7 予想違い
翌日、長兄の一由と約束を取り付けた次由は、大学まで出向いた。
江戸期、大藩の屋敷であったキャンパスは、門を始めとしてそこここに古い時代の名残があり、新たに加わった建物と相まって独特の雰囲気を作り上げている。
広い構内に入り込めば、緑の木々と赤煉瓦の建物が視界に点在し、とても二十三区内とは思えない景色であった。
大学は未だ夏休み中とあって、人影もまばらで、サークル活動で登校中らしい男女も、どこかのんびりとした気配を漂わせていた。来春からは、利輝も影正もこちらのキャンパスに通う予定である。
「へえ、そんなことがあったんだ」
人気のない場所にあるベンチに腰掛けて、次由が影正から聞いた一部始終を話すと、兄は軽い口調で言った。兄は事件を知らなかった。
次由は両親の口の堅さを誇りに思う反面、まるで自分が告げ口したような後ろめたさを覚えた。すぐに、いずれ兄は主治医になるのだから、知っておいた方がよいと思い直す。後ろめたく思ったのは、話を聞いている間の一由の態度が、人ごとのように見えたせいもあった。
昔から、兄には何を考えているのかわからないところがあった。弥由に言わせると、天然ボケである。しかし次由から見れば、ボケているのではなくて、とぼけているだけであった。いつも泣きを見るのは、兄と妹に挟まれた次由と決まっていた。
目の前をいい年をした老人が通り過ぎて行く。近所から散歩に来たのであろうか。あるいは、病院へ来たついでに散策しているのかもしれない。向坂兄弟は、ゆるゆるとした足取りの好々爺が遠ざかるまで、沈黙を守った。
「愛憎半ば」
「え」
「だから利輝くんは、証拠を握っても、花鈴ちゃんを皆に告発しなかったのかもな。仕掛けた当人も気付かないくらい、もの凄く特殊な愛情表現だと気付いたから。やっぱり利輝くんが藤野の御当代様だよ。影正くんも、そう言っていただろう?」
「そうだったかな」
老人を見守っている間に、弟の話を反芻していたらしい。実のところ、事件自体の衝撃を和らげるのに必死で、そこまで考えが及ばなかった次由は、守護人に仕える身でもない兄に先を越されたようで、面白くなかった。
さっさと肝心の用件に話を移す。一由は、鑑定を正式な文書にすることも心安く請け合った。そこは次由の判断である。
「心配いらないよ。事情なんていちいち説明しなくても平気だって。そういった依頼は結構あるみたいだよ。浮気調査とか、さ」
どのみち、あまりよろしくない事が起きた時に出番があるようであった。ともかく事情を聞いても鑑定に差し障りないと聞いて、次由も安心した。影正のやり方が正しかったのである。
それから連れ立って食堂へ行った。以前、やはり兄と食事するのに、敷地内にいくつかある学生食堂にも入ったことがあるが、同じ構内にあっても今日は初めて行く場所であった。
木立に囲まれる小高い場所に建てられた瀟洒な建物の一角を占める店は、見るからに学生食堂とは異なる構えであった。兄と一緒でなければ入れない。メニューも町中のレストランと見紛うばかりである。
そして、店構えと料理の内容の割には値段が安かった。いわゆる構内価格であろう。
久々の会食で、兄も奮発したようだ。事件を聞いて、弟をねぎらう意味もあったかもしれない。次由は、先程抱いた兄への不満を取り消す事にした。
祖父母が前々から予定していた集まりに揃って出かけてしまったので、花鈴は母の恵梨花と二人きりで家に残された。
藤野の家と違って、自分の部屋もなければ、余分な部屋もなく、一人で閉じこもることができない。敢えて別の場所にいるのも気詰まりである。
あれ以来、母から別居の話を仄めかされることはなかったが、家の中に二人しかいないとなれば、いつまた持ちかけられるかと落ち着かなかった。
花鈴の中では、まだ考えがまとまらなかった。誰に見られる心配もなく、一人になりたかった。それで図書館へ行くことを思いついて母に告げた。
すると、母も心なしかほっとしたように花鈴には感じられ、自分から言い出しておきながら軽い不満を覚えた。
家から出かけるとなれば遠くて億劫な図書館も、祖父母の家からは苦もなく辿り着いた。夏休みとあって、参考書を広げた受験生で閲覧席は満席だった。
ざっと見たところ、知った顔はない。
閲覧席の盛況と対照的に、本棚の間の通路に人気は少ない。じっくり読書する人は既に席を確保していて、そうでなければ借りたい本を見つけてさっさと家へ戻るのであろう。
花鈴はぶらぶらと一通り本棚を巡った後、目をつけていた本の棚に戻った。
さりげなく辺りを見回し、近くに人がいないことを確かめてから素早く取り出すと、思い切り本を広げて表紙を床と平行にし、片手を広げて下から支えた。
こうすれば、足元からじっくりと覗き込まれない限り、一見して何の本を読んでいるかわからない。その本は、女性の立場から強姦事件を扱っていた。
以前、本屋で見かけてから、気になって仕方がなかった本である。読んでみると、花鈴の予想していた本とは全然違った内容であった。本の重さで手が痺れるのを感じながら、ぐいぐいと引き込まれてページをめくる手は止められない。
「お前、友達いないだろう」
夢中になっていて、人の気配に全く気付かなかった。花鈴は、不意に耳元で聞こえた声に飛び上がるほど驚いた。
勢いで本を閉じてしまい、慌てて後ろへ回す。
ホストみたいな風貌の少年が立っていた。花鈴のクラスメートであった。
宇宿叙恩という変わった名前の持ち主は、アメリカ文化に傾倒していたという父親が名付け親だったが、宇宿が幼い頃に離婚した後、父親は未だ行方知れずである。母親は侭田という姓で、宇宿は父親の姓を名乗っている。
侭田は昼はスーパーで、夜は工場で働いて生計を立てており、宇宿も新聞配達で家計を助けていた。
成績はよくも悪くもなく、当初はどちらかというとクラスから浮いた存在であったのが、俊足を買われて陸上部に入ってからは、クラス対抗運動会でも花形の活躍をして、今年度のクラス代表を務めるほど人気を得た。
生徒会長へ推薦されかかったが、アルバイトに差し支えが出るからと言って辞退したことも、却って好意的に扱われた。その茶色がかった髪の色も、きれいにセットしたような巻き髪も、生まれつきの性質であることは、入学当初の過酷な実験により証明済みであった。
「そんな本を読んでいると、早とちり野郎に狙われるぞ」
「あんたが早とちりしなければ、誰もしないわよ」
驚かされた不機嫌を花鈴がそのままぶつけても、宇宿は平然としていた。
「どうだろう。さっき、三上や沼玖を見かけたから、他にも知った顔がいるかもしれない。いつもむっつりしているお前が、こそこそそんな本を読んでいたら、どうせ奴ら内容も知らないで、アダルトビデオもどきの妄想しかねないぜ。確かにその本、買うのも借りるのも勇気いるけどな」
「宇宿、これ読んだの?」
好奇心に駆られて花鈴は訊いた。宇宿はぶっきらぼうに、読んだ、と答えた。
「ちゃんと座って読んだ方が、怪しまれないぜ。辞書かなんか、厚い本を脇に置いてさ。じゃあな」
宇宿が立ち去るのを機に、花鈴はそっと本を棚へ戻した。まだ途中までしか読んでいないが、彼が言うように、全部立ち読みで済ませるには重い本であった。
急に、友達がいないだろうと言われたことが気になってきた。確かに、ちょっと考えても、親しく付き合っている人間は思いつかなかった。
花鈴は生け花クラブに入っているが、決まった部室がないこともあって、週一回顧問の教師に教わる以外には、クラブ員同士で集まる機会もない。一緒に遊ぶのは、元から仲がよくて同じクラブに入った者同士であった。
クラスの教室でも、花鈴はその時々でいくつかのグループとお喋りしたり、活動するに当たって組を作っていたが、相手はその都度変わっていた。
そもそも、花鈴は用もないのに集まってだらだらと喋り続けることを好まなかった。女子生徒の仲良しグループは、突き詰めればそのための集まりであった。
辺鄙な田舎で育ったせいかもしれない。町場に住めば、主婦がそこここで立ち話をしている風景を身近にして、自然と自分の習慣に取り込めたかもしれない。
田舎でも立ち話がないのではない。皆車で移動するから機会が少ないだけである。田舎では立ち話というよりも、座って話す茶のみ話の方が多いのではなかろうか。
農作業する者同士が道端で会っても、休憩がてら座って話すのを花鈴も見た事がある。
かといって、まるっきり男子生徒のような行動もできなかった。
例えば、男子に混じってサッカーをしたり、まして猥談に花を咲かせるなど、思いもよらない。
そして思い返せば、夏休みに誰かと遊びに行く約束もなかった。なかったからこそ、家に閉じこもることができたのだった。
花鈴は、クラスメートから友達がいない人として見られていたことでショックを受けたことに気付き、更に動揺した。そんなことは歯牙にもかけないつもりでいたのに、大いに気にしていたのだ。
藤野家の当主になりさえすれば、全てが解決するように何となく思い込んでいて、同世代の人間を下に見ていたようにも思う。
花鈴の最大の関心事である家の問題は特殊過ぎて、女友達のグループでお喋りの題材にあげるには重過ぎたし、さりとて彼女達の話題にもさして興味を持てなかった。
だから打ち解けた友達など作りようがなかった。結果、当主にもなれず、友達もいない自分に一体どんな価値があるのだろうか。
無駄に体を傷つけてしまった。これで父の保護まで失ったら。
つい先程、拾い読みした本の一節が胸に迫ってきた。犯された女性は、世間からも貶められ、自分に価値を見出せなくなるのだ。
もちろん、犯された女性が悪いのではなく、犯した方が絶対的に悪いのだ、とも書かれていた。
しかし花鈴は、いわば自分で自分を犯したのだ。もとより、自分がしたことを誰に言うつもりもなかった。仮に誰かが低い評価を下しても、そんなものは見下せばよかった。だが今や、花鈴自身が自らに低い評価を下さざるを得ない。
読まなければよかったと、今更ながら後悔した。