第三十五節*女王と北の事情
ラッポニアから来た貿易大臣エメリヒは焦り始めていた。わざわざ遠い異国の地にまで足を延ばした本当の目的が、一向に果たされなかったからである。
貿易協定の更新とは、ドゥンケルタールに入国するための建前に過ぎなかった。こうでもしなければ、この謎多き国には足を踏み入れることすら難しいからだ。数十年前から国交があるも、自由に出入りできるのは地上拠点のみ。王都がある渓谷は正確な所在が知らされていない。こうした会議の申し入れでもしない限り、友好国と雖も城を訪れることは出来なかった。
だがそんな得体の知れない国で、エメリヒは一人の男を探す必要があった。
名前や顔は分からない。
それでも、彼らには洗濯に優れた人材が必要だった。
『洗濯屋と魔王様』 第四章
事の発端はひと月ほど前に遡る。
現女王の母君にあたる先代が急逝し、ラッポニア国内に衝撃が走った。女王の夫、つまり王も数年前に病で身罷っている。王と女王を失った王家は、すぐに王位継承順位に従って四女を即位させた。
これによってラッポニアは国としての対面を保ち、事なきを得たかのように見えた。
だが、新しく女王となった四女は未婚であった。
大陸北部の風習で、姓を持つ王侯貴族が家督を継ぐときの条件に【婚姻】がある。これは家の存続をより強固にするための習わしで、現在に至るまでずっと重要視されてきた。貴族であれば婚姻なしに家を継ぐことは有り得ず、王族とて例外ではない。未婚での即位は玉座が空になることを避けるための異例の措置だった。
新女王は仮の就任と見做され、婚姻を以て正式に認められる運びとなった。
王家に近しい側近たちはすぐさま結婚相手を探し、女王の座を揺るぎないものにしようと考えた。幸いにも一つの話が順調にまとまり、次いで儀式の用意が進められていた。だがその矢先、婚礼の儀で使用されるドレスが汚れてしまったのだ。
代々伝わる衣装を用いなければ権威の象徴が欠けた君主になってしまう。側近たちは大いに焦り、何とかこれを元に戻そうと試みた。けれども汚れは思うように落ちず、このため女王の正式な即位は滞ってしまった。
側近たちはまた頭を突き合わせ、どうするべきか手を尽くし考えた。いっそのこと同じ衣装を新しく作り、すり替えてしまおうと言う案も出た。けれども結局、話はまとまらず日だけが過ぎていった。
そんな中、数年前にサハラウ国へ赴いた者がとある事件を思い出したのだ。
国賓が揃った宴席でのこと。一人の給仕が王子の袖に赤ワインを零してしまった。心根の優しい王子はこの粗相を咎めなかったが、汚れた袖を悲しそうに眺められた。周りにいた者たちも淡い色にハッキリとついてしまったシミは、もう取れないものと思っていた。しかしそこへ一人の男が飛び込み、王子の袖に何かを施した。この闖入者は即座に摘まみ出されたので、一体何をしたのか詳しいことは分からない。だが驚いたことに、後日見かけた同じ衣装には、汚れの痕など少しも残ってはいなかったと言う。
ほんの僅かな間に男が汚れを消したに違いない。
側近たちはそう考え、この謎の従者に一縷の望みを掛けることにした。国内で万策が尽きた今、形振りなど構っていられない。外へ話が漏れたとしても、素性の知れない者であったとしても、早急に婚礼の儀さえ済めばそれで良い。ワインのシミを跡形もなく消してしまうような魔法であれば、きっと女王のドレスも元通りになるだろう。
当時の様子から、男はドゥンケルタール国の従者だと推測された。
エメリヒは貿易大臣という立場を利用して、ドゥンケルタールに入国した。この機会に何としてでも男を見つけ出し、連れ帰らなければならない。
だが蓋を開けてみれば居るか居ないかの返事さえ有耶無耶で、名前すら掴めなかった。たった数年前の出来事のはずなのに、「記憶にない」の一点張りで当を得る回答が返ってこない。仕方なく協定書へのサインを拒み居座ってはみたが、このままではいずれ強制送還されるのが目に見えていた。
そこでエメリヒは魔法で身を隠し、自ら城内を詮索するという強引な手段に出たのだ。
結果、彼は見事に大当たりを引き当てた。
エメリヒとカールは互いに目を丸くしていた。エメリヒはこんな幸運があるのかと信じられない気持ちで、カールはなぜ自分が探されているのかと不思議に思った。
しばらくの間、二人は言葉を失い顔を合わせて固まった。
「………本当なんだろうな? 貴様が、サハラウで王族の衣を洗った者だと言うのは。何か証拠はあるのか?」
沈黙からややあって、先に口を開いたのはエメリヒだった。
疑うように尻尾を揺らし、怪訝そうな声でカールを問い質す。顔はヒトの造りとよく似ていたが、少しでも口を開けば鋭利な歯列が光った。
「証拠はありませんが……。タラル様のお袖にかかった赤ワインの話ですよね? それなら確かに、その場にあった塩と白ワインで私が対処いたしました…。サハラウ国で、三年前のことです」
「は? 塩と白ワインだと? そんな物で汚れを落としたと言うのか? 内容は確かに私が聞いたものと合っている……。だが、貴様は汚れを落とす魔法に特化している訳ではないのか?」
「ええ、まあ……生憎、魔法はあまり…」
カールはカールで抱えた洗濯物を気にしつつ、恐る恐る返事をした。
目の前のエメリヒだけでなく、なぜか他の従者や護衛の視線までもが一身に集まっている。サハラウでの苦い経験はもう数年前の出来事だし、そこでラッポニアと面識を持った覚えもない。どう記憶を漁っても間違いなく初対面なのに、部屋中の注目を浴びている。
助けを求めるように籠を抱えるも、洗濯物は洗われるのを待つばかりだった。
「何だと……? では貴様、魔法を使わずにシミを消せると言うのか? ドレスはどうだ? この際手段など何でも良い! 女王陛下のドレスが元に戻らぬのだ。貴様の力で汚れを落とせるかっ? どうだっ?」
「うわッ! やっ、……へ。えっ? ド、ドレス…?」
「そうだ! 婚礼衣装のドレスだ!」
エメリヒはカールの言葉を聞いてあからさまに肩を落とした。失望にも似た表情でもともと垂れていた耳が一層顔に貼り付く。だがそれはほんの一瞬のことで、彼は直ぐに表情を変えると勢い良くカールに飛びかかった。
指先から僅かに飛び出た爪が服に食い込む。
鋭い犬歯がぎらりと光る。
カールは噛みつかれるのかと思い、悲鳴を上げて身を縮めた。だが痛むのは強く掴まれた肩ばかりで、牙が襲ってくる気配はない。それに意外な言葉が耳に飛び込み、彼は思わず顔を上げた。
「…あの、もしかして、洗濯のご依頼ですか?」
エメリヒが真剣な表情で頷いた瞬間、俄に扉の外が騒がしくなった。
***
リヴドール族のテディーたちは、愛らしいぬいぐるみのような姿の魔物だ。古くからボーデンヴォール城に住み着き、城内の手伝いや情報伝達を担っている。小さいうちは簡単に影へ潜むことができ、神出鬼没にあちこちへ移動する。
カールが魔国で働くようになって以来、彼らは魔法が使えないカールに代わっていろいろな手伝いをしてきた。魔力でアイロンを温めるのも、火をおこすのも、連絡を受けたり出したりするのも、カールの分はみんな彼らが行っている。特に親友のアルはほぼ毎日のようにカールを手伝い、仲良く城内を歩く姿が多く見られた。
今朝も二人で一仕事終え、カールを作業部屋へ見送ったところだった。
影の中で次の仕事を確認していたアルの耳に、悲鳴が聞こえてきたのだ。
「わっ……何だろう?」
驚いた彼はそおっと廊下に現れて辺りを見回した。
すると曲がり角のところを、カールが誰かに引きずられて行くではないか。
声を掛ける間もなく連れ去られてしまった親友を見てアルは慌てた。直ぐに仲間へ緊急を伝え、応援を求める。そして自分自身は居ても立ってもいられず、友の行方を突き止めるため小さな体で後を追いかけた。
連日の皺寄せでいつもより早く執務を始めていたヴフトは、事務処理から休みなく会議に入っていた。テディーからの知らせが入ったのはその最中である。疲労により刻まれていた眉間の溝が一層深まり、ヴフトは直ぐに立ち上がった。
会議を一時中断し、産業の卿を呼びつける。
カッ、カッと足音を荒立てながら客間へ向かうと、その前でテディーがラッポニアの護衛ともめていた。
「大臣さまが、カールさんを連れて入るのを見ました! お手伝いであれば、僕たちがいたします! 彼には別の仕事がありますので、どうかお返しください!」
「なりません。エメリヒ様のお話が済めば返します。君たちに用はありません。下がりなさい」
「いやです! 今すぐカールさんを返してください!」
「こらっ、扉に触れるな! 大臣様がおられる部屋だぞ! 不敬であろう!」
「カールさん! カールさんっ!」
「カールさんを返してください!」
小さなテディーが護衛の静止を掻い潜ってドアを叩く。摘ままれても影に引っ込み、また現れて声を上げる。しかも影に引っ込む度に一人、二人と数が増えていく。気付けば大勢のテディーに囲まれて、兵士たちは最早どれが最初の一人か分からなくなっていた。
軽く摘まんであしらえる相手とは言え、数が増えれば面倒だ。見た目の愛らしさに優しく接していた兵士たちも、これには慌て始めた。牙を剥いて脅してみても、鋭い爪を見せてみても、小さな抵抗者たちは諦めずに飛び掛かってくる。
部屋は中から鍵が掛かっているのか、テディーたちが叩いても微動だにしなかった。
「テディー、止めよ!」
そんな所へヴフトが駆けつけ、一声で双方を止めさせる。テディーもラッポニアの兵も、王の姿を見るなり直ぐに引き下がった。小さな攻撃が止み、護衛たちはほっと一息つく。テディーたちは廊下を埋めるようにヴフトの後に固まった。
「ドゥンケルタール国王陛下、お助下さり感謝いたします。エメリヒ様はただいま大事な要件に取り組んでおりますので、御用がありましたら代わりにお聞きいたします」
呼吸を整え、姿勢を正した兵士は恭しくこう述べた。
礼を以て話せば分かってもらえるだろうと彼らは思っていた。
少々荒っぽいところを見られたが、これも仕事のうちだ。兵士であれば主の命に従うのは当然のこと。部下を持つ立場のヴフトであれば、理解を得られると考えていた。
だが返された言葉は期待に反して冷ややかで、美しい瞳は険しかった。
「他国の城内で騒ぐとは血の気が多いことだ。我が国の者を無断で引き入れたらしいな? 賓客と雖も許容できないことである。今すぐ中を確認させていただこう。フリーレン、扉を」
「はい」
ヴフトに呼ばれたフリーレンが親鍵を手にすっと前へ出る。
予想が外れた兵士たちは大いに慌て、必死に扉を背で隠した。
「どうかご配慮を!」
「押し入られるおつもりですかっ?」
「お止めください!」
今度は摘まみ捨てると言う訳にはいかない。他国の王の前であり、相手はその執事なのだ。けれども命を受けている以上大人しく通す訳にもいかず、護衛は手や体を張って何とか押し留めようとした。
ガラスのような前髪で表情を隠したフリーレンは、一歩ずつ前へ進んだ。
対応に迷いが出た兵士たちはじりじりと押され、ついにその背中が扉に当たる。後がなくなった彼らは鍵穴に手を当て、最後の抵抗を見せた。
「執事殿、どうかっ……!」
「手をお離しください」
青いベールが手で掻き分けられる。その奥で秘されたグラスアイが光る。
呪文が施されたフリーレンの眼に見つめられた兵士はびくっと震え、目も口も開いたままに動かなくなった。
そうして何事もなかったように彼らの手を退けて、ガチャリと扉が開けられる。
ヴフトが中を確認すると、部屋の中央でカールがエメリヒの手を取っていた。
***
「お願いします、ヴフトさんっ! ラッポニアに行かせてください!」
「不許可だ。お前はエメリヒ大臣たちの退去が済むまで部屋にいろ。シュピッツ、悪いがしばらく監視を頼む。目を離すなよ」
「はっ!」
「パコ、大臣たちの退去予定を早められるか? 女王からの返事は待たぬ。できれば今日中が望ましい」
「今、ギルドに掛け合っとります。営業時間外の枠なら、少し値は張りますがいけるかと」
「ヴフトさん! お願いします!」
「早急に帰ってもらうことが第一だ。ギルドの言い値で良い」
「分かりました」
「ヴフトさん! ねえ、婚礼衣装ですよ? 一番きれいでいたい日じゃないですか!」
「カールはん止めぇ。行くで」
「一着のために遠いところを探しに来てくれたんですよ? ヴフトさんだって、大切な物が汚れてしまったときの悲しさは知っているでしょうっ?」
「こらこら、カールさんいい加減に…」
「俺、あの人たちの助けになりたいんです! お願いします、ヴフトさん!」
「やかましいッ!」
城の最上階、王の執務室で鬱陶しいほどの熱願が続き、苛立ちが募った王は強く机を叩いた。ラッポニアの女王宛に記していた書簡がぐしゃりと曲がる。蓋の閉まった墨壷が転がり、ちゃぷりとインクが跳ねる。手にしていたペンからは墨が零れて紙を汚した。
カールの存在がエメリヒに知れたことで話はややこしくなってしまった。
大臣はなぜ隠していたのかと大いに騒ぎ、それから改めて派遣を申し入れてきた。彼は始終平和的な態度だったが、これ以上拒み続けた場合どう出るかは分からない。そもそもこの件に関して、ドゥンケルタール側は既に何度も断っていた。それを聞かずに居座り続け、無断で城内を捜索したのはラッポニアである。改めて派遣は出来ないと伝えるも、当人を目の前に大人しく引き下がる様子ではなさそうだった。
ヴフトは止む無くエメリヒの度重なる勝手を非難し、それを理由に彼を軟禁した。
転送用の魔法陣が手配出来次第、強制送還する。
そのためパコに用意を急がせ、自分は女王宛に新たな抗議文を書いていた。
ラッポニアへの対応は元より、面倒になったのはカールの方だった。エメリヒから直接依頼の話を聞いてしまい、いつもの調子で「行かせて欲しい」と言い出したのだ。知らない土地の衣装で、その上王家に代々伝わるウェディングドレス。これを洗って欲しいと言われ、カールは興奮せずにはいられなかった。また婚礼衣装が汚れて悲しむエメリヒたちに心から同情し、力になりたいと思わずにはいられなかった。
何とか大臣から引き離し回収してきたものの、カールはヴフトの前で延々と派遣を願い出ていた。
「いいか、カール。お前の腕は確かだし、我が国では上手くやれている。だがな、そもそも種族が違うのだぞ? 他国に行って此処と同じように扱われると思うなよ。日常生活の中で魔法を使う場面はお前が思っているよりもずっと多い。魔法が全く使えないと分かれば、そのペンダントをしていても怪しまれる。それに大陸北部はかつて奴隷を持っていた国々だ。恐ろしいとは思わないのか? お前が行くと言っている場所は、お前の祖先を害していたかもしれない国だぞ。それでもたった一着のために行くと言い張るのか?」
諦め悪く食い下がらないカールに対し、ヴフトは強く歩み寄って忠告した。褐色の眉間に深く皺が寄り、翡翠の眼が険しく見下ろす。美しさが怒りを帯びて相手を圧倒する。重く事実を述べる言葉に周囲は沈黙し、誰もが王に同調していた。
皆カールのことを従者として、仲間として大切に思うからこそ、引き留めていた。
獲物種族が見知らぬ魔国へ行くのは危険過ぎる。そう考えていたのだ。
しかし本人に言わせれば、それは少し違っていた。
「俺が毎日、たくさんの手を借りていることは分かっています。火を起こすのも、連絡を受けるのも、アイロンを使うのも、全部手伝ってもらわないと出来ません。だから俺がラッポニアに行きたいと言って、一人で行けないことも分かっています。でも、ここには俺を助けてくれるみんながいます。みんなの手を借りれば、魔法が使えない俺でも魔国で働けるんです。それを教えてくれたのはヴフトさんです。ヴフトさんのおかげで、俺の技術は魔国でも役に立てるって分かったんです。だから行かせて下さい。俺が行くのを手伝って下さい。俺、エメリヒ大臣たちの依頼に応えたいんです。お願いします。一人じゃ行けない場所だから、派遣として、みんなの力を借りて行きたいんです!」
「………お前…」
カールはカールなりに胸を張って堂々と思いを述べた。それは単なる我が儘ではなく、事実を事実として見据え、その上で助力を乞うものだった。独りでは成し得ないことを成すために、周囲の力を借りたいという申し出だった。その強く真摯な態度はヴフトの眼を開かせ、よろける様に長椅子へ座らせた。
不意打ちを食わされた王はしばらく口を閉ざし、それから突然からからと笑い出した。
「ふ、あはははは! カール、お前は、本当に、洗濯のこととなると舌が回るな! フリーレンよ、此奴の神経の図太さをどう思う? 私を黙らせたぞ。一人では行けぬから派遣の名目で手伝いをつけろと言ってきた。…はあ………、今抱えている仕事の合間を縫って、最短何日あれば準備が整うだろう?」
「そうですね…。人選、契約内容の交渉、書類作成に荷造り……最低でも四日は必要かと存じます」
ヴフトは長椅子の背にもたれ、ふかふかのクッションを手繰り寄せた。中身は勿論、カバーも柔らかな触り心地のそれを揉みつつ、フリーレンに仕事量を見積もらせる。そしてその答えを聞き、はあっと大きくため息をついた。四日ですべてを整えるには、おそらくもう四日、早朝の執務が必要になるだろう。夜も日付が変わる前に寝室へ辿り着けるか分からない。やらなければならない事の多さを思うと、このままクッションを抱いてソファーに埋もれてしまいたかった。
それでも王は、自分を篤い信頼と期待で以て見つめてくる視線を、無下には出来なかった。
優しい新緑を湛えた瞳が一途な男に向けられる。
「派遣の手筈はこちらで整える。仕事道具は自分で用意するように。後は知らせをやるまで大人しく待て。勝手に行くんじゃないぞ」
ため息交じりに告げられた言葉に、カールは満面の笑みを浮かべて喜んだ。
2019/7/27