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利輝と影正  作者: 在江
第六章
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5 検査結果

 診察室を出た恵梨花は、気が咎めるほどに落ち着いていた。和江は看護婦に誘導されたのか、やや離れた場所にある椅子で待っていた。


 「やけに長かったけれど、入院手続きって、そんなに面倒なのかしら」

 「手続きはそんなに面倒ではないのだけれど、ベッドの空きがないから、今からすぐに入院することはできないのですって。だから、それまでの間、家で過ごす場合に気をつけなくてはいけないこととか、教わっていたの。主に食事と運動ですね。あと、早く入院して治したかったら、別の病院を紹介するとも仰いました」


 ぎくりともせず、さらりと応じることができた。昨晩、夫から概要を聞いていたおかげでもある。

 これが実の母親であったら、正直なところ、同じ態度を取ることができるとは思えない。現に夫は、かなりショックを受けた様子であった。

 今日、仕事で席を外さざるを得なかったのは幸運だった。もし同席していたら、最期まで知らせずに済ませたくとも、できなかったろう。


 和江は、胆嚢癌であった。かなり進行しており、手術で患部だけを取り除くことは難しく、また高齢のため手術に体が耐えられないかもしれないとのことであった。体の負担が少ない最新式の手術や、費用は全額自己負担になるが、新しい治療法を試したければ、上京した方がよい。

 向坂一志が紹介した医師は、自分の病院にこだわらず、様々な選択肢があることを恵梨花に説明した。


 「入院したくないなあ。お義母様みたいに、畳の上で死にたいわ」

 「お義母様ったら、気の早いことを。少し入院するだけの話じゃありませんか」


 和江は恵梨花の言葉が耳に入らない様子であった。昔から丈夫な質だっただけに、病院に入院すると聞いただけで、もうだめだと決め込んでいるようだ。或は、夫の臨終を思い出したのかもしれない。


 恵梨花の舅に当たる一輝は、白血病で若くして亡くなった。やはり急に倒れて、わかった時には手遅れだった。それでも今の時代であったら、もう少し何とかなったかもしれない、とこれも昨夜夫が口にした思いである。


 「死ぬ前に一度、影美と話したかったなあ。あの子まだ、生きていたよねえ」


 姑の言葉に、恵梨花は思いがけずどきりとした。


 「え? ええ、多分」


 幸い和江は、そこで口を噤んだ。あれこれ物思いに耽っているようであった。


 恵梨花もまた、思い出したことがあった。もう、随分昔の話である。

 事の発端は、郵便物であった。

 隣家の住人である、青柳影美宛の郵便物が紛れ込んでいたのである。青柳家宛の郵便物がとり紛れることは、これまでにも時折あった。


 そして偶々、和江宛、しかもお役所からの書類と見えて、戸籍名である和影と書かれた郵便物もあったのだ。

 何気なく二つの宛名を並べた恵梨花は、初めて名前の相似に気付いた。姑の名前が本当は和影であることは、記憶を辿れば、承知している筈であった。


 影美が元弁護士で、優輝の守護人にして従兄妹であることも知っていた。

 ただ姑は「かずえ」と読み、従兄妹は「えいみ」と読む。これまで姑の正式名称を書く機会もなく、影美とは結婚前からほとんど顔を合わせなかったので、二人の名を同時に目にする機会がなかった。


 それでも、これまで気付かなかったのが不思議であった。


 恵梨花は何となく、姑の名前を発音から「和江」のように思い込んでいた。何故なら、普段姑は、自分の名前を書かねばならない時、そのように書いていたからである。郵便物の宛名も、「藤野和江」と書かれてきちんと届いていたし、病院の診察券さえも和江で作られていた。

 戸籍上の正式な表記は和影でも、日常生活の大体のところで、姑は和江として過ごしていた。


 影の字は、糞や血といった漢字よりは汚らわしい印象を持たないが、意味を考えれば人名に使うのは珍しい。姑が影の字を嫌って、画数も少ない江の字を使うのも、自然なことと恵梨花は感じ、正式な方を失念していたのである。


 昔と違い、名付けに当たり、読み方を優先して漢字の意味合いを気にしない親は増えている。とはいえ、姑が生まれた時代に、この鄙びた地でそうした気風があった、とは信じられなかった。

 狭い土地に同じ漢字を名に持つ者が二人もいる。地域独自の言い伝えでもあろうか。


 恵梨花は、三人目の影を思い出した。利輝の守護人の名は、影正であった。

 急に動悸を感じ、胸に手を当てる。しかし和江の旧姓は、向坂である。恵梨花はどのように考えてよいものか、わからなくなった。しなければならない家事は山のようにあるのに、到底手をつけられない。


 折よく和江は留守だった。恵梨花は、大姑に当たる福の部屋へ足を向けた。

 当時存命だった福は、濡れ縁との境を開け放ち、縁側に座布団を敷いて日向ぼっこをしていた。居眠りしていたのか、恵梨花の気配に応じて、はっと面を上げた。


 「ああ、恵梨花さん。あんまりお日様が気持ちよいものだから、ついうとうとしてしまったわ」


 福はにこにこと孫の嫁を見上げた。日頃から温厚な人柄である。そのまま、相手が口を開くまで待つ風情だ。恵梨花は、福の前に正座した。


 「お義母様の名前と、優輝さんの従兄妹の名前が似ていることが、ちょっと気になって、お祖母様がご存知のことでもあれば、教えてもらおうと思って」


 「まあまあ。そんなところへかしこまったら、足を痛めるわ。座布団を持ってくるから、楽になさい」


 福が立とうとするのを恵梨花は止めて、自分で座布団を運び、言われた通り楽な姿勢で腰を下ろした。福は孫嫁の動きを追い、落ち着いたところで尋ねた。


 「まず、どうして気になったのか、話してごらん」


 そこで恵梨花は、郵便が紛れていたところから考えたことを順番に話した。福は話が終わるまで、じっと耳を傾けていた。


 「なるほどねえ。恵梨花さんが不思議に思うのも無理のない話ね。誰も隠すつもりはないのだけれども、あんまり当たり前過ぎて、説明する機会がなかっただけなのよ」


 「和江さんは、確かに一輝の守護人だった。影美さんには伯母に当たるの。つまり、和江さんの弟さんが、影美さんの父親で、だから優輝と影美さんは従兄妹なのよ」


 福は恵梨花の無知を嗤うことなく、優しく説いた。


 「ではどうして、お義母さんの旧姓は向坂なのでしょう」


 恵梨花は問いを重ねたが、聞く前から答えがわかっていた。考えを話しているうちに、自分で話の整理ができていた。


 「青柳家から向坂家へ養子に入ったからよ。一輝はもうその時分、病が重くて負担をかけたくなかったから、私とお姑さんが両家と相談して決めたの」


 「その時、一緒に改名もしたら良かったのだけれど、これは和江さんに相談なしにはできないでしょう? 漢字だけ変えるのか、違う名前にするのか、すぐに決まるとも限らないし」


 「他にも色々慌ただしかったし、また別に手続きするのが大変だったしで、ようやく落ち着いた頃には、今になってわざわざ変更して人目に立つのも嫌だと、和江さんも言うし、普段違う字を使っても郵便届くでしょう? 不便もないから、そのままにしたのね」


 紛らわしいことをしてごめんなさいね、と福は言った。恵梨花はもちろん福を責めるつもりがなかった。気になるのは、優輝のことであった。


 藤野家の当主と守護人の結びつきは、非常に強い。それが男女の間に結ばれるとなれば、一線を越えた関係に陥ることも充分に考えられる。現に、優輝の両親は結婚までした。


 恵梨花は法律を知らないが、従兄妹同士で結婚するなどおよそ考えられない。血縁関係は、間違いなく優輝と影美の間に一線を引いている。


 京都に恋人がいたという話も、優輝から聞いた。しかし、影美が結婚した噂を未だに聞かない。

 果たして本当に恋人はいたのか。


 藤野家の食卓では、青柳家の話題は出ても、申し合わせたように守護人には触れない。恵梨花自身、夫の背後に透けて見える従兄妹の気配を、幾度となく消そうと努めた。


 もしかしたら、優輝が浮気をしないのは、恵梨花に対してではなく、守護人に対する誠実さの現れなのではなかろうか。普通に考えれば馬鹿馬鹿しくとも、藤野家の嫁となった恵梨花には恐ろしい疑惑であった。


 恵梨花は疑惑を心の中に畳み込んだ。とても夫に確かめる勇気はなかった。日常は表面上何ごともなく、そして二人の子を得て慌ただしく過ぎ去った。確かめなくてよかった。


 突飛な疑問は、気ままに振る舞えた親元を離れて、旧習に縛られた家に嫁し、いきなり姑と大姑と同居することになった精神的圧迫がもたらしたとも言える。


 夫にかつて守護人がついたことも、意識の外へ追いやっていた。


 今頃になって、しかも姑の口からその名前が出るとは思いもよらなかった。

 影美は青柳家を出て十数年になる。その行方はまるで知れず、生死すら定かでない。


 和江の問いに肯定で応じたのも、葬式を見ていないから、多分死んではいない、という推測である。


 恵梨花は落ち着かない気持ちで車を運転した。和江が恵梨花の様子を見て、やはり死病なのだと確信を深めることも気がかりであったが、心の揺れはどうしても治らなかった。

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