2.黄泉の国は誘う
陽炎姫フェリシアの、悲しい過去とは…
もともと病弱だったフェリシアの母マルグリットがこの世を去ったのは、フェリシアが8歳の時だ。
マルグリットは、フェリシアと兄ベルナールが受け継いだプラチナブロンドの髪を持つ、美しい人だった。
療養のため訪れていた地で父クリストフと出会い、月光のように儚げで清らかなその姿に一目で恋したクリストフから熱心なアプローチを受けて、王族から降嫁した。僅かながら持っていた魔力は、フェリシアにも受け継がれている。
二人の子どもを産んだ後はさらに病気がちになり、ほとんどの時間をベットの上で過ごすようになっていった。
毎日のように病床の母に本を読み、楽器を演奏し、花を摘んで届けては、小さな手で母の病を癒やそうと尽力したフェリシアの願いは、残念ながら届くことはなかった。
「貴女が大人になるまで見守ってあげられなくてごめんなさい、フェリシア。あなたの幸せを祈っているわ」
消え入るような声で、笑顔で、フェリシアの髪を撫でてくれた優しい母の手。
フェリシアが第一王子の婚約者になったのを見届けたかのように、母は黄泉へと旅立ってしまったのだった。
「お母様、私の力が足りなくてごめんなさい。私の治癒の能力がもっと強かったら、お母様を黄泉に行かせずに済んだかもしれないのに。本当にごめんなさい。お母様…ごめんなさい…」
冷たくなった母に縋り付いて涙を流すフェリシアの小さな背中を、兄のベルナールがぎゅっと涙を堪えながら、いつまでもさすっていた。
デュプラ家の精神を支えていたマルグリットを失い、家族は悲しみの底に突き落とされた。
マルグリットを深く愛していたクリストフの憔悴した様子は、見ている者の胸を締めつけるほどの痛々しさだった。同様に、最愛の母を失い深く胸を痛めていたフェリシアとベルナールも、そんな父の腕に縋って涙を流した。
王の忠実な臣下だったクリストフは、愛する妻を失った現実から目を背けるかのように職務に没頭し、周囲が止めるのも聞かずに働いた。働き続けた。
逞しかった様相は見る影もなくなるほどに、クリストフは窶れ、痩せていった。
父の悲しみが痛いほど伝わってきていたフェリシアとベルナールは、父にこれ以上の負担を掛けたくないという思いから、二人寄り添い、母を失った深い悲しみを慰め合った。
ベルナールは穏やかでいつもフェリシアに優しく、夜は母がしてくれたように、ゆっくりと髪を撫でて眠るまで見守っていてくれた。フェリシアが寂しい時、辛い時にはいつもベルナールがいた。ベルナールにとっても、フェリシアという守るべき存在がいてくれることが、心の拠り所だった。
「フェリシアは、ここにいてくれるだけでいいんだ。お母様だってそう思っていたはずだよ。お父様だって、もちろん僕だって、フェリシアを心から愛している。だから自分が無力だなんて思わないで」
度々夜中に母の夢を見て「お母様ごめんなさい」と泣くフェリシアをぎゅっと抱きしめて、ベルナールはよくそう言った。
僅かばかり傷や病を癒やせる量の魔力を持っているが故に、その至らなさに打ちひしがれるフェリシアを、そもそもフェリシアにも満たない魔力量のベルナールは案じていたのだ。
「僕たちが持つ魔力なんて、始めからないも同然なんだ。それで何かができなかったからといって、何も恥じることも、悔いることもない。フェリシアは十分頑張っているじゃないか。魔力なんて、最初からないものだと思えばいい。僕たちの役割は、魔力を使うことではないんだから」
ベルナールはそう言ってフェリシアを慰め、自身も魔力などないものとして勉学や剣術などに励む背中をフェリシアに見せることで、フェリシアが歩むべき道を示そうとした。
母を失った痛みは同じはずなのに、フェリシアを案じて痛みをみせないベルナールを見て、フェリシアも寂しさや無力感を振り払おうと、教育係がもう少し休息を取るよう助言するほどに妃教育に打ち込んだ。
窶れていくクリストフの様子と、兄妹の境遇を見かねた国王から遂に、
「まずはお前の心の救済が最優先事項だ。ベルナールとフェリシアのためにも、家庭を再構築せよ」
との命が下され、クリストフが新しい妻を娶ることになったのは、フェリシアが10歳の時である。
デュプラ家に後妻としてやってきたのは、同じく夫を亡くし、生家であるレイモン男爵家に身を寄せていたイヴェットだった。
レイモン男爵家は新興の貴族で、武器商人として多くの財を成し、国へ多額の寄付を行ったことで男爵の称号を得た家だ。レイモン家からの熱心な申し出を国王が承諾し、クリストフとイヴェットの再婚が決まった。
イヴェットは9歳の娘、セリーヌを連れてデュプラ家にやってきた。
猫のようなヘーゼルナッツの瞳に、ウエーブのかかったチョコレートブラウンの髪。楚々とした美しさが目を引くフェリシアとは対照的に、セリーヌは派手で気が強そうな印象を与える美少女だった。
嫁いできた当初、イヴェットは夫となったクリストフを献身的に支え、フェリシアやベルナールにも穏やかに接していた。少しずつ顔色が良くなり、体調も回復していく父を見て、兄妹も胸を撫で下ろした。
ただひとつの懸念は、イヴェットは殊更娘セリーヌへの愛情が深く、新しいドレスやアクセサリーを惜しみなく与え、セリーヌが望むものは何でも手に入れようと手を尽くすことだった。
「お母様、お義姉様が持っているようなリボンが欲しいの」
「わかったわ。早速買いに行きましょう」
「嬉しい!お母様だーい好き!」
「私もセリーヌが大好きよ」
セリーヌは1歳違いのフェリシアにひどく対抗心を燃やすところがあり、いつでもフェリシアが持つものを欲しがった。その度にイヴェットがそれ以上のものをセリーヌに買い与え、セリーヌは自分の持ちものの方がフェリシアのそれよりも高価で素晴らしいことに満足した。
やや過剰に見えたイヴェットの我が子への愛が明らかに常軌を逸していったのは、クリストフとの間にデュプラ家次男となるマクシムが誕生したことがきっかけだった。
マルグリットに残した強い思いから、再婚後もイヴェットと情を交わすことはなかったクリストフだったが、たった一度だけ、酒を飲み過ぎて記憶をなくした夜があった。
折しもそれはマルグリットの命日。彼女への思いに沈んでいたクリストフに、お酒で辛いことを忘れる夜があってもいいのでは?とイヴェットが酒を勧めたことがきっかけだった。
翌朝目覚めて、隣で眠るイヴェットの姿を目にした時のクリストフの衝撃と後悔は計り知れない。
きっかけが何であれ、そのたった一度で、イヴェットはマクシムを授かったのである。
クリストフはそれ以降、酒を口にすることはほとんどなくなり、イヴェットとの同衾も二度となかったが、生まれてきた命を尊び、マクシムにフェリシアとベルナール同様の愛情を注いだ。
マクシムの誕生を機に、イヴェットはマクシムとセリーヌのためならば、何を犠牲にしても構わない、という態度を露骨に取るようになった。
どんなに高価なものでも二人が欲すれば与え、二人のためになると思われるものはどんな手を使ってでも手に入れ、二人に少しでも気に入らない態度を取った使用人はすぐさま辞めさせた。
フェリシアとベルナールに対しても、その態度の変化は如実に表れた。
クリストフの留守中、ベルナールの対応に異論を唱えたり、フェリシアの持ち物でもセリーヌが欲しがれば勝手に与えたりといった行動を取るようになっていったのだ。
「あら?セリーヌ、その髪飾りは…」
「ああこれ?そうよ、お義姉様の。この間着けてらした時に、素敵だと思って。お母様に聞いたら、私の方が似合うから使っていいって言ったのよ」
「でも、それはお父様から誕生日のお祝いにいただいたもので…」
「フェリシア、貴女は似たようなものをアレクシス殿下からもいただいていたでしょう?義姉なんだから、そのくらい譲ってあげなさい」
「――はい…」
フェリシアもベルナールも、マクシムやセリーヌを弟妹として大切に思っていたが、イヴェットにとってフェリシアとベルナールは、自分のお腹を痛めて産んだ子どもたちの邪魔をする者、という存在になってしまったようだった。
職務のため留守がちなクリストフが預かり知らぬところで、デュプラ家は静かに狂い始めていたのだ。
「お兄様、お顔の色が優れませんわ。少しお休みになった方がよろしいのでは?」
イヴェットが嫁いできて5年、マクシムが誕生して2年が経った頃、ベルナールが突然、目に見えて体調を崩した。
18歳、それまで毎日欠かさず鍛錬に励んでいたベルナールは、細身ながら鍛え上げられた体躯をしており、持病があるわけでもない。突然の不調はフェリシアを不安に駆り立てた。
「うん、この手紙だけ書いたら、少し横にならせてもらうよ」
もともと色白なベルナールの顔は、青ざめて血の気がなかった。海のような煌めきを湛えていた父と同じ藍玉の瞳も力ない。
それでも気丈に微笑みを浮かべた優しい兄の顔を、フェリシアは心配そうに覗き込む。
(お母様も亡くなる前、こんなお顔の色をされていたわ…)
父の補佐をしていたベルナールは、侯爵家を継ぐ者として早くから才覚を発揮していた。
国の外交を担い邸を空けることが多い父に代わり、家令とともに侯爵家を切り盛りする手腕は、多方から称賛されていた。
国王の覚えもめでたく、将来を嘱望される存在なうえ、フェリシアとよく似た秀麗な顔立ちとプラチナブロンドで、社交の場でも引く手数多だった。
穏やかで、母亡き後職務に没頭した父に代わり、いつもフェリシアに寄り添ってくれたのはベルナールだ。母を思い眠れない夜も、ベルナールがいてくれたから乗り越えられたのに。
「昨日お義母様が呼んでくださったお医者様の診断は過労とのことでしたが、私にはどうしてもそれだけには見えません。もう一度他のお医者様に診ていただきませんか?」
とても過労などでは片づけられなそうなベルナールの様子。フェリシアは心配で仕方なかった。
「フェリシアは心配性だな。少し休めば問題ないよ」
心配するフェリシアを安心させるように頭を撫でて微笑むと、ベルナールは再び手紙の続きを綴り始める。
「これは公爵からの手紙への返事だから、早くお届けしたいんだよ。父上からは、今月は帰れないと連絡がきているからね」
「お兄様…」
「大丈夫。心配しないで」
せめて、私の癒しの力があと少しでも強かったら──。どうか、思いよ届いて。
フェリシアは祈るような思いで、兄の背中をさすった。
しかし、願い虚しくベルナールはその夜倒れ、再び目を覚ますことなく3日後にこの世を去った。
あまりに急な体調の悪化。あまりに若過ぎる死。過労と診断を下した医師は、死因を原因不明とした。
母を失った悲しみを、手を取り合って乗り越えてきた最愛の兄をも失ったフェリシアは、自分を責めることしかできなかった。
(私の僅かな魔力では、また大切な人を救えなかった…。私の力が及ばないばかりに、みんな黄泉へと渡っていってしまう…。お兄様、何もできなくてごめんなさい…。どうして、どうして私はこんなに無力なの?)
泪に沈み泡沫夢幻を嘆くフェリシアは以前に増して儚げで、その身まで黄泉へと渡っていってしまうのではないかと周囲を不安にさせた。
当時婚約者だったアレクシスもフェリシアを案じ、多忙のなか、時間を縫っては毎日のようにデュプラ邸を訪れた。
アレクシスにとっても、2歳年下のベルナールは幼い頃からよく知る存在。友であり、将来自分の義兄となる人物であり、忠臣となってくれるであろう大切な存在だった。アレクシスの心にも、ベルナールの訃報は暗く重くのしかかっていた。
「フェリシア、僕がついてる」
フェリシアを励ます声を掛けながらも、どうしようもない喪失感を拭えない。
麗しい二人が悲しみを湛え寄り添う様子は、切なくも絵画のように美しい光景だった。
デビュタント前のセリーヌがアレクシスを直接目にしたのは、この時が初めてのことだ。
それまではフェリシアが登城してアレクシスに面会していたために、アレクシスがデュプラ家を訪れる機会はなかった。
王太子アレクシスの姿絵は貴族の間に広く出回り、もちろんセリーヌも目にはしていたが、本人の美しさと輝きは姿絵など遥かに凌ぐ。
「何て綺麗な方…。あの方が、お義姉様の婚約者…」
寄り添う二人の姿をじっと見つめるセリーヌの瞳は、何か恐ろしいものを宿しているかのように鋭い光を放っていた。
数ヶ月が過ぎ、フェリシアはアレクシスに支えられながら、妃教育のための登城を再開した。
妃に必要な教養やマナーなら、フェリシアはとうに会得していたが、日々移り変わる国の情勢や外交に関する情報までを網羅していたフェリシアは、妃教育という名のもとに実質は現王妃の補佐として、登城を望まれていたのだ。
そんなフェリシアに、セリーヌは度々、一緒に王城に行きたいとせがむようになった。
しかし、登城は王妃補佐のためであり、私用ではない。
「ごめんなさい、セリーヌ。私の一存ではどうにもできないの」
申し訳なさそうに言うフェリシアの顔を、セリーヌは恨めしげに見つめた。
「お義姉様が羨ましいわ。何でも持っていらっしゃるもの」
困ったように首をかしげるフェリシア。
幼い頃に母を、そして今度は兄を失った悲しみと虚無感を抱える自分が、羨ましい?
「私も、欲しいわ」
小さく呟いたセリーヌの声は、フェリシアの耳には届かなかった。
「セリーヌ」
マクシムを抱きかかえたメイドを従え、イヴェットがセリーヌを呼びにやってきた。
「お母様!」
セリーヌが何かを訴えたげに母に駆け寄る。
ベルナールがこの世を去ってまだ数ヶ月だというのに、イヴェットはもうマクシムをデュプラ侯爵家の後継ぎとして立たせるため、王城に根回しをしたり家庭教師を探したりと、忙しなく動き回っているようだった。
長男のベルナール亡き今、次男であるマクシムが跡取りとなるのは当然のことだが、フェリシアはもちろん、クリストフも未だそんな気にはなれないでいた。
しかし、イヴェットの中では時は止まることなく流れているらしい。そういえば、今日はセリーヌのデビュタントに向けて、衣装を誂えると言っていた。
「登城する時間ですので、私は出掛けてまいります」
フェリシアは二人に挨拶をして馬車に乗る。
「ええ、いってらっしゃい」
貼り付けたような笑顔で微笑むイヴェットと、恨めしそうな視線を取り繕いもせずフェリシアに投げるセリーヌ。母娘は、王城へ向かう馬車をじっと見送っていた。
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