2 夜の訪問 *
絶え間なく虫の音が聞こえる他は、救急車のサイレンも酔漢のわめき声も足音もなかった。
熱帯夜の続く都会とは大違いで、田舎の夜は涼しかった。扇風機を回すだけで、涼を得ることができた。
離れにいる利輝のところまでは、母屋の気配は届かなかった。田舎の朝は早い代わりに、夜も早い。
既に寝入っているとしてもおかしくない。
大学から課されたレポートの材料をいくつか持ってきていたが、すぐに取りかかる気持ちにはなれなかった。
ノートパソコンを取り出すのさえ面倒くさい。列車で長時間旅をして疲れた筈なのに、妙に目が冴えて寝付かれない。
静かすぎるせいであろうか。渋々課題を検討する。やはり手をつける気にはなれない。
この環境でギターをかき鳴らすなど、もってのほかであった。苦し紛れに部屋に残る祖父の蔵書を眺める。
教科書でしか見覚えのない名前が並んでいる。まるきり読書しない質ではないにしろ、戦前の小説は利輝にとって、平安朝文学や漢文に等しい距離感だった。
何気なく手を伸ばして当たった本を引き出すと、古書独特のにおいが立ち上った。島崎藤村である。名前はさすがに知っているものの、面白かった記憶がない。眠れるかもしれないと期待し、ベッドへ腹這いになり、ページを繰る。昔の本のことで活字が小さく、神経を遣う。話の筋はさっぱり頭に入らないのに、眠気も誘われなかった。
「兄様、起きている?」
すうっと戸が開き、顔を出したのは花鈴だった。利輝は驚いてベッドから起き上がった。
「何か、用か」
かろうじて気持ちを立て直し、ベッドから下りた。どんな理由にせよ、妹が心を開きかけていると思しき機会を、兄として逃したくなかった。花鈴はワンピースのような薄手の寝間着を着て、カップを手に微笑んだ。
「ううん。久しぶりに兄様の顔を見たから、ちょっとお話しようと思って。母様やお祖母様と一緒だと、ゆっくりお話できないでしょう」
「そうだね」
母と祖母は夕食の席でも、交代でひっきりなしに利輝に話しかけていた。そうした言動が、妹の心に隔てがあることを気付かせまいとする気遣いからであることに、利輝は気付いていた。
お陰で妹が変わり始めるきっかけを、さりげなく聞き出せなかった。
利輝は、妹に座るよう勧めた。花鈴は机の前にある椅子に腰掛けた。
「コーヒーいれてきたの。よかったら飲んで」
花鈴は大振りのカップを差し出した。見た事のない和柄である。湯気と共によい香りが立ち上った。家に着いてから緑茶ばかり飲まされていたところだったので、利輝は喜んで受け取った。
「ありがとう。花鈴の分はどうしたの」
「私はさっき飲んできたからいいの」
「じゃあ、もらうね」
花鈴と斜めに向かい合うようにベッドへ腰掛け、早速一口啜った。砂糖と牛乳が大量に入っていた。
「甘過ぎたかしら。ごめんなさい。兄様の好みがわからなくて」
「そんなことないよ、おいしい」
妹の善意に態度で報いようと、利輝はカップを大きく傾けた。牛乳のせいだろう、それほど熱くなかったので、どうにか一口残すばかりに干すことができた。
突然の妹訪問に思ったより緊張していたらしく、味はさっぱりわからず、舌にざらついた感触だけが残った。
妹の顔に満足が現れたのを見て取り、カップを慎重に本棚の空いた箇所へ置いた。
「お陰ですっきりしたよ。お茶もいいけれど、普段はコーヒーばかり飲んでいるから、物足りなく思っていたところなんだ」
「そうじゃないかと思っていたわ」
花鈴はまた微笑んだ。改めて向き合うと、何を話したものか、言葉が見つからなかった。話がない訳ではない。髪が伸びて可愛くなったな、とか、今日みたいな格好も似合うぞ、とか、こうして話しにきてくれて嬉しいとか、色々言いたいことは山ほどある。
しかし下手な切り出し方をすると、相手がへそを曲げてしまうのではないか、と利輝は恐れた。そもそも話しに来たのは妹なのだから、相手の出方を待つべきなのだが、花鈴もただ微笑を浮かべるだけである。
兄妹の間に奇妙な沈黙が落ちた。
沈黙に耐えかね、利輝はカップに手を伸ばした。カップは思ったより遠くにあった。手が届かなかった。ぐらり、と体が揺れた。視界がぶれる。
「地震?」
自分でも発音がおかしいと思った。舌が異物のように感じられた。急速に眠気が襲ってきた。こんな時に眠ってはいけない、と思う間にも瞼が重さを増した。手足の上にも、泥が被さってきたような嫌な重さを感じた。
「ごめん、花鈴。疲れが出たみたいだから、また明日話そう」
言葉の一片でも、口にできたかどうか怪しかった。利輝は暗い眠りに引きずり込まれた。
重苦しさ。浮遊感。鳥肌。恍惚感。虚脱。鈍い頭痛と吐き気にまとわりつかれながら、利輝は目を覚ました。
持ち上げた瞼の隙間から鋭い光が侵入する。何かが立ち塞がっているのか、目の前だけ暗い。うまく焦点を合わせることができない。視覚だけでなく、五感の全てに膜が貼り付くような不快感があった。
利輝は仰向けになっていた。下半身に奇妙な感覚があった。半身を起こそうとして、重しに遮られた。突如として焦点が合い、信じられない物が拡大されて目に飛び込んだ。
利輝の下半身は剥き出しにされていた。その上にぴったりと、花鈴がのしかかっていた。飛び起きようとして、再び失敗した。力の入れ方を忘れてしまったようであった。体が異常にだるかった。聞き慣れない音が耳に届いた。
俯いていた花鈴が顔を上げた。笑っていた。
「兄様は、私の下で、お果てに、なったの、よ」
ひとしきり笑い声を上げた後、彼女はひと言ひと言区切って言った。両手をつき、勢いよく利輝から離れた。
どろどろと、まだ生温かい液体が不快な跡を残して流れ落ちた。
そこで初めて、利輝は花鈴と交わったことを理解した。
上半身を起こした姿勢のまま、妹の顔から目を離す事ができなかった。妹もまた、兄から目を離さなかった。顔には笑みが貼り付いていた。ベッドから降り、やおら寝間着に手をかけ、両側に引っ張った。大した音も立てず、薄い寝間着はいとも簡単に裂けた。
それから、彼女は深呼吸を一つして、よく通る声で悲鳴を上げた。
反応はすぐに起こった。どたどたと足音が近付く。地響きのような音が利輝の重い頭に応えた。ぱっと扉が開き、最初に顔を見せたのは父の優輝であった。
「何だ、今の声は?」
戸惑いの表情が、いつの間にか床に泣き伏している花鈴の破けた寝間着を見て強張った。花鈴は呻きながら涙を流していた。その場に凍り付いたのもつかの間、続く足音が父の背中を押した。
「どうしたの」
「利輝、お前という奴は」
「花鈴!」
母が妹に駆け寄るのと、利輝が父に殴られるのと、ほぼ同時であった。勢いで利輝はベッドから転がり落ちた。膝下まで下がったズボンに足を取られ、起き上がれずにもがくところをまた殴られた。
頭ががんがんするのは殴られたせいだけではない。
必死にズボンを上げた。
生まれて初めて父に殴られた衝撃と、下半身を晒したままでいる恥辱がないまぜになって利輝にふりかかった。
開け放たれた扉の向こうに、立ちすくむ祖母の姿が見えた。色を失っている顔が、やけにくっきりと目に焼き付いた。いつも利輝の味方をしてくれた祖母の顔ではない。利輝の頭の中で、白い光の塊が弾けた。
「待て!」
「利輝!」
どうやって父の体をかわしたのか、わからなかった。利輝は裸足のまま、表へ走り出していた。行き先など考えていなかった。庭に並ぶ車にぶつかりながら、開け放しの門から外へ出た。
道の奥へ向かってひた走る。行く手には黒々とした闇の塊が盛り上がっていた。頭は何も考えられなくとも、足は覚えていた。
一軒の古い農家が夜目にもおぼろげに浮かんできた。玄関に灯りはない。家中静まり返っている。
庭を横切った。
奥に小さな道場が建てられている。灯りが漏れていた。
利輝は吸い寄せられるように道場の扉に手をかけた。重い筈の戸が、力を入れる前にすっと開いた。
「利輝様?」
抜き身の真剣を提げた彼の守護人が、逆光の中、袴姿ですっくと立っていた。目を射られた利輝には、その整った顔に浮かんだ表情は見えなかったが、後光を背にした神仏のように感じられた。
利輝は意識を失った。