1 弥由の抵抗
また夏がやってきた。利輝は帰省の話題を耳にする度に、胸にちくりと針が刺すのを感じた。
あれから一年経った。妹の花鈴と望まぬ関係を結んだために、生家の藤野家へ足を踏み入れないと宣言してから、利輝は忠実に約束を守っていた。
年末年始も春休みも帰省すらせず東京に留まった。元々故郷を嫌ってはいなかったが、いざ帰れないとなると一層郷愁が募るのは不思議なことである。
繰り返し流される年末年始の混雑を伝えるニュースを横目に、利輝はここぞとばかりアルバイトに励んだ。
学費も生活費も途切れなかった。父が、以前と変わらず仕送りしてくれた。金の問題ではなく、用を作って忙しくしていないと、気持ちが落ち着かなかった。
司法試験を視野に入れた勉強も続けていたが、部屋にしろ図書館にしろ、ひとところに閉じこもってじっとしているような仕事は長続きしなかった。だからアルバイトも、家庭教師や塾講師といった実入りのよい口もあったのを避けて、体を動かす仕事を選んだ。
利輝は司法試験を目指す学生で作る法律系のサークルに入っていたが、アルバイトで忙しくなってからむしろ顔を出すようになった。帰京して暫くの間は、会う人毎に妹との罪を見透かされそうな気がして、なかなか足が向かなかったのである。
代わりに大学のプールで泳いだ。泳いでいる間は誰とも口を利かなくて済む上に、体がくたくたになるのですぐ眠れるという利点があった。
高校を卒業してから間遠になっていたギターやベースを弾く時間も増えた。
外に出る用事がなく、どうしても勉強する気になれない時など、ふと浮かんだメロディーを捕まえて、まとまった曲にしようと意地になって集中することもあった。
長い春休みには引越もあって、ますます気を紛らすことができた。一、二年生と三、四年生では通学先が変わる。当然進級が前提の話である。
いつか家から持ち出していた荷物は、部屋に入りきらない分を貸し倉庫に預けていた。引越のついでに荷物を整理し、今度はそうした荷物も収納可能な広さで、防音設備の整った部屋を探した。
近くに芸大がある地域だけあって、予想より簡単に希望に適った部屋を見つけることができた。こうした全ての利輝の行動に、影正は付き合った。
勉強に始まり、アルバイトも水泳も演奏もサークルも、引越の手配も隣り合ってこそいないが同じフロアの部屋を確保した。
給料を貰って働いているのでもないのに、家同士の取り決めだけで、よくぞここまで付き合ってくれるものだと利輝はしばしば感慨にふけり、口にもした。
「仕事ですから。お気に病まれる必要はございません」
主の言葉に、影正はいつも同じように返した。家族に半ば見捨てられたような存在の、今や名ばかりの当主である利輝に対しても、守護人の取り決めは有効なのだろうか。こうした利輝の問いにも影正は同じように返していた。
この間、花鈴からはもちろん、母や祖母からも一切の連絡はなかった。
母の実家である伊奈家へは礼儀上年賀状を出し、向こうからも賀状は届いたが、利輝は家へは年賀状も出さなかったし、家からも届かなかった。
事情を知る向坂家や青柳家に挨拶するのは利輝も気まずかったが、影正と相談して礼儀と割り切って出した。どちらからもちゃんと返事が来た。当たり障りのない返事の中、利輝を微笑ませたのは弥由からの賀状で、
「いよいよ受験生です。絶対東京進出するから、どうかそのまま就職してね」
とあった。伊奈の祖父母は事情を知らないのだろう、とは父の言である。父だけはごくたまに、利輝に電話をかけてきた。いつもスマートフォンを使うのは、母や事務員の耳目を避け出先からかけるためであろう。
大した話をするでもなく、互いの近況を交換するだけであるが、利輝は父に対して、ありがたくも申し訳なくも思っていた。
弥由は新学期に入ってから断続的に父の一志と闘っていた。高校卒業後の進路について、意見が合わないためである。
対立が明らかになったのは、進級早々行われた三者面談でのことであった。
普段、授業参観やPTA活動などは母に任せているのに、進学の節目節目になると必ず父が出てきた。
それは弥由に限ったことではなく、二人の兄の時も同様であった。これまで弥由は、進路に関する父の言動を、藤野家や青柳家との取り決めを守るためと思ってきた。
例えば長兄の一由などは暢気な性分で、忙しい医学部進学を先延ばしして、若いうちに海外で世間を勉強したいなどと言い出して、放っておけば実行しかねなかったのを、少なくとも先に医師免許を取るよう説得したのが父であった。
父曰く、医術を身につけておけば、世界のどこへ行っても役に立つし、生き残れる確率も高くなる。それで説得される長兄も、実際大した展望を持っていなかったのであろう。
次兄の次由を医学部に進学させたのも、当人の希望もあったにせよ、父がどうも一由は当てにならないと見切って保険をかけたと弥由は思っていた。
三家の取り決めで、向坂家は代々医業を営むことになっているのである。取り決めがなくとも、こうした田舎に医者が必要であることは、弥由も感じていた。向坂医院が廃業しても、後釜を狙って新しい医者が入り込むとは思えない。
世間で思うほど儲かる訳でもない商売を続けようとする父を、弥由は敬っていた。だから、父の意見に納得できるだけの理由があれば、弥由とて素直に従うつもりでいた。
ところが、はっきり言わない父の意向を言葉の端々から推測するに、弥由は地元の女子短大を卒業して、銀行かどこか堅い地元の職場へ就職して、あんまり早くもなく、さりとて世間から行き遅れと言われないうちにやはり銀行や公務員といった無難な職業の地元男性と結婚して欲しいらしかった。
その先は、孫の顔を早く見たいと言うのだろう。内情を知っているだけに、医者を結婚相手の候補として挙げないのは、一応世間体ばかりでなく娘の身を案じているようにも受け取れた。
しかし、如何に娘を思っての意見としても、そんな陳腐な青写真は、到底弥由の受け入れられるところではなかった。
弥由は、将来服飾関係の仕事に就くために、専門学校へ進学しようと考えていた。地元にも服飾技術を学ぶ学校はあるが、どうせならば東京へ行きたかった。断然情報量が違う。
普段の生活をする中で学ぶ事も多い筈である。いずれ地元へ戻るとしても、東京で学んだ事は有利になると踏んでいた。
「今は大学を出るのが当たり前の時代なんだ。専門学校なんて高卒と同じなんだよ」
というのが、父の意見であった。
「手に職をつけた方が食べて行くのに困らないって言ったのは、お父さんでしょう。大卒を手に入れるためだけに、ぼうっと大学で無駄に何年も過ごすより、よほど現実的だと思うわ。それに、今は専門学校卒でも会社によっては大卒と同じ条件で採用してくれるところもあるんだから」
「専門学校にこだわらなくても、大学にだって洋服作りを教える学科があるところもあるだろうが」
と父が地元の大学名を挙げる。敵もさるもので、娘に言い負かされる度に調べて次回に備えている。弥由もうかうかしていられなかった。しかし、何といっても現役受験生の方が、鮮度の高い情報を得られる分だけ有利である。
「大学より専門学校の方が学費も安いし、期間も短いし、その分専門に特化しているから効率的に勉強できるもの。お兄ちゃんたち二人とも医学部に行っちゃって、お家も大変でしょう。少しでも安く上げようという親孝行な気持ち、わかってくれないのかなあ」
「家から通える短大に行ってもらった方が、経済面でも安全面でもどれだけ親孝行かしれない。柿朗だって、家から大学へ通っているのに、わざわざ東京なんか」
弥由は内心焦った。調子に乗って経済を持ち出したのがやぶ蛇であった。父は案の定、してやったりといった顔をしている。努めて平静を装う。
「柿ちゃんは青柳家の継主だもの。家から離れないようにするのも務めのうちよ。私は影正様にお仕えする身なんだから、それこそ影正様のいらっしゃる東京へ行くのが筋でしょう。それに、お父さんの言うようにしたら、一時的には負担は軽く見えるでしょうけれどもね、就職できなければ結局無駄になるのよ。東京なら、一兄ちゃんか次兄ちゃんと一緒に住めば効率的よ。お兄ちゃんたちも妹がいれば、真面目に勉強するでしょ」
「どうかな。いや、お兄ちゃんたちはお前が見張らなくても、ちゃんと勉強しているよ」
形勢不利である。対決も回を重ねるにつれ、弥由の将来の見通しはどんどん狭まる。ここは、出直した方がよい。弥由は一旦退却した。




