番外編 最恐魔王は蜜月に溺れる2
バトン領への訪問を決めた約二月後。
多忙なニナのスケジュールにやっと調整がつき、ヨアンとフェリシアはバトン領を訪問していた。
あれから程なくしてニナはアレクシスの婚約者となり、王城での出仕を続けながら妃教育も受けるなど、忙しなく過ごしているようだ。フェリシアもニナの教育係の一人として、これまでニナが学んでこなかった社交の場での振る舞い方や、身に着けるものの選び方などの知識を教授している。
今回、アレクシスは急ぎの案件が山積みで同行できず、かなり残念がっていたらしい。
晩餐の時にアレクシスがニナに思いを寄せていることに気づいていたヨアンは、二人の婚約の話を聞いて心の底から安堵した。どうしても譲れなかったとはいえ、フェリシアをアレクシスから奪ってしまったことへの後ろめたさが消えなかったからだ。それは二度目のアレクシスとの婚約の話に応じられなかったフェリシアも同じだったようで、ヨアンが王城からの知らせを伝えると、瞳を潤ませて喜んでいた。
そうした背景もあり、今回のバトン領訪問では、アレクシスが大切にしている婚約者のニナのため、ヨアンも力を尽くそうと決めている。
直線距離で考えればヨアンの城からバトン領へ向かう方が近いが、森の中に馬車が通れる道はないため、一度王都へ向かい、ニナの馬車と合流してバトン領へとつながる街道を進んだ。途中の宿場町で二泊し、ようやくバトン領に辿り着いたのだった。
(この移動距離は辛いな…。ニナ嬢やアレクシスが街道の整備を急ぐのも頷ける。もしもフェリシアが今後もバトン領を訪れる必要があるなら、転移魔法陣を敷いておこう)
ヨアンのその強大な魔力を使えば、魔法陣を使った転移が可能だ。王城にも魔法陣を敷いており、居城と王城の間は転移魔法で行き来できる。バトン領のどこかにもそうした魔法陣を敷いておけば、次からは一瞬で移動が可能になる。自分一人ならまだしも、フェリシアに何度も長距離の移動をさせるのは避けたかった。
「ヨアン様、素晴らしい眺めですね。アレク様がおっしゃっていた通りです」
ニナが手配したスイートルームに通され、そこからの眺望を目にしたフェリシアが目を輝かせた。
斜陽が山々の稜線をくっきりと描き出し、まるで影絵の世界のようだ。茜色と藍色が混じり合う空には海月のような月も浮かび、その横には一番星が輝いている。
窓辺に立ち、うっとりとその景色に見入るフェリシアの横顔も、沈みゆく日の光を浴びて黄金色に染まり、窓枠に縁取られた一枚の絵のように美しかった。ヨアンは堪らず、後ろからフェリシアを抱きしめる。
「本当に綺麗だな。だが、どんな素晴らしい風景よりも、フェリシアの美しさが一番俺の心を揺さぶる」
絹糸のように滑らかに輝くプラチナブロンドの髪を撫でながら耳元で囁くと、フェリシアが恥ずかしそうに瞳を伏せた。夕日に照らされて確認できないが、きっと頬は薄紅色に染まっていることだろう。
結婚から半年以上が経った今でも見せるこの恥じらいが、より愛しさを加速させる。俯いた顎にそっと指を這わせて自分の方へ向かせると、ヨアンは夜露に濡れる薔薇の蕾のような唇を塞いだ。
柔らかい舌を絡め取り、吸い上げる。眩暈がするほど甘美な味。
「……ん…」
甘い吐息が漏れはじめ、フェリシアの身体から力が抜けていく。
かくん、と膝が折れた瞬間、抱き上げてさらに深く口づけた。そのままベッドに運び、優しく下ろす。
ひとしきり唇を味わってからフェリシアを見下ろすと、とろとろと蕩けた瞳と目が合った。
普段は清廉な泉のように澄んだ輝きを湛えているフェリシアの紫水晶の瞳が艶を帯びているのを目にした瞬間、理性の箍が外れた音がして、ヨアンはフェリシアの首元に唇を這わせた。
――いつの間にか月が高く昇り、空を埋め尽くすかのように星々が輝いている。
ヨアンが身体を起こすと、隣で眠っていたフェリシアもうっすら目を開けた。まだ夢の中にいるかのように瞳を彷徨わせ、月明かりに照らされたヨアンの姿を捉えると、安心したようにふわりと表情を綻ばせる。
「――空の色…ヨアン様の髪と同じ夜の色…」
少し掠れた甘い声がヨアンの耳を心地よく擽る。
ヨアンはフェリシアの頬を愛おしげに撫でた。
「ああ。月ももう、フェリシアの髪と同じ色に輝いている」
ゆっくりと身体を起こそうとするフェリシアを抱き寄せ、自分の膝の間に座らせると、シーツを羽織り自分の身体ごとフェリシアを包み込んだ。二人で星空を見上げる。
「森の塔からの星空も綺麗ですけれど、ここからの星空も素敵ですね」
そっとヨアンの胸に身体を預けながら、フェリシアが呟いた。ヨアンも頷く。
「そうだな。塔の窓から見るよりも、空が広く感じる」
バトン領自慢のこの宿泊施設は、小高い丘の上に建てられている。そのうえ、このスイートルームは一面が大きな窓になっており、眼下に広がる街並みと、どこまでも広がる大空を臨める贅沢な作りだ。
「たまにはこうやって、二人で違う景色を眺めるのもいいな」
フェリシアを抱きしめる腕に力を込め、頬にキスをした。
「だいぶ遅くなってしまったが、軽く食事をもらうか?」
部屋まで案内してくれたニナが、食事は声を掛ければ部屋まで用意させると言っていた。ゆっくり疲れを取りたいだろうから、遅い時間でも構わない、とも。
二人は簡単な夜食を頼み、それを待つ間、部屋に設えられている半露天の温泉に入ることにした。
「本当に一緒に…入るのですか?」
ヨアンの提案に、フェリシアが真っ赤になって俯く。
「当然だろう。新婚旅行も兼ねているんだから。それに何より、俺が一緒に入りたい。嫌か?」
「嫌…では…ないです…。でも、心の準備が…」
透き通るように白く美しい手ですっぽりと顔を覆っているフェリシアを、ヨアンはひょいと抱き上げる。
「えっ、ヨアン様、待って」
はだけそうになったシーツを急いで胸元にかき寄せるフェリシアを抱え、浴室へと移動した。
「夜風が心地いいな。湯も熱すぎないし、これならじっくりと浸かっていられる」
「――ええ、そうですね…」
「ところで、俺はいつまで一人で星空を眺めていればいいんだ?」
「…どうかそのまま、夜空を堪能していていただければ…」
外に開け、半露天になっている浴槽の縁で頬杖をつきながら、ヨアンは夜空を眺めていた。星が降ってきそうな夜空とは、まさにこのことだろう。先程までガラス越しに見ていたものとは別格だ。せっかくの光景をフェリシアと一緒に堪能したかった。
しばらく振り向かないでほしい、とフェリシアに頼まれ、先に湯に入ってからしばらく経つ。
こっそり振り返ると、フェリシアは湯船の隅でこちらに背を向け、小さくなっていた。恥ずかしくてなかなかこちらに来られないのだろう。居城でも、一緒に入浴したことはない。
(正直、一緒に温泉に入るのが、俺にとっては今回の訪問の一番の目的なんだがな…)
濡れた髪をかき上げ、フェリシアの背中を見つめる。
美しいプラチナブロンドは高い位置で纏め上げられ、薔薇色に上気した細い肩と首筋が露わになっていた。手を伸ばしたい衝動をぐっと堪える。
「フェリシア、こっちにおいで」
優しく声を掛けると、フェリシアがおずおずと振り向いた。しかし、ヨアンと目が合うなり、ぱっと恥ずかしげに向き直ってしまった。
「フェリシア」
もう一度、請うように呼びかける。強引に抱きすくめて隣に連れてくることもできるが、せっかくならフェリシアから近づいてきてほしかった。
フェリシアにもヨアンの気持ちが伝わったのだろう。僅かな躊躇いの後、やっと聞き取れるほどの小さな声で返事があった。
「そっち…向いていてくださいね」
微かな水音が近づいてきて、ヨアンの背中に華奢でしなやかな背中が触れる。柔らかい感触とともに、お湯よりもずっと熱い体温が伝わってきた。
「ほら、見て。綺麗だろう?」
ヨアンに促され、夜空を見上げたフェリシアの口から、感嘆が漏れる。
「わぁ…本当ですね…。星が近い…。なんだか手が届きそう…」
「バトン領の標高の高さだからこそ、見られる景色だな」
とろりと優しく肌を包む温泉のお湯のせいだろうか、触れ合う背中がしっとりと吸いつく。まるで、二人の境界線が溶け合い、混ざり合っていくかのよう。それが得も言われぬ幸福感を与えてくれる。
二人はしばらく黙って互いの熱を背中に感じながら、星空を眺めていた。
「滞在中は、毎日一緒に入ろう」
ヨアンが言うと、少し間をおいてフェリシアがこくりと頷いたのがわかった。




