3 利輝の守護人
青柳影正は、ほぼ意識を失った主、藤野利輝を抱えて道場に隣接する部屋へ戻ると、スマートフォンを取り出した。
「こんな夜中にどうしたんですか、影正様。まさか、御当代様の命令ですか」
「一志殿はまだ家にいるのか」
若い女の声は寝起きの不機嫌さを残していたが、影正の言葉で一気に目が覚めたようであった。
「えっ? はい。御当代様に何かあったんですか。あ、うちの電話が鳴っている」
「話は後だ。一志殿が出るのを止めてくれ。次由さんは大学だったな」
「次兄ちゃんは、当分帰りません」
慌ただしく移動する様子を伝えながら、相手が答える。影正は続けて口早に指示をして、電話を切った。
主を見下ろす。利輝は相変わらずぐったりとしている。かろうじて意識は保っているものの、茫然自失の体であった。
影正は部屋の中を見回した。壁という壁が本で埋め尽くされている。古本屋が食指を動かしそうな和綴じ本や年季の入った洋書が目立つ。小卓が一つ。
部屋の様子は、十の歳に伯母である先代から引き継いだ時と、ほとんど変わっていない。余分な物が何一つない。影正が立ち上がろうとすると、それまで抜け殻と化していた利輝が、急にすがりついた。
「ご心配なく。すぐに戻ります」
声をかけても、利輝は顔を伏せたまま影正にしっかり取りついている。影正は再び腰を下ろした。暫く力のこもっていた腕が緩むのを見計らい、主人に話しかけた。
「もうすぐ弥由が来ます。私はお部屋へ行って、利輝様のお話を確かめようと思います。どうかご心配なさらずに」
利輝は弥由の名前を聞いて体を固くしたが、諦めたのかすぐ脱力した。
間もなく、道場の戸がそろそろと開閉される音が聞こえ、部屋の戸が開いた。
立っていたのは花鈴よりやや年長の若い女で、腕の一点をしきりに指の腹で撫でていた。
「途中までしか車で来られなかったから、蚊に食われちゃったわ」
向坂弥由は部屋の中を一瞥すると表情を引き締め、後ろ手で戸を閉めた。
利輝の足元へ勝手に座り、影正を見る。恐ろしいほど整った彼の顔も、幼い頃から見慣れた彼女には何ら特別な影響をもたらさない。ただ自分の主の言葉を待っている。
「一志殿は」
「藤野家を往診中です。終わったら、こちらへ来るように頼んであります。例の採血も、適当に言い繕ってくれるそうです」
「よろしい」
影正は一旦言葉を切って、利輝を見た。弥由の存在に不安を感じたのか、自失状態から緊張状態に移り変わっていた。大して広くはない部屋の隅で懸命に身を縮めている。影正は視線を戻した。
「何と言って呼び出されたか、聞いたのか」
「はい。あちらでは理由を言わずに、とにかく内密に急いで来てくれ、ということでした。後は影正様からのご指示と併せて、何となく診察の種類は察したようでした。相手はともかくとして」
弥由は利輝に冷めた目を向けた。利輝はじっとして動かない。
「なるほど。お前も同じ推測を聞いた。それは、お膳立てされた見方に過ぎない。私には別の見方がある。弥由、無理強いはしない。次由さんが不在だからやむを得ず頼みはしたが、女のお前に、今回の件は荷が勝ち過ぎるだろう」
影正は表情を動かさず、静かに言った。弥由の顔つきが変わった。
「私は影正様にお仕えする者です。どうかご信頼ください」
僅かな沈黙の後、影正は利輝から聞き出した断片的な事柄を弥由に話した。弥由は真剣に耳を傾けた。
「恐らく、御当代様は一服盛られた。それゆえ向こうの採血を依頼した。一志殿が来られたら、こちらも採血して検査してもらう。その後、私は現場に何かしらの証拠が残っていないか確かめるつもりだ。私が戻るまでの間、御当代様に付き添っていて欲しい。できるか」
「お任せください」
返答には一片の迷いもなかった。表に車の止まる音がした。影正の目顔に応えて、弥由が席を立った。間もなく細身の男を先に立てて戻ってきた。
白衣を着て黒鞄を提げている。一見して医者とわかる格好である。ただし白衣の下は、常の彼らしからぬラフな服装で、事の慌ただしさを表していた。
影正は、すっと立ち上がって一志を出迎えた。
「無理を聞いていただきまして、感謝します」
「先に採血しようか」
一志は影正の挨拶に片眉を上げて応えると、ずかずかと利輝に近付いた。弥由の姿が消え再び抜け殻になっていた利輝は、事の展開についていけないのか、体を強張らせる暇もなく、呆然としてされるがままになっていた。
二人の話はまるで耳に入っていなかったらしい。一志が手早く準備を整える間、影正が膝をついて利輝の体を押さえた。利輝は抜き取られる血を他人事のように眺めていた。一志は採血を終えると続けて針を利輝に打ち込んだ。
「少し眠った方がいい」
思いがけず温かい語調に、利輝は初めて目が覚めたように一志を見上げた。その目がみるみる潤み、焦点を失った。
姿を消していた弥由が部屋に入ってきた時には、利輝は既に二人の男の手で布団へ寝かされていた。
小卓は脚を畳んで押入れにしまわれたが、さすがに布団を敷いた余白へ三人も座れば手狭である。弥由は濡れ布巾を手にしていた。
「勝手に持ってきちゃった。足が汚れていたから」
「ありがとう。後で拭く。本当は、風呂に入れてから寝かせたかったのですが」
「あんな様子では無理だろう」
濡れ布巾を受け取った影正へ、一志がぶっきらぼうに答え、どかりと胡座をかいた。日頃の紳士的な印象に似合わぬ振る舞いであった。弥由もやはり勝手に座る。影正は利輝の枕元に座り、向坂父娘を見やった。
「彼女の様子はどうでしたか」
「幸いなことに、ほとんど無傷だったな。もちろん、精神的なショックは大きいだろう。鎮静剤を打つ時、抵抗されたよ。恵梨花さんが付き添って、今は眠っている。差し当たり他にできることはない」
「全く、とんでもないことをしてくれたものだ。和江叔母さんまで参っていたぞ。あれでは優輝くんが大変だ。一由がいれば手伝いにいかせるところだ」
「一兄ちゃんを当てにしたって、仕方ないじゃない」
影正の見解を先に聞いている弥由が言う。一志は診察を終えてもなお、利輝が花鈴を襲った、との見方を崩していない。怒っている。
医師として、どうにか平静な表情を保っているだけである。父親として、娘の弥由をこの場に置くことも怒りの一因に違いなかった。
「二人の採血をお願いしたのは、今回の一件で、薬品が使われた可能性があるからです。どんな種類の物なのか、現時点では手がかりは全くありませんが、催眠作用がある薬品であることにはまず間違いないと思います。血液中に成分が残っているかもしれないので、調べていただきたいのです」
薬品と聞いて、一志の表情が険しくなった。利輝に走らせた視線には嫌悪が滲み出ていた。鎮静剤が効いたものか、利輝は彼の視線にはまるで気付かず寝入っている。
「いいだろう。やってみる。それにしても、守護人の君がついていて、全然気付かなかったのか」
「生憎と。ところで、弥由に用があるので、今夜は家へ泊めたいのですが、ご了承いただけますか」
一志が険しい顔を影正に向けた。影正は父親より年長の一志に対してもひるむことなく、恐ろしいほど整った顔立ちで見返した。冷静な眼差しを受け、却って一志がたじろぐ。しかし、さすがにすぐさま態勢を立て直した。
「父親として当然、この場に娘を残して帰れないことは判るだろう。敢えて尋ねるからには、連れ帰ってもいいと解釈してよいのかね」
「お父さん、私は七歳の時から影正様にお仕えしているのよ。今更何言っているの。大体、今回のことだって」
「弥由」
制したのは、影正だった。弥由はぴたりと口を閉ざした。
「一志殿の解釈通りで結構です。いかがなさいますか」
無表情に影正が告げる。不満そうな弥由は、それでも口を閉じていた。代わりに目で残りたい、と訴えかける。守護人と彼に仕える娘の様子を見比べ、一志に迷いが生じた。それでも最後には、家同士で取り決めたしきたりよりも、父親としての情が勝ったようであった。
「ではお言葉に甘えて、弥由を連れ帰ることにしよう」
「お父さん」
「おやすみなさい。弥由、今はお前も休みなさい。必要があれば、また連絡する」
「影正様」
向坂父娘が道場を通って外へ出るまで、影正は平静な表情と態度を保っていた。二人を送り出すと、足早に弟の柿朗の部屋を訪った。とはいえ、足音はまるで聞こえない。柿朗は寝床で目を覚ましていた。
「車の音がしたね。何があったの?」
「一志殿に立ち寄ってもらった。ちょっと部屋へ来てくれ」
兄の部屋で利輝が眠っているのを見ても柿朗はさして驚かなかったが、いずれ耳に入ることだから、と恐らく藤野家が向坂一志に話した内容を聞いた時には驚いた。
「利輝さんがまさか、そんなこと」
「するわけがない、と私が言ったところで、誰も信じないだろうな」
「そりゃあ、兄貴は利輝さんの守護人だから」
柿朗の歯切れは悪い。白河夜船とばかりの利輝に戸惑いの眼差しを注ぐ。
「とにかく現場を見てこようと思う」
「ばれたら、証拠を隠滅しに行ったとしか思われないんじゃないかな」
「私の考えが正しければ、相手が証拠を隠滅ないしねつ造する危険がある。どのみち警察沙汰にはすまいから、現場保存など不可能だ」
「それってつまり、その、花鈴ちゃんがってこと? だって、女が男を襲うなんて無茶だよ。兄貴、いくら何でも利輝さんを庇い過ぎ」
呆れたように柿朗が言うと、影正も弟を前にして、さすがに感情を滲ませた。
「だから、証拠を集める必要がある。万が一、皆の考えている通りだったなら、その時は相応の対処を考える。だが、御当代様に濡れ衣を着せることだけは避けなければならない。私は事実を知りたいのだ」
「お前が信じようと信じまいと、今は、私が戻るまで御当代様に付き添ってくれないか。鎮静剤を打ってもらったから、目を覚まして手間を取らせることはあるまい」
「いいよ。こんな夜中に弥由ちゃん呼べないものね」
柿朗は弥由が来たことも知らず、気軽に請け合った。影正も敢えて弟の思い違いを訂正しなかった。