王子様は捨てられたくない〜不器用な王子と婚約者
※短編「公爵令嬢は婚約破棄したい」の王太子視点です。
※こちら単体でも問題なく読めます。
ブルトン王国の王太子フレドリックには絶世の美女と名高い婚約者がいた。
モートン公爵令嬢のエリザベスという大変美しい少女だった。彼女の祖母は前国王の妹姫で、フレドリックとは又従妹にあたる。絶世の美女として名高かったその元王女とエリザベスはまさに生き写しと呼ばれていた。
彼女の稲穂を思わせる波打つ黄金の髪は艶を帯び滑らかであり、黄金の瞳は長いまつ毛に縁どられ、淑やかでありながら見るものを捉えて放さない。
その肌は陶器のように白く、ただ頬と唇に朱をまとうのみである。
フレドリックがエリザベスと初めて出会ったのは、五歳の時の王妃主催の茶会の席であった。身内の茶会であり、王妃と親しい夫人やその家族たちで構成されていた。
モートン公爵夫人もそんな一人であり、王妃とは結婚前からの親友で、その子供たちラウルとリナルド兄弟とはフレドリックも幼馴染としてよく遊ぶ仲であった。
その日は、三歳になったばかりのエリザベスも連れてこられていた。
愛しそうにラウルとリナルドに手をつながれて、トコトコ歩くその様子はまさに天使だった。フレドリックは見とれ、普段なら、三人で園庭で遊びまわるところを、その日はずっとエリザベスを囲んでその愛らしさを堪能した。
それきりエリザベスとは会えずじまいだったが、八歳の時に婚約者選びを打診された。
この国の軍事を司るウィルトン侯爵家と縁を作るため、前侯爵の孫娘の誰かを婚約者に選んではどうかという話だった。
ウィルトン前侯爵の孫娘は二人。エリザベスと、ウィルトン前侯爵の嫡男、現侯爵の娘アンジェリカ。
いずれも美しい少女として名高かった。
フレドリックはチャンスとばかりにエリザベスを婚約者にと望んで、叶えられた。
九歳になって、エリザベスと婚約後初めての顔合わせを行うことになった。どれだけ美しく成長したか楽しみにしていると、そこには予想を遙かに上回る美姫がいた。
エリザベスは七歳ながらまさに完璧だった。その姿形だけではなく、振る舞いも淑女として完成されていた。
「初めまして。エリザベス・モートンでございます。お目にかかれて幸いに存じます。」
エリザベスは優雅なカーテシーを取ると、顔を上げて、花が綻ぶような笑顔をフレドリックに向けた。フレドリックは言うべき言葉をたくさん用意していたが、すべて完全に頭から消え去り、ただ「ああ」と頷くしかできなかった。
それからラウル、リナルドを交えて定期的に会うようになったが、ただエリザベスの美しさ、愛らしさに見とれるしかなく、自分から話しかけることはほとんどできなかった。別れのたびに自分の不甲斐なさに苛立ち、後悔ばかりが募った。それでも変わらず笑みを浮かべて接してくれるエリザベスにいつも救われる思いだった。
十歳になってリナルドと一緒に騎士見習いになった。十二歳になり加えて王立学院に通うようになるとエリザベスと過ごす時間はどんどん減っていった。
それでもほとんど一緒に過ごしているリナルドからエリザベスのことを聞き出し、ことあるごとに、彼女が気に入りそうなものを贈った。
「エリザベスは花や宝石とかには興味ないけど髪飾りやリボンが好きだよ」
リナルドがそう言うと、直ちに王妃の御用達の商家に依頼し、最高の物を用意させた。
贈る時に文を添えようと何度も思ったがエリザベスへの気持ちを言い表す言葉が見つからず、結局名前だけのカードを贈るにとどまった。
エリザベスが乗馬を始めて愛馬を手に入れたと聞けば、馬具一式を贈った。
ドレスだって季節ごとに数着仕立ててずっと贈り続けている。
言葉が紡ぎ出せないので贈り物で気持ちを伝えるしか術がなかったフレドリックには、お返しに心のこもった刺繍の施されたプレゼントを優しい言葉と謝意の綴られた手紙を受け取るたびに、エリザベスにちゃんとわかってもらえていると安堵していた。
フレドリックは文才がないわけではない。王立学院では文学を含め全部の教科で首位を誇っていた。剣の腕も優れ、まさに文武両道の完璧な王子である。
王立学院では勉学だけでなく、人脈作りが最も重要であったが、冷徹と呼ばれながらも実は人間としても優れていたこの王子は多くの信頼できる学友を得ていた。特に優秀な者が多い平民出身者に人脈ができたことは、大きな糧となった。
ことエリザベスに関すること以外では誰もが彼を理想の王子であると感じ、彼が未来の王となり国を導くことこそ国を安寧に導くと考えていた。
しかし、婚約者への接し方についてのみ、事情をよく知っているリナルドを含め、学友たちから常にからかいの対象となっていた。
「で、婚約者とはどこまで進んだんだい?」
ドルトン公爵家の嫡男、デイビッドは無遠慮に毎回聞いてくる。デイビッドはモートン兄妹のことをよく知っていた。もしフレドリックと婚約していなければエリザベスはデイビッドと婚約していたことだろう。
この国で公爵位を持つ五つの貴族は皆王家の血縁者で、大なり小なり王位継承権を持っている。婚姻もその中で結びあうことが多い。
「どこって……、相変わらず仲睦まじくやっているよ」
フレドリックは憮然として言った。それを受けてリナルドが苦笑する。
「フレッドはもう少しまともにエリザベスと話ができるようにならないと、結婚なんてとてもじゃないけど無理だね」
「でもリナルドの妹御の顔を見ると、殿下が言葉を失う気持ちはわかるよ。あれはまさに女神だ」
平民出身だが大商家の跡取りのエドモンドがフォローする。
しかしその言葉を受けて、クラスメイトの男どもはいかにエリザベス・モートンの美貌が素晴らしいかを我先に称えだした。
エリザベスはもちろん学友たちもまだ社交界デビューを果たしていなかったが、兄と婚約者の学院での発表会にやってきたその美貌の少女は学院に在籍する多くの者たちが知るところとなっていた。
「あれはまさに神話の豊饒の女神だね。稲穂色の髪と太陽のような瞳はこの世のものとは思えないよ」
「絶世の美姫と名高かったメアリ王女の絵姿に生き写しだよな。あと二、三年すればどれだけ美しくなるのか想像もできないよ」
「いや、顔だけじゃない。あの優雅で洗練された所作。さすが社交界の華、淑女の鑑と謳われる公爵夫人の娘だ」
「……お前ら人の妹をネタに盛り上がるな。俺が恥ずかしいよ」
リナルドが止めるまで会話が止まることはなかった。
「まあ、フレッドはこの国のみならず世界中の男が求めてもおかしくない宝石を手にする権利を得たんだ。王太子の特権でね。大事にしないならいつでも僕が貰い受けるよ」
デイビッドが警告のようにそう言うと、その場にいる全員が頷いた。フレドリックの味方は一人もいなさそうだ。
フレドリックは更に憮然としたが、やはり返す言葉は見つからなかった。
十五歳になり学院を卒業し、正式に騎士となった。王太子としての立場から王立騎士団の一つを任され国防の任についた。と言っても、現在隣国との仲は良好なので、特に危険な任務があるわけではなかったが、それでも王都外に出向くことが増えて、エリザベスと二人切りの時間を持つことは難しかった。
一年ほど前から王妃教育のために王宮に通うようになったエリザベスの姿を度々見かけてはいた。近づいて声を掛けたかったが、やはり何と言って声を掛けたら良いのかわからず、ただ遠くから見守ることしかできなかった。
婚約以来数年、結局エリザベスとの距離は縮まるどころか離れてしまった気がしていた。
たまに会っても以前のような屈託のない笑顔ではなく、作り笑いのような微笑しか向けてもらえていないような気がしていた。
それを感じるたびに、何とかしたいと思っていたが良い方法が見つかることはなかった。
エリザベスが十五歳になり、社交界デビューを果たし、パートナーとして一緒に参加するようになった。そのデビュッタントの日、真っ白なドレスに身を包んだエリザベスはまさに地上に舞い降りた女神のようで、ただ見惚れることしかできなかった。呆けている内に入場もダンスも挨拶も終わり、自分がどのように彼女をエスコートしたのかフレドリックには記憶がない。ただ輝くばかりのエリザベスの美しさだけが脳裏に焼き付いている。
エリザベスの手を取り、夜会に行くたびに、気の利いたことが一言も出てこない自分に心底嫌気が差していた。頼りのリナルドは近衛騎士団に所属しているせいで、夜会にはほとんど顔を出さない。何とか二人で挨拶をし、ファーストダンスを終えて、ラウルにエリザベスの手を託すのが精一杯で、会話らしい会話をすることはできなかった。
悲壮な顔をして踊るフレドリックを心配した学友たちが、やはり同級生だった伯爵令嬢のリディアとダンスして、女に慣れろとけし掛けてきた。リディアとのダンスは気安く、すぐに軽口が叩けられるほどに気を許すことができたので、フレドリックの失語症は対エリザベス限定だということがわかった。
デビュタントなどの他の令嬢に請われて踊っても同じで、愛想笑いを浮かべることも余裕でできた。その反面、ラウルやモートン公爵と楽しそうに踊るエリザベスを常に視界に入れ、切なくも思っていた。
それでも何度もエリザベスと夜会に参加し、そのファーストダンスの権利を持っていることだけが心の支えとなった。エリザベスと踊れたことが満足で、毎回リディアがダンスを申込みに来てくれることも、別に気にもとどめていなかった。
しかしある日、リナルドからリディアと自分の噂について指摘されて驚愕する。
「社交界でリディアはフレドリックの恋人であり、側妃になるのだともっぱらの噂となっているぞ。何とかしろよ」
責めるような親友であり、将来の義理の兄となるリナルドの言葉に顔色を失った。
その次の夜会でリディアとダンスを踊った時に、こっそり噂のことを話した。
「リディア、踊るのはこれが最後だ。妙な噂になって申し訳ない」
友人としてリディアのことは敬意を持っていたが、恋愛感情は欠片もなかった。
エリザベスに何か言い訳すべきだとわかっていたが、単なる愛の言葉も容易に紡ぎだせないフレドリックには釈明の言葉は難易度が高すぎた。
夏の社交界も残すところあとわずかという夜会で、いつものようにフレドリックはエリザベスをエスコートしていた。今夜のドレスは黒地に金糸の刺繍が施された豪奢なもので、いつもよりも妖艶な雰囲気を醸し出していたが、その顔色は精気が足りないように見えた。
「エリザベス、……顔色が冴えないようだが」
「あら、夏の疲れが出たのかしら。ご心配なさらないで。元気ですから」
心なしかその笑顔も弱々しく感じ、フレドリックはエリザベスの手を少し強く握った。エリザベスは笑顔を張り付けたまま、ゆっくり目をそらしホールへ歩みを進めた。
ファーストダンスが終わってもフレドリックはエリザベスの手を離すことができなかった。エリザベスは小首をかしげて、もう片方の手を添え、「どうかご遠慮なさらずに大切な方の手をお取りください」と囁いた。
フレドリックは思わず手に力を込めたが、エリザベスに半ば強引に手をほどかれた。
――噂のことを彼女も耳にしている。誤解を解かなければ。
そう思っても、スルリと傍に来ていたラウルの手を取ったエリザベスを引き留めることはできなかった。
フレドリックはエリザベスに視線を置いたまま。壁側に移動した。
たおやかに踊りだすエリザベスであったが、いつものような華やかさに欠けていた。そして、曲が終わるころ、身体の力を失くしたようにエリザベスは倒れこみ、ラウルがそのまま抱え上げ、急いで連れ帰ることになって一時ホールは騒然となった。
エリザベスの体調に関しては王都中に噂が駆け巡った。だが誰もはっきりしたことはわからない。公爵家も固く口を閉ざし、夫妻も長兄も社交に姿を見せることもしばらくなかった。
フレドリックは夜会の後、すぐに公爵家に行って目通りを願ったが叶わなかった。
何度公爵家に文や見舞いの品を送っても、はっきりとしない返事ばかりで焦りを感じていた。
近衛騎士団にいるリナルドは実家を出ており、まったく頼りにならなかった。ただエリザベスが臥せっており、食事もほとんど取らなくなったことだけは伝わってきた。
最初は執務中もエリザベスのことが気になり手につかなかったが、逆に執務で忙殺していないと、自分自身の心が壊れるようにも感じていた。
そして、ひと月ほど経って公爵家からエリザベスの体調を理由に婚約を白紙としたい旨の打診があった。
リナルドに確認しようとしたが、先週から長期休暇でウィルトン侯爵領に行っている。婚約者と過ごすのだと言っていたのできっと何も知らないだろう。
とりあえず婚約を白紙に戻すことはない旨とエリザベスのご機嫌伺いの手紙を出そうとした。侍従に届けさせようとしたが、居ても立っても居られなくなって、見舞いの花を持って公爵家に直接出向いた。
公爵家では公爵や夫人は不在で長兄のラウルが出迎えた。
フレドリックはこの又従兄だけは苦手としていた。二つ上で実の兄のように慕ってきたラウルは大変優秀な男で、さすがのフレドリックもその年齢差もあって子供の頃から逆らうことができなかった。
王位継承権も四位と高位であり、この男が本気になれば自分の代わりに王位を継ぐことも現実的に可能であった。
「やあ、フレディ。言い訳を聞こうか」
ラウルは不機嫌を隠そうともせず、居丈高にそう言った。
臣下の態度ではないが、昔から公式の場以外でラウルがフレドリックに下手に出ることはなかった。
「エリザベスは君の態度にほとほと嫌気をさして心を病みかけている」
ラウルに冷たくそう言われ、フレドリックは息を呑んだ。
「リディアのことは違うんだ。ただの学友だ。それにもう二度と一緒に踊ることも話しかけることもない」
「それでもこれだけ噂になって、心を痛めないと思っているのか?君は自身の立場をもう少し自覚すべきだと思うよ。そして可愛いエリザベスをこれ以上苦しめないでくれたまえ」
そう言われると返す言葉もない。すべて無神経な自分が原因であるとの自覚はある。
それでもフレドリックにエリザベスを諦めるという選択肢はなかった。
「頼む。エリザベスを失えば、私は生きていけない。彼女が横にいてくれないなら、国王になんてとてもじゃないがなれないし、国を守ることもできない」
「それなら王太子の地位を王女に渡して、隠居すればいいじゃないか。王女とは僕が結婚してちゃんと支えてあげるよ」
ラウルは意地悪く言った。フレドリックがエリザベスと結婚しないなら、実際ラウルはフレドリックの妹と結婚することになるだろう。フレドリックは懇願するように言った。
「私からエリザベスを奪わないでくれ、初めて会ったあの時から私には彼女しかいないし、彼女以外に欲しいものは一つもないんだ。お願いだから……」
縋るようなフレドリックの態度にラウルも虐めすぎたかと少し思った。
「……まあ、その思いをエリザベスに伝えて、せいぜい言い訳することだね。でもきっとエリザベスは君に会いたくないと思うよ」
そう言って、ラウルはフレドリックをサンルームの前に案内した。
「ここで待っていてくれ、エリザベスにお伺いを立ててくるから」
ラウルは一人で部屋に入った。フレドリックは悲壮な思いで扉の前に立った。少し作りが甘いのか、扉は少し開いたままで、中の話声が聞こえてきた。
「残念ながら王家は婚約を決して白紙に戻さないと言ってきたよ」
「花は見たくないわ。気分が優れないから一人にしていただけませんか」
エリザベスの不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「王太子がお見舞いにいらっしゃるけど、どうする?」
「……会いたくないわ」
常にないエリザベスの強い口調に、フレドリックは心臓が止まりそうになった。胸が苦しくて立っていられないような気がしたが何とか踏みとどまった。
「リズ、今回の王太子の無神経さには僕も不満を感じるけど、いつまでも逃げていても何も変わらないよ。一度王太子にお前の気持ちをはっきり言ってやるべきだと思うね」
「……私を憎んでいるのに国のために結婚したいという人に何を言えというの?」
――憎んでるだって⁉こんなに愛しているのに伝わっていないのか⁉
フレドリックは驚愕した。
「……あー、リズ。彼はお前を憎んではいないよ。……わかりにくい男ではあるけど」
ラウルがバツの悪そうに言った。それに対してエリザベスは怒りの様相でまくしたてた
「今まで一度だって、微笑まれたことがないし、いつも不機嫌な顔で睨まれるばっかりよ。こちらが話しかけてもそっけないし、笑いかけても目をそらす。そんな人が欠片だって私のことを思っているわけないじゃない。今まで贈り物はたくさんいただいたけど、カードだって名前が添えられてるだけよ。手紙だって一度だっていただいたことはないわ!」
――まさかそんな風に思われていたなんて!
フレドリックは驚愕したが、思い返せばエリザベスの言う通りだった。今まで自分は彼女に愛を伝えるような直接的な表現を一度もしたことがない。言葉が見つからなかったなんてことは言い訳でしかないのは自分が一番判っていた。
「……それは確かに酷い話だね」
弱々しいラウルの声が聞こえた。
フレドリックはそっと扉を開けたが、エリザベスは気付かない。
「正直、あの顔を見るだけで胸がむかつくの。愛想笑いももうできないわ。彼に嫁ぐぐらいなら修道院に入った方がましよ」
ラウルがフレドリックの方に顔を向ける。
「……フレドリック殿下、聞こえましたか」
のっそりとフレドリックは部屋に入った。エリザベスは驚きと羞恥で声が出なかった。
「エリザベス……」
懇願するような眼をしたフレドリックはエリザベスの横にひざまずいた。
「すまない。君がそんな風に思っていたなんて……」
息が苦しい。だけど自分はどれだけこの愛する女性を苦しめてきたのだろうと後悔が募る。
「私が不甲斐ないばかりに君がそんな風に辛く思っていたなんてまったく気付きもしなかった。私は婚約者失格だ」
フレドリックの懺悔を、エリザベスはただ黙って聞いていた。
「私が君を婚約者にと望んだから、君は私の気持ちを理解してくれていると勝手に思っていた。……思いを伝えようと何度もしたけど、君の顔を見るだけで緊張して言葉が出てこないし、微笑みを返す余裕もなかった。……ただ君を見つめることしかできなかった」
フレドリックはエリザベスから目をそらし、そう語った。
「エリザベス、私は君しか見ていないんだ。どうか婚約を白紙に戻すなんて言わないでくれ。私の前からいなくならないでくれ……」
縋るようなその声に、しばらくエリザベスは押し黙ったが、すぐに不満そうに口を開いた。
「あら、フレドリック様にはリディア様がいらっしゃるのでしょう?あんなに楽しそうにしていらしたじゃないですか」
「リディアは違う!……ただの学友だ」
――ああ、やっぱりあの時すぐに誤解を解くべきだった。そもそもエリザベス以外と踊る必要なんてなかったのに。
自分の不注意が招いた結果に焦りが募った。このままでは本当に婚約破棄されてしまいかねない。
「でもねフレディ、リディア嬢とのことは僕もまだ怒っているし、彼女が君に懸想していたことは知っていたんだろ?」
ラウルが王太子殿下と臣下としてではなく、幼馴染であり婚約者の兄としての顔で言った。
「毎回彼女が私にダンスを申込みに来るのは単に学友の気安さからだと思っていたんだ」
基本的にファーストダンス以外は王子には令嬢からダンスを申込むことができる。特にデビュッタントの令嬢は通例となっていた。王子から申し込むことも可能だが、婚約者がすでにいる現在は来賓ぐらいにしか申し込まないルールになっている。
言い訳じみたその言葉では底辺に落ちてしまったエリザベスからの信頼を勝ち得ることが不可能なのはわかっていた。しかし他に言いようも見つからない。
「エリザベス、信じてくれ。私は彼女と二人きりになったことは一度もないし、意識したこともない!」
フレドリックはリディアが自分を好きなのかもしれないなんて一度も考えたことがなかった。なぜなら友人の中にもう何年も彼女を思っている男がいるからだ。
フレドリックは彼ら二人を良いパートナーだと客観的に思っていたので、まさかそこに自分が割って入るなんて想像したこともなかった。何よりもフレドリックは五歳の時からエリザベスしか見ていない。エリザベス以外の女性に惹かれたことは一度もないと神に誓えるほどに。
「どうかどうか私にもう一度チャンスをくれないか。私は君のことをあ、あ、あっ……」
――愛してるんだ。
ふり絞るように出されたその声はエリザベスの耳に届いたかどうかわからなかったが、フレドリックは耳まで真っ赤になって下を向いたままになってしまった。
あたかも判決を待つばかりの囚人のように。
「フレディ、聞こえないよ」
ラウルが意地悪く言う。肩を震わせるフレドリックを見て、エリザベスは苦笑した。
「……兄さま、もういいわ。私は聞こえましたから」
フレドリックはハッと顔を上げて、エリザベスを見た。さらに顔が赤くなった。
エリザベスが慈悲に満ち溢れた女神のような微笑みをかける。
「殿下、ではこれが最後のチャンスです。どうぞこれから結婚まで、毎週恋文を送ってくださいませ」
「恋文⁉」
「はい。私、殿下から文をいただいた覚えがありませんから」
フレドリックは情けない顔をして脱力した。
「……いつも書こうとしたんだ。でも君を思うとどんな言葉もこの気持ちを言い表せない気がして……」
「長くなくても結構ですので頑張ってくださいね」
エリザベスはにっこり容赦なく言い渡した。
覚悟を決めよう。文ぐらい書けなければエリザベスの心が手に入るはずがない。
「……わかった。……それよりも体調はどうなんだ。また少し痩せたようだが……」
以前よりもほっそりとした婚約者の顔を見る。自分がそうさせたのかと思うとまた心臓が締め付けられるような気がした。
「……少し、食欲がなかったものですから。殿下が慰めのお手紙をくださったらすぐによくなるかもしれません」
小首を傾げ、しおらしく微笑むその姿にフレドリックは頷くしかなかった。
「毎週必ず文を送る。君の体調が戻るよう薬も届けさせよう。だからどうか早く元気になってくれ」
「ありがとうございます。殿下からの文を支えにして、病に打ち勝ちますわ」
エリザベスはいつもの花が綻ぶような笑顔をフレドリックに向けてくれた。フレドリックは真っ赤な顔のまま、その眼には涙が溜まっていた。その様子を見てラウルはこっそり溜息をついた。
秋が過ぎ、冬が近づく頃にはエリザベスの体調は元の通りに戻り、多少の外出はするようになったとのことだった。
エリザベスとは文のやり取りしかしておらず、あれから直接会ってはいないが、直接会うよりも気持ちが近づいていくような気がした。
そして、年の最後の月になり再び王室主催の舞踏会が行われることになった。フレドリックはエリザベスと参加することになっている。
エリザベスが王宮に着く頃を見計らって、フレドリックが出迎えの準備をする。リナルドがやってきて、声をかけた。
「エリザベスにかける言葉はちゃんと準備してきたか?」
「声をかけるな。忘れそうになる」
リナルドは苦笑した。――その様子じゃまだまだだな。そんな思いを込めて、フレドリックの肩を叩く。
そうするうちに公爵家の馬車が到着して、ラウルが降りてきた。リナルドは一礼すると持ち場に戻った。
そして、ラウルの手を取り、ずっと会いたかった女性が姿を現した。
フレドリックは瞠目して、しばらく動くことができなかった。
七色のドレスを纏い生花を髪に飾った春の女神が目の前に立っていたのだ。
「えっ、あ、その……」
声の出ない様子にもエリザベスは根気よく待ってくれる。以前より柔らかい微笑を宿しながら。
フレドリックは深呼吸をすると、やっと言葉を口にした。
「……信じられないくらい綺麗だ。エリザベス」
眉根を寄せて苦しそうに呟いた。
「ありがとうございます。殿下」
エリザベスはまさに咲き誇る花のような華やかな笑みを浮かべ、フレドリックの手を取った。
そうして二人は並んでホールに入る。完璧な姿の、まさに女神の佇まいのエリザベスを見て、会場中から溜息がもれた。
ファーストダンスで見つめ合って踊る二人の姿は誰が見ても思い合う恋人同士に見えた。
王太子の新たな恋の噂は、王太子が婚約者に献身的な看病をしたという噂に掻き消されていた。
そしてこの日の二人はファーストダンスが終わっても離れることはなかった。フレドリックは婚約者の体調を気遣って早々と二人で一段高い王家の席に戻ってしまったのだ。
「……ご挨拶がまだ終わっていない方もいらっしゃるのだけど、いいのかしら?」
「いいんだ。もう君は私としか踊らなくていい。私も君としか踊らない」
エリザベスは苦笑する。
「社交界に初めて出た少女たちは殿下と踊ることを楽しみにしているのに」
と諫めるように言った。
「それは父に頼んであるからもう大丈夫」
「父や兄たちも残念がってましたわ」
フレドリックは少し不機嫌な顔になった。
「……実は私は君がラウルたちと踊る姿を見るのが嫌だった」
エリザベスは驚いたように目を丸くした。
「家族ですのに?」
「……だって君は、彼らに対しては本当の笑顔を見せるだろ?私には作り笑いしか見せてくれなかったのに」
恨みがましく言うその姿に、エリザベスは眉根を寄せる。
「あら、微笑み返してくれない方に心からの笑顔なんて出ませんわ」
プイと横を向いて言われ、フレドリックは焦ったようにずっと繋ぎっぱなしだった手に力を籠めた。
「……まだ緊張が解けてるわけではないんだ。今だって心臓が痛いほど脈打っているし、顔が引き攣っているのは自分でもわかっているんだが……」
「ではせめて結婚式までには緊張を解してくださいね」
そう言って、振り向きざまに不意打ちのようにエリザベスがフレドリックの頬に口づけてくれた。
悪戯が成功した子供のように笑うエリザベスは、あの初めて会った頃の天使を彷彿とさせた。フレドリックは自分の顔も緩み切るのを感じた。
了
お読みくださりありがとうございました!
また「公爵令嬢は婚約破棄したい」も多くの方にお読み頂くことができ、本当に嬉しく思っております。
ブックマーク、評価、ご感想、誤字報告等も大変有り難く頂きました。
また来週末から「ヒロインですが悪役令息のメイドになってしまいました」を連載予定です。こちらもご愛読賜われましたら幸いです(๑˃̵ᴗ˂̵)
今度は正統派のボーイミーツガールを目指します!