1 妹の変貌
われら,その昔よりかの者を守りてここに至る
われらはかの者の為にあり
われらかの者を光と為し,自らを影と為す
光なくして影のあることなし
われらはかの者の為にあり
足が痺れてきた。居並ぶ人々は皆厳粛な顔つきで、人形のようにそろりとも動かない。どこからともなく反響して聞こえる低い声だけが生き物のように人々の間を縫って這い回りまとわりつく。
退屈な時間であった。顔つきからして皆もそう思っているに違いないのに、一体何が面白くてここに蟠っているのだろうか。
幼い頃から、五歳違いの兄とは差をつけて育てられた。兄弟姉妹は往々にして、互いに相手が両親その他周囲の大人から優遇されていると思い込む時期がある、と聞く。
そうした感覚は実のところ、愛情の独占欲がなせる業で、確かに相性などによって多少の差異はあるにせよ、周囲の大人、殊に両親は少なくとも当人達のつもりでは、分け隔てなく愛情を注いでいるのである。
だから兄弟姉妹の一方が愛情の不足を訴えても、周囲の人間は笑って聞き流すのが常である。
しかし、この家においては、兄弟姉妹の差は間違いなく存在していた。僻みや嫉みではない。
兄は、やがて家の当主を継ぐべき人間として、両親や祖母から様々な稽古をつけられた。普段の三度の食事は家族揃って同じ物を摂ろうとも、稽古事の合間には恐らく特別に甘露を味わう機会もあったろう。僅かなりとも密かな楽しみなしに、どうして泣くほど辛い稽古を放り出さずにいられるものか。
兄が稽古を投げ出せば、お鉢が回ってくる。辛い稽古に潜む楽しい秘密を知る機会をじっと待ち望んでいたのに、好機はついぞ訪れなかった。
食べ物の恨みは深いとはいえども、直接見聞きしてもいない事を恨むのは逆恨みである。だから、兄が貪ったかもしれない大食の罪についてはしばし措く。
やはり許し難かったのは、周囲の大人が注ぐ眼差しの、兄との落差であった。家の当主を継ぐから何だというのだ。
そのように大きな期待をかけるほど、この家は素晴らしいものなのか。母でさえ、兄にはある種の敬意を持って接した。
母はこの家の当主である父に嫁いだ。それほど素晴らしい家に嫁いだ割には、母は幸せには見えなかった。
どちらかといえば、いつも重荷に耐えているような様子をしていた。
周囲の大人の中では、母が一番愛情を注いでくれた。母には感謝している。それでも愛情に飢えていたのは、ひたすら他の大人達が兄にばかりかまけていたせいである。これほど多くの大人が同じような境遇にある人間を重んじているのを目の当りにしては、ただ一人の大人から得る愛だけで、幼心を満足させることはできない。
今しも決定的な出来事が、こうして目前で進行している。優しい母ですら、この部屋の中で行われる事には参加させてくれなかった。
兄が生真面目な顔をして何やら言っている。居並ぶ大人が、いちいち兄に賛同する様子を見せるのも癪に触った。
たった一枚襖を隔てたきりと見えても、実際には無限に遠く、永遠に手の届かない距離であった。
あの場所、兄が座っている場所に座らなければならない。
たかが数年先に生まれただけで、そのような特権を得られる仕組みは間違っている。このような世界など、めちゃめちゃにしてやる。
怒りの頂点が、足の痺れと同期した。今は待つべき時だ。
私は音を立てないよう息を詰め、慎重に、その場から離れた。
「それでは利輝様、私はここで失礼致します」
車の中から、この世の者とは思えないほど整った顔立ちをした男が丁寧に頭を下げた。
「利輝さん、また帰りには送ってあげるからね」
運転席からは、男とは似ても似つかない顔の弟が陽気に手を振った。助手席に座る兄がいなければ、人好きのする、むしろ美男子ともてはやされるであろう顔かたちであるのに、これまでと同様、今もひどく平凡な顔立ちに見えた。
利輝は慣れたもので相手の挨拶に片手でまとめて応え、発車を待たず家の門をくぐった。急に蝉時雨がひどくなったように感じられた。土を剥き出しにした前庭がやけに広く見えるのは車がない、すなわち人が出払っていることを意味していた。利輝は玄関の引き戸がきっちり閉まっていないことに気付き、苦笑した。
「相変わらずだ」
ひとりごちながら戸に手をかける。年代物の引き戸は、がらがらと大きな音を立てる割に抵抗なく開いた。
田舎の農家でも、近頃では入り口に鍵をかける家が増えてきたものの、在不在に関わらず日中鍵をかけないという昔の感覚が、この家には残っていた。
尤も、広い土間が設えてある昔ながらの建物では、木枠に磨りガラスをはめ込んだ四枚引き戸に南京錠をかけたところで防犯効果は期待できない。
住人の性格を勘案すれば、この事は鷹揚さを表すというよりもむしろ、入るなら入れという、自棄に似た感覚なのかもしれなかった。
「ただいま」
習慣として、利輝は一応家の中に向かって声を張り上げてから、靴を脱いだ。自分の部屋へ行こうとすると、視界の端に見慣れぬものがちらついた。
「花鈴、いたのか」
「いたのか、はないでしょう、兄様」
五つ年下の妹は、向き直って膨れてみせた。利輝は口が利けなかった。およそ半年ぶりに見る妹は、記憶とまるで違っていた。花鈴は如何にも母好みの淡い色合いをした柔らかな曲線を描くワンピースに身を包み、肩にかかる長さの髪を同系色のリボンで飾っていた。物心ついてから何でも兄の真似をしたがり、男の子と見紛う格好をしていたというのに。その上、これまでであれば、兄をひと睨みして無視を決め込むところが、呼び掛けに立ち止まり、向き直ったのである。
「兄様が帰省するから、母様はお祖母様とお買い物に出かけたのよ。父様もお仕事だけれど、今日は早く戻るそうよ」
花鈴は兄の混乱に気付いたそぶりも見せず、何ごともなかったかのように言葉を継いだ。前庭に車が入ってくる音が聞こえてきた。
「きっと母様よ。それじゃ、ごゆっくり」
妹が姿を消すのと入れ替えに、背後から祖母の声が飛んできた。
「ああ利輝じゃないか。おかえり」
「利輝? 今、帰ったの?」
矍鑠とした祖母に負けじとばかり、母も声を張り上げた。二人は山のように買い物袋を抱えていた。利輝は荷物を下ろして、二人を手伝った。
「ありがとう、助かるわ」
「あのさ、花鈴が」
「え何? 花鈴も、家にいるのなら手伝えばいいのに」
「相変わらず、お兄ちゃんには人見知りなんだから」
「待っていなさい。今お茶の仕度をするからね」
「お義母様、私がしますから」
「いいのよ、恵梨花さん。たまには」
忙しがっている母と祖母から、妹の変貌について聞き出すのは困難であった。
利輝はとりあえず自分の部屋へ荷物を置きに行った。利輝の部屋は離れになっていて、母屋とは渡り廊下でつながっている。
祖母が嫁入りした際に若夫婦の居室として建てられたもので、その後父を経て利輝の部屋になった。
大学へ進学するために家を出ると知って、花鈴が自分の部屋にしたがったものの、許可しなかったのは父である。
利輝は大学を卒業したら、妹に部屋を譲るつもりでいた。まだ卒業まで二年残っていて、さすがに就職先を決める時期には早過ぎるが、どこに勤めようとも、家から通うことはまずないと踏んでいた。当時、妹の望みを叶えることに誰も賛成しなかったので、自分の心の中だけの予定である。
「入るぞ」
ノックと同時に、父の優輝が入ってきた。荷物を散らかしたままベッドに寝転んでいた利輝は、反射的に起き上がった。
花鈴の予告にあったとはいえ、随分と早く帰宅したものである。独立事務所の弁護士だから、融通が利くのであろう。
内線電話を使わず、わざわざ足を運ぶのは、以前の自室に郷愁を抱いているためと利輝は睨んでいた。現に今も、息子の顔より部屋の中を気にする風であった。
「お茶が入ったから、来なさい」
「はい。あの、花鈴が」
既に半ば背を向けていた父が、息子の言葉を捉えた。すぐに言わんとするところを理解したらしく、足を止めて軽く二三度頷いた。
「驚いたろう。春先から急に、ああなった。母さんが赤飯を炊いていたな」
続きを聞こうと慌てて後をついていったが、話はそれで終わりだった。誰も理由を知らないのであろうか。
利輝は父の言葉を反芻して、ちらりと別の考えが浮かんだ。確か、同級生の妹が初潮を迎えた時に、赤飯を炊いたと聞いたことがある。
念を押して確認するような事柄ではなかった。本人が望んでしていることで、周囲も納得しているのなら、気に病むことでもない、と利輝は思うことにした。
茶の間には花鈴も座っていたが、今度は記憶と違わずよそよそしい態度であった。利輝は無理に話しかけないようにした。母と祖母の近況報告と質問攻めにあっては、話しかける隙もろくになかった。