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利輝と影正  作者: 在江
第一章
5/65

5 目覚めた後

 「何のお話でしょうか」


 今度は影正が問い返した。優輝の心理を読み取ったように、皮肉めいた口調に聞こえた。

 話が逸れるのを承知で、優輝は彼の守護人だった者の名を繰り返した。


 「影美は、どうしている」


 利輝の守護人に、僅か逡巡が生じた。しかしすぐに表情を改めた。その間に足はそろそろと退却を始めている。


 「死んだものと、お考えください」

 「俺は死ぬなと命じた筈だ」


 優輝は咄嗟に動いて、相手の腕を掴んだ。

 思いがけない動きであったのだろう、影正の顔に驚きが走った。記憶にある影美の顔と二重写になる。

 優輝はその記憶に気を取られ、知らず掴んだ指の力を抜いた。

 既に冷静さを取り戻していた影正は、隙を逃さなかった。するりと腕を抜く。再び掴むだけの気力は、優輝にはない。


 「どうか落ち着いてください。先代はご命令通り、死んでおりません。余計な事を申したようです。私は利輝様の守護人です。御当代様のことについてはご心配なさらないようお伝えしたかったまでのこと。失礼します」


 今度は止める間もなく、影正は姿を消した。後に残された優輝は、暫くその場で気を静めなければならなかった。

 どうにか現在の問題に頭を切り替えると、守護人の言葉を思い起こしながら、改めて息子の部屋を見回した。


 部屋は、事件があった時そのままの状態に見えた。あの時は逆上していた。全ての物を覚えている自信などない。

 現に、影正が回収したというマグカップが、果たして前回部屋へ入った時に存在していたのかどうか、確たる記憶はない。


 本棚に視線を移す。父一輝の代からほとんど変化のない段がある。教科書に出てきそうな文学本を収めた箇所である。


 優輝は仕事に関係のない本は読まない質で、利輝も父ほど極端ではないにしろ、やはりさほど利用していないようであった。


 一部に暗い空間がある。本が一冊抜き取られていることに気付いた。前後の本を見比べ、念のため他の棚も探して確かに欠けていることを確かめる。それは島崎藤村の本であった。



 花鈴が目覚めると、盆に載せられた食事の傍らで、母の恵梨花がベッドにうつ伏していた。

 そっと半身を起こしても動かない。布団に埋もれて顔は見えないが、眠っているのだろう。ずっと付き添っていたのだろうか。


 母は眠っていてさえ遠慮がちに見えた。

 恵梨花の実家は町中にある。普通の家であった。

 父の優輝とは見合い結婚だと言っていた。嫁いでくるまで、このような旧弊な慣習に縛られた家が存在することなど知らなかったろう。


 恵梨花も花鈴と同じ犠牲者である。盆の上を見て急に空腹を覚え、花鈴は音を立てないように盆を持ち上げた。

 粥も麩入りのみそ汁も、すっかり生温くなっていた。

 あっという間に食べ終えた。空腹が満たされたところで、仕事を思い出す。


 花鈴は部屋を見渡した。どのくらい眠っていたのだろうか。置き時計の向きが悪くて文字盤を読む事ができない。

 母を起こさぬよう布団から足を抜き出したが、さすがに恵梨花が顔を上げた。

 髪は乱れたまま、化粧気のまるでない顔はひどく(やつ)れていた。僅かに笑みを浮かべる。余計に悲しげな表情になった。


 「母さん、眠っちゃったのね。ご飯食べられたのね、よかった。冷めちゃったでしょう。起こしてくれたら、温かい物を持ってきたのに。他に食べたい物ある?」

 「ううん。あんまりお腹すいていないの」


 花鈴は首を振った。全部平らげておいてお腹すいていないも何もないものであるが、恵梨花は疑うよりも納得したように頷いた。花鈴は頭の中で状況をざっと復習してから、顔を俯け、わざと小さな声で尋ねた。


 「兄様は?」


 恵梨花がはっと息を呑んだ音がした。花鈴は表情を悟られないよう、息を詰めて顔を伏せていた。ここで適切な表情を作れるか、自信がない。


 「心配ないわ。この家にはいないから」

 「そう」


 思わずほっと息をついた。

 邪魔な兄を追い出した。兄が家にいないのならば、他の家族は当分部屋に入らないであろうから、仕事は後でゆっくりすればよい。


 恵梨花は、花鈴が怯えていたと解釈したらしい。外敵から守るように、娘に手をかけた。今後の予定に考えを巡らせ、母の動きに気付かなかった花鈴は、反射的に手で払いのけてしまった。


 「ごめんなさい。驚かすつもりじゃなかったのよ」


 そういう恵梨花の声が涙ぐんでいる。花鈴は、不意に込み上げてきた笑いの発作を抑えるのに苦労した。顔をますます母から背けるようにする。脇腹が痛い。


 「母様、ごめんなさい。少し、一人になりたいの」


 声を押し殺してどうにか言ったのを、自分と同じく涙を堪えていると思ったのか、恵梨花の声は破綻寸前だった。


 「何か、あったら、すぐに呼んで、ね」


 部屋を出る前から忍びやかな嗚咽が始まった。扉が静かに閉められ、乱れがちな足音が遠ざかるのをじっと待った。発作はすぐ喉元まで来ていた。息が苦しい。

 花鈴は布団を頭から被り、入り口に背を向け、体を折って存分に笑った。部屋の外に漏れても構わなかった。仮令(たとえ)誰かが聞いたとして、泣き声と区別がつかないと踏んでいた。



 利輝は目覚めるとすぐ、影正の整った顔を目にした。

 東京に戻って来たのだと思った。実家へは結局行かなかったのだ、そうでなければ悪夢のような出来事、まさに悪い夢だった、それはどんな悪夢だっただろうか、とまで考えた途端、生々しい記憶が怒濤の如く押し寄せて来た。


 「あっ」

 「利輝様、お目覚めですか」


 影正の声が、記憶の波を押し返した。利輝が飛び起きると、顔を覗き込んでいた守護人は、器用に主人との距離を保った。

 青柳家の影正の部屋だった。和綴じの本に見覚えがある。利輝は暫く影正の顔を見つめていた。現実の感覚を取り戻すまでには尚、時間がかかった。


 「影正、僕は、その」


 口を開いたものの、言葉がでてこなかった。何を言ったらよいのか、そもそも判らなかった。この場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。逃げ出すには体が重過ぎた。無表情だった守護人の顔が、やや和らいだ。


 「向坂一志殿が来てくださったのを、覚えておいででしょうか」

 「え、一志小父さんが」


 靄がかかったようなすっきりとしない気分で、利輝は記憶を辿ろうとした。嫌な記憶は意識して脇にどけようとした。そのせいか、求められている場面がさっぱり浮かばない。ぼんやりとした人影の記憶ばかり出てくる。遂に首を振った。


 「そう言われれば、いたかもしれない」


 影正の表情が曇る。そこで利輝は、青柳家に来てからの出来事を説明された。一志と弥由が来て、鎮静剤を打たれ丸一日眠っていたということだった。

 説明を終えると影正は沈黙した。今度は利輝が話す番だと促されているようだった。粘つく泥と化した脳みそを、無理矢理回転させる。


 「僕がここへ来た事情を、君はどんな風に知っているんだ」

 「利輝様は、どのように了解なさっていらっしゃいますか」


 返答に詰まった。考えるだにおぞましい事実を口に出すには、ひどく苦痛を伴った。


 「僕は、花鈴と、実の妹と」


 最後まで言い切ることができなかった。体の奥からどす黒い塊がせり上がってきて、利輝は口元を押さえた。手際よく差し出された洗面器が視界一杯に広がったのを認識して、顔を器に突っ込み、塊を解放した。


 実際出たのは、粘つく胃液ばかりであった。刺激臭が更なる吐き気を呼ぶ。

 利輝は洗面器を両手で抱え、吐き続けた。呼吸が苦しかった。できることなら内蔵を手繰って引きずり出したかった。しまいには胃液も枯れて、唾液が糸を引いた。


 どうにか収まったのを見計らったように、濡れタオルが差し出されたので口を拭う。じっと見守っていたらしい影正と目が合った。整った顔立ちからは、一片の同情心も見出せなかった。

 突然、利輝には守護人の求めるものがわかった。静かに深呼吸をし、腹に力をこめた。


 「僕は花鈴と、性行為をした。どういう具合にしたのか、どうしてそんなことになったのか、まるで覚えていない。覚えているのは、花鈴が僕の部屋へ話しに来て、コーヒーをもらって飲んだことまでだ。気がついたら終わっていた。僕は達していて、花鈴の中へ出していた。花鈴は笑いながら、僕があいつの下で果てた、と言った」


 「それから花鈴が着てきた服を自分で破いて悲鳴を上げて、両親と祖母が駆けつけた。父は僕を殴った。僕は混乱して、いや、気がついた時から混乱していたのだけれど、とにかく逃げ出してここへ来た」


 「僕は、これまで花鈴を妹として可愛く思っていたし、可愛がろうと努めてきた。だからといって妹とセックスしたいなんて思ったことはない。今回帰省して急に女の子らしい格好をしていたのを見た時にはびっくりしたけれど、それで欲情した覚えもない。自分ではそう思っていたのに、どうしてこんなことになったのか、今もわからない」


 「結構です」


 無表情で利輝の話に耳を傾けていた影正が、ここで漸く微かな笑みを浮かべた。誰かに褒められても決して認めないが、この男は己の顔の価値を承知している。

 少なくとも、それがもたらす効果を熟知している。守護人から与えられた僅かな温もりに、利輝はたちまち力が抜けて泣きそうになった。


 主の威厳を保つべく、こんな状況で威厳を云々するなど問題外だと思いつつも、どうにか涙を堪えた。利輝の葛藤をよそに、影正は続けた。


 「利輝様が混乱なさったのも無理のないことです。言うなれば、罠にかけられたのです。ですから、利輝様が罪を感じる必要はございません」

 「でも、もしそうだとしても、花鈴を傷つけた事には違いないし」


 守護人の表情が改まった。


 「いつか傷つけた事があったかもしれませんが、今回の、利輝様となさった事で傷ついていないのは確実です」

 「どうして」

 「彼女が仕組んだことだからです」

 「どうして」


 利輝は馬鹿みたいに繰り返した。再び混乱に取り巻かれようとしていた。守護人は主の心情を敏感に察知し、言葉を継いだ。


 「何故仕組んだのか、理由は本人に訊くのが確実です。どのような手段を使って行ったのかというと、持ち込んだコーヒーに薬を混ぜて利輝様の意識を奪ったのです。一志殿に血液分析をお願いしてありますし、他の証拠物件も伝手を辿って分析してもらいます」


 いかにも司法試験を目指す法学部生らしく、証拠物件などという言葉が出てきた。わざと非日常の言葉を使って、事件を客観視させようとしたのかもしれない。しかし、利輝が気に留めたのは別の点だった。


 「他の皆も、花鈴が僕を襲ったと思っているの?」

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