8 めぐる噂
帰路、ついコンビニエンスストアへ足が向く。花見に行って以来、ついぞ足が遠のいていた。
いつ行っても異母妹の楠根が一緒であることがわかっていたし、スマートフォンの番号を教えてからは、時折宇宿からかかってくる電話で直接話す機会があったためでもある。
花鈴からは、どうにも家にかけることに躊躇いがあって、未だに電話をかけたことがない。
宇宿が番号を知りたがった気持ちがよくわかったし、教えて良かったとも思っていた。
やっぱり止めようか、と思った時には駐輪場へ自転車を乗り入れていて、怪しまれず引き返すには遅過ぎた。花鈴は店に入った。
「いらっしゃいませ」
楠根の声がした。花鈴は、店内を見回したい気持ちに打ち克って、まず入り口にいた楠根に挨拶した。
「こんにちは」
「叙恩なら辞めたわよ」
店内を一周しかけた花鈴は、背中から浴びせられた言葉に振り返った。楠根は、にやにやと嫌な薄笑いを浮かべていた。ここ暫く宇宿から電話はなく、初耳である。
「そうなんだ。知らなかったわ」
楠根の表情に対抗したくて、花鈴はできるだけ明るく言い捨てて、店の奥へ進んだ。奥に引っ込んででもいるのか、宇宿ばかりか他の店員の姿もない。早く店を出たかったが、こういう時に限って買いたいと思えるような物がまるで見つからない。
何も買わずに出れば、それこそ宇宿に会いに来たと楠根に解釈されそうで、先程の薄笑いを見た花鈴には、そう思われることだけはどうしても我慢がならなかった。
大して食べたくもない新製品の菓子を手に取ってレジへ向かう。母や祖母とのお茶請けに差し出せば、喜ばれると思ったからである。楠根は手ぐすね引いて待ち構えていた。
「あんた、叙恩と二人でどこかへ出かけたでしょう」
差し出した商品を手に取りもせず、花鈴を睨む。元が愛くるしい顔立ちだけに、余計に憎悪が強調された。
花鈴は宇宿の異母妹からあからさまな憎悪の感情を感じ、心がざわついた。なるべく平然を装って相手を見返す。
「お会計してくれないかしら」
「隠したってだめ。叙恩の事なら、寂凛はね、ちゃあんと知っているのよ」
楠根は自分の感情に囚われて、花鈴の内面の揺れにまで気が回らない様子である。花鈴はあくまでも強気で押し通すことにした。姿は見えなくとも、店内には他の店員もいる筈で、防犯カメラもある。
相手の感情に流されて乱暴な行動をとれば、それこそ楠根の思うつぼに嵌ってしまう。
「お会計してくれないなら、買うのを止めるわね」
チッと舌打ちした楠根は、ピッと機械に値段を読み取らせた。
そのまま商品をしっかりとにぎりしめている。中身が潰れそうである。
花鈴は構わず、機械に表示された金額を見て財布を覗く。なるべくお釣りの少ないよう選んだ小銭を台に置いても、楠根は受け取ろうともせず、商品を渡しもしなかった。
「寂凛はね、叙恩がとっても好きなの。すっごく愛しているのよ。あんたにも、お兄ちゃんがいるんだってね。だったら寂凛の気持ちもわかるでしょ。誰にも叙恩との仲を邪魔されたくないの。特にあんたには。これからは、絶対叙恩に近付かないでよ」
私から宇宿に近付いてはいない、という台詞が花鈴の心に浮かんだ。楠根の険しい顔を見て、言っても無駄と悟った。
「お金はここにおいたわよ。商品を渡してくれないのなら、帰るわ」
釣り銭を貰えないのは高校生の花鈴が持つ金銭感覚では痛手であったが、この際仕方がなかった。花鈴は財布をしまうと、踵を返した。
「……野郎!」
閉まりかけた扉の隙間から、罵声に続いて何かが当たる音がした。花鈴が買った菓子と思われた。扉の外へ出たら拾おうかと一瞬思ったが、音の具合からして内側へ落ちたようだった。
花鈴は振り返らず、店の中も見ないようにして自転車に飛び乗った。こんな時に限って、自転車のチェーンが空回りし、チェーンが外れたのではないかと冷や汗が出た。
すぐに元へ戻り、ペダルの踏み応えを感じて安心する。
楠根が追ってくるような気がして、必死に漕いだ。振り返った途端に楠根が現れそうな気もして、振り返りたいのに振り返ることができなかった。
その夜、宇宿からスマートフォンに着信があったが、花鈴は電話に出ることができなかった。
世間は黄金週間と呼ばれる一大連休中であるが、向坂医院は休日診療の当番が二度入ることになって、遠出の計画もない。
連休をカレンダー通りに堪能できないのは、毎年のことである。子ども達が幼い頃は、無理をして短期間ながらもあちこちへ出かけたものであったが、一志も年をとって体力が衰えるし、子ども達も成長するにつれて親より友人と遊びたがるようになり、段々と家族揃った小旅行の機会は減った。
医学部へ進学した息子達はなかなか帰ってこない。弥由も高校生になってからは、吹奏楽の活動に加えてアルバイトに精を出し、親と出かけたがらなくなった。
この春上京した弥由が帰宅すれば、久々のことだからドライブでも温泉でも一緒に出かけるだろうと内心楽しみにしていた一志は、金が勿体ないから帰らないという娘の身も蓋もない言づてを聞いて不機嫌であった。
往復の旅費ぐらい出してやるから帰って来い、と喉元まで出かかった。
面倒をみるのは学費だけ。生活費は自分で稼げ、とは一志が出した条件である。今更引っ込みがつかない。いくら何でも、まだひと月足らずしか経っていないのに約束を違えるようでは、父親の威厳も台無しである。
そんな折り、隠居生活を楽しむ両親が、趣味仲間と東京へ旅行に出かけたので、一志はますます面白くなかった。両親は孫達に会いに行った訳ではないのだが、それはそれで腹が立つ。
そんなに近くまで行きながら孫の顔も見ないで遊び歩くとは何ごとだ、という心境である。ここまでくれば、立派な八つ当たりであった。
「藤野の花鈴ちゃん、男のお友達ができたみたいよ」
いつもさりげなく爆弾を投げ込む妻が、今日もまんまと寛ぐ一志を驚かせた。差し当たり生返事をして平気を装ったが、漫然と眺めていた医学雑誌の見出しすら、もう頭に入らなくなった。
一志は雑誌を閉じた。タイミングよく、妻が入れたてのお茶を差し出す。芝居は見破られていた。
「男友達って、どんな男だ」
受け取った湯呑みに口をつけ、テーブルに置くと今度は苺を勧められた。
妻はのんびりとした態度を崩さない。焦れったいことこの上ない。
「中学の同級生ですって。私は知らないんだけれど、離婚してずっと母子家庭みたい」
「ふうん。まあ、互いに好きならいいんじゃないの」
それが弥由の相手ではないので、一志も公平な見方を示すことができた。これが弥由の話であれば、たとえ相手が非の打ち所もない好青年であっても、素直に交際を認めないであろうことには、自信があった。
再び一志の手が雑誌に伸びた。
「それならいいんだけれど」
妻の話は終わっていなかった。
「相手の男の子、他の女の子とも付き合っているみたいよ。同じ高校の同級生で、アルバイトも同じ店で、いつも一緒に帰っているんですって。花鈴ちゃんも知らない筈はないんだけれど、反動で自棄になっているのかしら」
「ああ」
ここまで話を聞いて、一志にも妻の言いたいことが呑み込めた。妻は、花鈴が利輝に強姦されたことで自棄になって相手構わず交際しているのではないか、と心配しているのである。看護師の妻は一応の成り行きを知っている。
一志は妻に何と答えたものか、わからなかった。その件について、弥由は利輝が被害者だ、と始めから主張していた。弥由は主である影正の意見を受け売りしただけと思われたが、ともかく花鈴が加害者であるという見方が当初からあった。
常識で考えて、一志はもちろん信じなかったが、血液検査の結果は一志の予想を裏切っていた。しかも、密かに結果を知らせた優輝の反応にも、釈然としない部分があった。
その後、誰も何も言ってこないので、こちらから敢えて尋ねるのも波風を立てるようで遠慮があって、一志は努めて事件を忘れるようにしていた。
必要な時は、カルテを確認すればよかった。結局、どちらが加害者でどちらが被害者かは、一志の中で曖昧にされている。花鈴が被害者であれば、妻の言うような行動をとることも考えられる。無茶をして更に傷口を広げないためにも、例えばカウンセリングを受けさせるといった処置を講じるべきである。
花鈴が加害者であった場合はどのように考えるべきであろうか。
年頃の娘である。事件によって傷を負わなかったならば、恋愛を始めても不思議はない。二股をかけられていると知った上で関係を断てない大人も、世の中には大勢いる。
相手にうまく騙されているか、夢中になり過ぎて盲目状態か、或はそういう嗜好なのかもしれない。
いずれにしても医者の出る幕ではなく、家庭で対処すべき問題である。こういう土地柄であるから、手遅れになる前に話は優輝達の耳にも入るであろう。
花鈴が加害者であった場合に、もう一つ考えなければならない事態がある。花鈴が兄の利輝を襲ったのではなく、特定の条件を持つ男を襲ったとすれば、ジャック・ザ・リッパーのように次々と獲物を追う可能性があるという事である。
この場合の特定の条件とは外見ではなく、例えば二股をかけるといった、花鈴にとって許せない悪事を働いたというような行動が基準になっているかもしれない。利輝が花鈴を犯したのでなければ、他にどんな悪い事をしたのか想像もつかないが、そこは兄妹だけに火種には事欠かないであろう。
一志にも美奈と双海という弟妹があって、外から役割分担を決められていたせいか、兄弟仲はほどほどによかったと記憶しているが、患者の噂を聞けば、近しいだけに、一旦憎悪の火が点くと却ってもつれるのはよくある話であった。
すると花鈴が加害者であっても、やはり何らかの対処を考えた方がいい。
「一度、折りをみて優輝くんに話してみた方がいいかな」
「そうしたらいいんじゃない。ちょうど、連休中だし」
どのような思考を経て出た言葉とも知らず、妻は賛意を表した。
ついでに体よく夫を追い出して、独りでのんびりする腹積りであることは、一志にも察せられた。だてに長年連れ添ってはいない。