上から映画に誘われた。土下座事件後、弥由は次由の目を盗んでは八上と幾度か会って食事をし、手をつなぐところまで関係を進めていたが、夏休みに入ってから連絡を取る機会が極端に減っていた。
八上に対する気持ちに変化があったせいではなく、ドラムの練習にのめり込んでいたせいである。
「やっと会ってくれて、嬉しいな。嫌われたかと思った」
待ち合わせの場所で弥由を見つけた八上は、ほっとした様子で言った。野外練習を重ねたものか、前に会った時よりも日に焼けた色をしていた。
「そんなことないよ、全然」
八上の上機嫌な顔を目にして、弥由はたちまち次由の不機嫌もバンド活動も忘れた。
早速、映画館へ向かった。映画を見るのは久々である。つないだ八上の手の感触と相まって、弥由は高ぶる気持ちを押さえられなかった。
映画は洒落たフランス映画で、話の筋はともかく登場人物の服装や小物使いなど、弥由にはそれなりに楽しめた。
八上の選択肢にこうしたお洒落な部分があると知って、驚きつつも得した気分であった。映画を見ている間、八上がずっと手を握っていたことも、一層弥由の胸をときめかせた。
映画館を出た後、細い路地を通った場所にある喫茶店に入った。
都会には、抜け道としか思えない道にも立派な店があった。
ボリュームのあるケーキをつつきながら、弥由は映画の感想を八上と楽しくお喋りした。八上は嬉しそうに頷いていた。
店を出る頃には、まだ空は充分に明るいけれども、人の流れやネオンなどが、どことなく夕暮れを演出していた。夕食には早いし、もう八上と別れなくてはならないと思うと、弥由はもの悲しくなった。
「弥由ちゃん。俺、本屋へ寄りたいのだけれど」
八上が尋ねた。弥由は喜んで後を付いていった。一緒に行く理由はない。八上もまた、折角会えた弥由との別れを惜しんでいると思うと、嬉しさのあまり、弥由は八上の立派な僧房筋を叩いてやりたくなった。
二人が入った本屋は書籍や雑誌ばかりでなく、CDやDVDも置いていた。二人は一緒に格闘技のDVDを品評しながら売り場を回り、並んで空手やプロレスの雑誌を立ち読みした。
雑誌売り場には立ち読みする男性客が多く、通路を狭めていたので、弥由はことさら八上に寄り添った。冷房の効いた店内で、八上の体温が心地よかった。
店員が棚の整理に来て立ち読み客を追い払った。二人は何も買わずに店を出た。さすがに夏の日も暮れて、街にはネオンがきらびやかに瞬いていた。
「弥由ちゃん、お腹空いた?」
弥由は首を振った。先ほど、ケーキとミルクティーを平らげたばかりである。立ち読みぐらいでは消化し切れない。
八上は落ち着きのない様子で、歩き始めた。弥由が帰る駅とは反対方向である。腹ごなしに散歩して、夕飯を一緒に食べようとしているのだと弥由は解釈した。
次由の帰りは遅いので、今部屋へ戻っても夕飯は一人で食べることになる。八上と夕食を共にできるなら大歓迎だった。弥由は八上と手をつないで、物珍しく辺りを眺めながら歩いた。
通学やアルバイトの行き帰りで通ることがあっても、気ぜわしくて街の景色などほとんど頭に入っていなかった。今改めて見ると、美味しそうな店や可愛らしい店が立ち並んでいる。
いつの間にか裏通りに入り込んでいた。街灯の他に、ところどころひと際目立つ灯りが、居酒屋やブティックといった店の存在を窺わせる。待ち合わせか、道端にたむろする人達もいた。一人で通り抜けるには、勇気が必要だった。
弥由は自然、八上の腕に取りすがるようにして歩いた。
八上がぴたりと足を止めた。辺りは暗く、アパートやせいぜい店の裏口が並ぶばかりである。弥由は夕食の店を見落としたかと頭を巡らそうとして、もの凄い力で塀に押し付けられた。勢いで後頭部も塀にぶつかる。
逆光で、八上の表情が読み取れない。と、ぶにゅぶにゅした物が唇に当たった。
反射的に目を閉じた。あ、これってキスかしら。何か変な感じ。こんな道端で、誰かに見られたら恥ずかしい。どうしよう。考えの欠片がぽんぽん飛び出し、痺れた頭の中を駆け巡る。
八上か自分か区別できない激しい鼓動を感じながら、弥由はなされるがままでいた。
気持ちがよいかどうかも分からなかった。長い時間の後、八上は漸く弥由を解放した。まだ頭がじんじんする。
どんな顔をしてよいのかわからず、弥由は表情を見られないよう俯いた。図ったように、男が一人、こちらをじろじろ見ながら通り過ぎた。八上が差し出した手を、弥由は握り締めた。
「俺、本当に弥由ちゃんのこと、好きだ」
八上は急に決然とした足取りになり、力強く言った。弥由は声も出せず、頷くのが精一杯だった。
喋ろうとして、上唇と下唇が互いに触れると、妙な気分になり、言葉を発することができなかった。
八上が弥由の頷きを見ていたとは思えないが、返事を気にするようでもなかった。裏道をずんずん歩き、再び八上の足が止まった。
まだ、とても夕飯を口にする気にはなれなかった。顔を上げた弥由の目に、ピンクのハートに囲まれたHOTELの文字が飛び込んだ。一気に視界が広がり、ご休憩・ご宿泊の明朗料金まで拡大された。
「いやっ」
思い切り振りほどいた手が、すっぽり抜けた。弥由は自分で上げた声に驚いて、その場で棒立ちになった。八上もまた、呆然と突っ立っていた。
「弥由ちゃん」
八上が両手を前に、一歩踏み出した。弥由は回れ右をした。
「ごめんなさい!」
弥由の声が八上に届いたかどうか、怪しかった。もう一度、弥由を呼ぶ声が遠く聞こえたが、弥由は止まらなかった。本能のまま走って大通りへ出、人々にぶつかりながら謝りもせずにひたすら走った。
視界をよぎった駅の入り口に路線も確認せず走り込み、階段を下り切って漸く足を緩めることができた。
振り返ったが、八上が追ってくる様子はなかった。
ホームに出ても、弥由の動悸は静まらなかった。後頭部に痛みを感じ、何気なく当てた手に、ぶくり、とこぶを感じた。
「どこまで予想していたのか知らないが、安易に衝動に任せないよう気を付けなさい」
影正の言葉が蘇る。主にはお見通しだったのだ。
周囲の誰も彼もが、自分の失態を知っているようだった。
弥由は、帰りの車中でずっと身を縮めていた。地元の、車も人も通らない長い通学路が懐かしかった。誰にも見られない場所で、声をかぎりに叫びたかった。




