4 過去の記憶
向坂一志の運転する車の助手席で、弥由はぶつぶつと文句を言い連ねていた。
「もう私だって来年は高校三年生になるんだから、子ども扱いしなくたっていいでしょう。大体、影正様が気を遣ってくれたのをいいことに、連れ帰るぐらいなら、最初から『儀式』の時にきっぱり断っておけばよかったのよ。うちの娘は守護人にお仕えさせませんって」
「一兄ちゃんはともかく次兄ちゃんまで医学部行っちゃうから忙しくて、ろくにお仕えできない代わりに私が頑張っているのに、水を差すようなことしないで欲しいわ。そもそも今回の件は利輝さんの方が被害者だっていうのに」
「それは影正が言ったのか」
娘の不満を聞き流すように無言でハンドルを握っていた一志が、青柳家を出て以来初めて口を利いた。
弥由は聞いてもらいたくて話していたには違いないものの、相槌のないことに慣れたところだったので、はっとした。
「被害者とまでは言ってなかったけれど、まあそんなような事は言っていたわ」
「ではどうして、お父さんが利輝を加害者扱いしたのに、反論しなかった? どうしてお前を連れ帰ってもいいと言い出した? お前の言う通り、今更気を遣われる謂われはない」
弥由は答えられなかった。
「京都の叔父さんを覚えているか」
一志は急に話を変えた。
「双海叔父さんね。中学の修学旅行以来、会っていないなあ」
「あいつは先代の守護人に惚れていた」
はあ、と弥由はわざとらしく声を上げた。話の矛先がまるで掴めなかった。
「でも結婚したのは違う人でしょ。あのさ、私は別に影正様に惚れたりしないから、くだらない心配しないで欲しいんだけど」
「お前の男の趣味が悪いのはわかっている」
と、一志はあっさり娘の筋違いを切って捨て、抗議の暇も与えず続けた。
「双海は自分の胸一つに収めたつもりでいるが、あれは先代が守護人の務めを全うするために、身も心も利用されたのだ。先代は冷たい女だった、と和江叔母さんもこぼしたことがある。影正は先代の甥に当たるが、お父さんが見たところ、性質はそっくり受け継いでいる」
「青柳家の守護人というのは、藤野家の御当代様を守るためには何でもするものだ、ということをお前に覚えていて欲しい。お前を守るのはお前自身しかいないんだぞ」
車内を沈黙が支配した。聞こえるのはカーエアコンが冷たい空気を吐き出す音だけである。向坂医院の看板がヘッドライトに照らし出された。
「青柳家の御先代様のことは知らないけど」
弥由が考え考え口を開いた。
「影正様が本当に自分の仕事しか考えない冷たい人だったら、私をあの場へ残すために、もっと上手な嘘をついたと思うな」
車が停まった。一志は娘の言葉に応えなかった。
藤野優輝は娘を妻に任せた後、母和江の様子を見に行った。花鈴は向坂一志に鎮静剤を打ってもらったので、当面起きる心配はなかった。今のうちに眠っておくよう恵梨花に諭したのだが、側にいたいと聞き入れなかったのである。
和江は和江で、降って湧いたような災厄に、孫に劣らずひどく取り乱した。それでいて、往診に来てくれた向坂一志が鎮静剤を打とうとするのを敏感に察し、頑に拒んだので、差し当たり部屋に寝かせておいたのである。
灯りの消えた部屋の中、母は布団へ仰向けになって目を見開いていた。古希を越えたとは思えない若さを日頃自慢していたのが、今夜はよほどひどい衝撃を受けたと見えて、一気に老け込んで見えた。
「一輝様」
父の名を耳にして、優輝は言葉を飲み込んだ。暗がりに現れた息子の輪郭を夫と思い込んだようであった。心ここにあらずの体である。驚かさぬよう、そっと枕元へ座った。母はまだ人違いに気付かない。
「青柳の血が。私のせいで」
「母さん」
和江は、思わず遮った優輝の声にびくりとした。涙で頬が濡れ光っているのを、優輝は手で拭ってやった。
「母さんのせいじゃない。俺の育て方が悪かったんだ。ごめんよ、辛い思いをさせて」
「お、お前のせいじゃ、ないよ」
和江は嗚咽を堪えているのか、途切れがちに言って、息子の手を握った。小刻みに震えていた。優輝は花鈴に怪我がほとんどないことを告げ、とにかく休むよう促して母の部屋を出た。これほど母が弱々しく見えたことに胸を突かれた。
和江の旧姓は向坂であるが、生まれながらの姓は青柳で、つまり母は優輝の父一輝の守護人であった。
守護人がその主と結婚するのは想定外の出来事であった。そこで母は、一旦向坂家へ養子に入ってから藤野家へ嫁入りしたのであった。
優輝が生まれる前に、父は世を去った。優しい祖母を立てながら、気丈に振る舞う母の姿ばかり見てきた優輝にとって、父に縋り付かんばかりの心細い母の姿を見るのは、意外な心持ちがした。
それに、いつもお父さんと呼び倣わしていたのを様付けで呼ぶのを聞くと、やはり母は父の守護人だったのだ、と改めて納得した。
養子の件に端的に表されているように、和江は守護人の出であることを日頃から隠そうと努めていた。戸籍こそそのままだが、通称名も影の字を避けて和江と称しているのである。むしろ戸籍を変更しなかったのが不思議なくらいだった。
自らも眠気は全く感じないものの、優輝は自室へ戻って休むことにした。家族全員が倒れてしまっては、狭い村落に噂の種をばらまくようなものである。
この事件を外に漏らす気はなかった。仕事柄、こうした事件の『被害者』が受ける傷については知悉している。神経質な性質の花鈴を、これ以上傷つけたくなかった。
しかも犯人もまた自分の息子である。
どうあっても、世間から隠さねばならなかった。
灯りが視界に入った。離れの電灯が点け放してあるようだった。あの騒ぎの後では、誰も電気を消すことに思い及ばなくとも無理はない。
優輝は暗い渡り廊下を通って離れに向かった。近付くにつれ、忍び足になる。扉を開けたら、再び悪夢のような光景が出現するような気がした。
人の気配すら感じられた。離れの前で足を止め、深呼吸をしてから一気に扉を開いた。
「こんばんは」
夢幻と思い違えそうなほど、顔立ちと肢体の整った青年が立っていた。
青柳影正、利輝の守護人である。
優輝はひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。危うく悲鳴を上げるところであった。影正は体にぴったりとした黒尽くめの服を着て、手袋まで嵌めていた。
背中に小型のリュックをつけており、脱いだ靴を片手に提げている。
「君が点けたのか」
「いえ。始めから。帰る時にどうすべきか迷いました。消しましょうか」
「ちょっと待て」
優輝は帰りかけている影正を手で留めた。あまりにも平然とした相手のペースに巻き込まれかけていた。どうやって侵入したのか、何故ここにいるのか、どこまで知っているのか、聞きたい事が山ほどあった。
「御当代様は青柳家でお預かりしております。一志殿に鎮静剤を打ってもらいました。今は眠っております。東京へ戻るまでの間、私どもの家に滞在することになるでしょうから、日を改めて御当代様の荷物を取りに伺います」
口を開く前に影正が答えた。優輝はまず一安心した。恵梨花も和江もそこまで気が回らなかったが、万が一利輝が錯乱したまま警察へ駆け込んだり、最悪の場合自殺するかもしれない、と密かに案じ、部屋へ戻ったら守護人と連絡を取るつもりでいた。正直なところ、息子が飛び出した事を思い出したのもつい先ほどだったのだが、自分の経験からも、彼が先ず守護人の元へ駆け込むであろうことは、予想がついていた。
娘を傷つけた罪人であろうとも、息子には違いない。優輝の様子を見て取ったのか、今にも去ろうとしていた影正の態度が微妙に変化した。
「御先代様の弁護士としての冷静さを恃みに、少しお時間をいただいて、この件に関する私の見解をお話ししたいのですが、お許しいだたけますか」
「いいだろう」
優輝は頷いた。影正が事件の概要を把握しているのは確実であった。どのみち、守護人には知っておいてもらわねばならなかった。
利輝が話したのだろう。自らの恥までよく打ち明けたものである。息子と守護人の堅い信頼関係に、優輝は瞬時羨望を覚えた。
「心を落ち着けて、最後まで聞いていただきたいのですが」
何故か影正は躊躇った。
「まず結論から申しますと、これは御当代様の仕業ではなく、花鈴さんが御当代様に仕掛けた罠です」
予め弁護士として、と影正に釘を刺されていなかったら、とてもじっとしていられなかった。逆上しかけた血流を、優輝はどうにか押し下げた。
「証拠が?」
「残念ながら、今のところは相当に不利と言わざるを得ません。しかし幸運なことに、御当代様のお話通り、マグカップが見つかったので、残りを分析すれば何か出るかもしれません。鎮静剤を打たれると知って、花鈴さんは暴れませんでしたか」
「確かに」
優輝は、訳もなくどきりとする。しかし、すぐに反論を思いついた。
「一志さんは鎮静剤を打つと言わなかったから、花鈴には何を打たれるかわからなかったんじゃないかな。母さんは察して嫌がったけど」
「大お館様が。それは無理もないでしょうね」
影正が考え深げに頷いた。優輝は話をしているうちに、大分平静さを取り戻した。
「ところで、マグカップがあったから、どうだと言うんだ。利輝が薬を入れて花鈴に飲ませた、つまり衝動ではなく……くっ、忌々しいことだが、計画的な行動と証明されるだけだろう。君はそうした証拠を隠滅するために来たのか」
「いいえ。実際何があったのかを知るために来たのです」
相手は即答した。見慣れた筈の整った顔立ちが、急に優輝の心に迫った。脈拍が早くなる。優輝は湧き上がる過去の記憶に蓋をした。
「御当代様にそのような嗜癖があるのならば、二度と同様の問題を起こさぬよう解決策を探る必要があります。隠蔽すれば済む問題ではありません。先代が予備校時代の女遊びを大お館様から隠蔽したのとは、訳が違います」
「何だって?」
「客観的な証拠を保存するために来たのです」
影正の言葉は優輝の耳を素通りしていた。記憶の蓋がごとごとと音を立て始めた。加害者も被害者も自分の子、という事件から目を背けたくてたまらなかったところへ、格好の餌が撒かれたようなものであった。
「影美が話したのか」