第三十四節*北方からの依頼
この世界には大きく二種類の文明がある。一つは魔物が古くから持つ魔法文明で、もう一つは獲物が新たに興した科学文明だ。
魔法と科学とはそれぞれに原理が異なる法則であり、且つどちらも世界の一部であった。つまり【世界】とは天と地と海によって象られ、その中を魔法と科学とで満たしたものなのだ。けれども魔法文明に依った魔物たちは科学に目を向けず、科学文明を見つけた獲物たちは魔法を感知できなかった。
同一であるはずの世界は魔法と科学とに分断され、魔物と獲物も、手を取り合うことなく睨み合っていた。
とある渓谷の、秘された国を除いては―――
『洗濯屋と魔王様』 第四章
始業を知らせるベルが鳴り響く。役割によって分かれた各部署が、それぞれに今日の勤めを開始する。城の四階にある王直属の洗濯部屋からは、一人の青年が籠を持って飛び出してきた。
彼はこの城に住む唯一の獲物、ヒト族の洗濯職人だ。元は王国で洗濯屋をしていたが、自他共に認めるきれい好きな魔王によって、その腕を見込まれ誘致された。この魔国ドゥンケルタールに初めて足を踏み入れたヒト族であり、初めて働くことになった獲物種族である。
彼が来たばかりの頃は丞相を始めとする大臣たちの眉間に皺が寄り、城内もざわめき立った。魔法を使えることが前提の国で、魔法を使えない彼を雇う必要があるのかと、会議に会議を重ねて話し合われた。また交流の前例がない種族を住まわせることで、混乱が生じるのではないかと懸念もされた。
けれども話せば話すほど種族の差とは些細なことで、ふんわりと洗い上げられたタオルを心地良いと感じる心は同じだった。皺の取れたシャツを清々しいと思うことや、真っ白なテーブルクロスを美しいと思うことに、魔力の有無など関係なかったのだ。
青年カールは希望通りの洗濯係となって、魔王ヴフトに雇われた。
彼が自由に動ける範囲は城の中だけに限られたが、仕事仲間や知り合いも出来、楽しく暮らしている。
そうして魔国で洗濯をするようになってから三年が経っていた。
「おはよう、アル。今日もよろしくね」
「おはようございます! カールさん! 今朝は厨房から回ってください。テーブルクロスの洗濯依頼が来ています」
カールが部屋を出て三歩も行かないうちに、物陰からころり、と小さなテディーベアが転がり落ちてきた。彼はリヴドールという魔物で、同じような姿の仲間が大勢いる。通常は単に≪テディー≫と総称され、城内の手伝いと情報伝達を担っていた。カールが≪アル≫と呼んだのは頭上に乗った小さな彼の個人名で、これを呼べるのは親友の証だった。
「厨房? テーブルクロス、大部屋じゃなくてうちに依頼?」
「はい。来客用の薄絹とレースで出来た物を洗って欲しいそうです」
「ああ! あのすっごく薄いやつ!」
来客用、と聞いてカールは直ぐに合点がいった。城で使うテーブルクロスは何種類かあり、季節や場面で使い分けられている。その中でも薄絹とレースで出来たクロスは一際繊細で、二重三重に畳んでも、持った手が透けるほど薄く羽根のように軽い逸品だった。
城中から集められる洗濯物は、その大半がごく普通の布地で、これは大部屋と呼ばれる洗濯係が担当している。大部屋は特別な注意のいらない、一般的な洗濯物を扱う係だ。これに対してカールが所属する王の洗濯係では、王を始めとする高職位者たちの洗濯物と、特殊な品を担当していた。
薄絹とレースで出来たテーブルクロスは取り扱いが難しいので、直属係に依頼が来たと言うわけである。
カールは軽快に階段を下り、厨房に向かった。途中の廊下で見るからに要人、と言った風采の人々に出会い、足を止めて道を譲る。初めて見る顔立ちだった。きっとテーブルクロスを使った客人たちだろう。背格好はヒトに近いが、どことなく犬っぽい頭部をしていた。それから角を一つ曲がって厨房のドアを叩く。ぶ厚い扉を押して中に入ると、料理班は既に忙しく動き回っていた。
朝食の片付けが終わり、昼に向けて準備をし始めたところだ。
「おはようございまーす! 王の洗濯係です! 引取りに来ました!」
食材を切る音や、煮込む音、焼く音。指示を飛ばす声に、受ける声。真剣に、真っ直ぐに料理と向き合うシェフたちの圧が、びりりと素肌に突き刺さる。その迫力に負けないよう、カールは腹に力を込めて呼びかけた。
滔々と流れる作業の波から、すっと一人が抜けて駆け寄って来る。
「おはようございます、カールさん。お願いしたいの、これです」
「おはようございます。戻しの時間はいつにしますか?」
「出来れば今日の夕方までに。また夜に使うかもしれないので」
「分かりました。じゃあ優先でやりますね」
「助かります」
慌ただしい厨房に少し背を向けて、依頼の内容を確認する。
洗濯物は所属タグがついた受渡用の袋に入っているので、そのまま籠に入れても他と混ざらない。カールは受け取った袋に急ぎを示す赤いリボンを結んだ。これで回収は完了。後は丁寧に洗い、夕方の定時配達で戻しに来れば良い。
けれども籠を抱えたカールの足は、なかなか部屋を出ようとしなかった。
あちこちから魅力的な香りが漂ってくるのだ。
「……カムットさん。今日のお昼、何ですか?」
「え? ふふ、カールさん、まだ一枚も洗ってないでしょう? 今日のメインは煮込み料理ですよ。来賓がいらっしゃる間、従業員向けはあまり凝った物が作れないんで」
「煮込み料理も大好きですよ! さっき、廊下でお客さんに会いました。水色の毛並みの方たちですよね?」
「ラッポニア国から来たアイスハウンドの皆さんだそうです。北の端のほうにある、一年の大半が氷雪で覆われた地域だとか」
「一年の大半がっ? すごい…、寒そう」
「ですよね。だからウチみたいな熱帯の国は暑くて参ってるみたいです」
「ああ……」
昼食のメニューに期待を膨らませつつ、カールは客人たちの容姿を思い出した。
大きく開いた襟や短い袖、裾から露出していたもっさりとした体毛。どれだけ薄着をしても脱ぐことの出来ない自前の毛。頭の先から顔の表面、首、胴体、手足。そのすべてが色だけは涼し気な毛皮で覆われていた。
きっと彼らの国では、氷雪の寒さから身を守るのに役立っているのだろう。けれどもドゥンケルタールは熱帯雨林の地下にあり、地上程ではないが、気温が高い。分厚い毛の層はこの国では無用の長物だった。
「…大変そうですね。そういうときって、こう、魔法で何とかならないんですか?」
「さあ? 水でもかぶれば涼しくなると思いますけど。会議中じゃ無理でしょう」
「確かに…」
「でも、体を冷やす食材って言うのはあるんですよ! だから今回はそれらを中心にメニューを……ッイデ!」
余談に花が咲き始め、二人の顔が近付き小声になる。
そこへゴツリと拳骨が一つ見舞われて、カムットは頭を押さえた。
「いつまで喋ってんだお前は! 用が済んだらさっさと作業に戻れ!」
「先輩っ……! すみません! 戻りますッ!」
「そっちの洗濯係も、自分の足で出ないなら摘まみだすぞ」
「失礼しましたッ!」
ぴしゃりと強めの雷が二人を叱る。
カムットは言われた通り作業台へ戻り、カールも一言謝ってから直ぐに厨房を出た。
小走りで廊下を抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。そうして踊り場まで一気に上り、カールはそこで立ち止まってため息をついた。盛大に振られた籠の中からアルが小さなしかめっ面を出す。
「もう、カールさんったら! お喋りのし過ぎです!」
「ごめんよ、アル。ごめん。今度は気を付けるから。次の依頼を教えてくれる?」
「次は四階です。八卿の皆さんのお部屋です。まだ沢山あるんですよ! 長話は駄目ですよ!」
「うん、分かった。もうしないよ」
もふっと可愛い手で鼻の頭を押さえられ、カールは深く反省した。
昼食のことも客人のことも一旦頭から切り離し、改めて仕事に専念する。カールは依頼をすべて回り終えると、アルと分かれて洗濯部屋に籠った。
この日の昼食は、聞いていた通り二種類の煮込み料理が鍋ごと並んだ。大食堂はいつも以上に香りが満ちて、スープに浸りながら食事をしているようだった。
カールが選んだのは魚介の旨味が染み出たブイヤベースである。貝殻や骨を取り出しながら食べるのに少々苦労したが、その指先まで舐めてしまう一品だった。一緒に食事をした洗濯仲間のギードは肉の鍋を選び、こちらは牛肉がとろとろに溶けたビーフシチューだった。メインの皿はお代わりが出来ないので、二人はパンを使って一滴残らずスープを拭って食べた。
午後は特に追加依頼がなく、午前に洗った物の乾き具合を見ながら細々と作業を片付けた。小さなほつれや、外れかかったボタンなども洗濯と一緒に直している。魔国のアイロンは魔法を使って温める仕組みのため、アルが手伝いに来てくれた。きれいになった洗濯物が再び受渡袋にしまわれて、元の部署に戻されていく。
午前に預かったテーブルクロスも無事に洗い終わり、美しさを一新して帰って行った。
「ラッポニア国の方たち、どのぐらい滞在するのかしらね? 長ければ衣服の洗濯依頼も回ってくるかしら」
「どうでしょう。事前の連絡がないから、短いような気がしますが…」
「でも、不意に汚れ物が出ることってありますよね! 北方の服、洗ってみたいなあ」
一日の業務報告を兼ねた休憩中に、カールはもう一度、廊下で出会った客人の姿を思い出した。服飾品は地域によってだいぶ作りが異なる。異国の物はその国の人に会わないと見ることが出来ないので、カールにとって客人はとても貴重な存在だった。
見られるだけでも勿論嬉しいが、可能ならば洗ってみたい。
彼はいつもそう思っていた。
「じゃあもし依頼が来たら、カールさんが担当ね」
「はい! ぜひ!」
***
ラッポニアの人々が滞在するようになってから数日。洗濯部屋にはテーブルクロスの依頼が何度かあっただけで、まだカールが期待するような依頼はなかった。昼食のメインは煮込み料理が続いていた。
客人からの依頼がなくても、日々の業務が途切れることはない。
この日もカールはアルと一緒に城内を回り、洗濯物を集めていた。
「おはようございます。洗濯物の回収に来ました」
「おはようございます、カールさん。今朝の分はこちらに」
「メアリーさん。おはようございます……、なんか、いつもより多いですね」
「そうなのよ。陛下が今朝になってから寝具一式を洗うとおっしゃって。追加依頼も出せずに御免なさい。それと手間が増えるところ申し訳ないのだけれど、このシーツやカバー、香油を混ぜて洗ってもらえるかしら? 一番の香りでお願い」
午前の定期回収でカールはヴフトの寝室を訪れた。部屋の主は政務に出た後なのでもういない。世話係が部屋を掃除している最中で、彼らに指示を出していたメアリーが手を止めてやってきた。彼女は王の日常的な補佐を請け負う家政婦長であり、カールの上司にも当たる。赤いドレスに白いエプロンをした、薔薇のように可憐なリヴドール族だ。
彼女が示す場所へ目をやると、受渡袋の他に大きな塊がシーツで包まれていた。
「洗濯物が増えるのは問題ないですよ! 俺、好きですから。でも物干し台が込み合うかな……アル、作業部屋に寝具一式追加って連絡入れておいて」
「はい!」
「助かるわ。ありがとう」
大量の洗濯物に嫌な顔をするどころか目を輝かせるカールを見て、メアリーはほっとした。
アルに連絡を入れてもらいつつ、カールは香油の番号を書き留める。いつもはただ石けんで洗うだけの洗濯だが、ヴフトの分だけは、たまに香り付けをすることがあった。専用の香油がいくつか用意されていて、それぞれ番号が振られている。特定の衣服を洗うときに使うこともあれば、こうして気分転換に入れることもあった。
香油の一番を指定してくるときは、だいたい王の眉間に皺が寄っているときだ。
「……会議、長引いているんですか?」
カールは洗濯物を籠に詰めつつメアリーに尋ねた。
自分の技術を求められるのは嬉しいが、多忙な本人からその成果を聞ける機会はあまりない。会えば必ず最大の賛辞を贈ってくれるヴフトを信じる一方で、どこまで力になれているのか不安でもあった。カールは王が担うような難題を手伝うことは出来ない。ただ漠然と難しさを感じるのがやっとで、何をしているのかさえ想像がつかない。でもだからこそ、自分の持てる最高の技術で、美しく刻まれているであろう眉間の皺を減らせれば、と思っていた。
それに、やはり洗濯物を受け取る相手の笑顔がカールは何よりも好きなのだ。
「予定が少し押しているようですね。………ああ、そうだ。カールさん、ペンダントはきちんと身に着けていらっしゃいますか? 魔力は足りているかしら?」
「はい。持っていますよ。いつ外の人と会うか分かりませんから。ずっと身に着けたままです。魔力も定期的に補充してもらっているので、大丈夫だと思いますけど」
「良かった。そうね、一応足りてはいるみたい。減っている分を足しておくわ」
「ありがとうございます」
カールが胸元から丸いペンダントを取り出すと、メアリーはそれを手で包んで魔力を込めた。
これはヴフトがカールを魔物に見せかけるために作らせた、特別な魔道具である。呪文を刻み込んだ台座と魔力を蓄積できる魔法石が一つになっていて、身に着けることで微量の魔力を纏うことが出来る。これさえあれば、獲物種族のカールも魔力を持っているように見える、という仕組みだ。魔物は相手から魔力を感じさえすれば、同種であると信じて疑わない。魔物以外に魔力を持った生き物はいないからだ。カールはこのペンダントのおかげで他の魔国を訪れたり、城外の魔物と交流することが出来た。
気を付けなければならないのは石に込められた魔力の残量で、本人はこれを感知できないため、周囲が常に気を配っている。
「じゃあ、洗濯物をよろしくね」
「はい!」
カールは戻されたペンダントを服の内側にしまうと、籠を持って作業部屋へと帰って行った。
東大陸の最北端にあるラッポニア連合王国。そこは地表が分厚い氷雪で覆われた細長い半島だ。国土の三分の二を占める高い山の峰は、一年を通して雪を被っている。定住しているのは寒さに強いスノーウルフ族とアイスハウンド族で、百年ほど前までは三つの王国に分かれていた。
ドゥンケルタールがラッポニアと交易を始めたのはまだ最近のことである。以前のラッポニアは夏場を利用したわずかな畜産漁農業が主体の国で、魅力的な輸出品を持っていなかった。肉にせよ、魚にせよ、穀物にせよ、他にもっと安定して輸出してくれる国があった。
だが現女王の前時代に、聳える山の中から天然の魔法石が見つかった。それも一欠片や二欠片ではなく、鉱脈として多数発見されたのだ。
魔物たちが日常的に使う魔法石は、その大多数が人口物である。ただの石ころに呪文を施したり、魔力を閉じ込めたりして作った道具にすぎない。けれども稀に見つかる天然の魔法石は自然の中にある魔力がどういう訳か凝固した物で、強力な魔力源として利用することができた。だから同じ魔道具を使ったとしても、人口の魔法石より天然の物を組み込んだ方が何倍もの威力が出せるのだ。
そして天然の魔法石は偶然を頼りにしか発見されておらず、高額で取引される貴重な品だった。
現在、ドゥンケルタールは一定量の肉や魚、青果物の輸入を条件に、ラッポニア産の魔法石購入枠を確保している。今回ラッポニアの大臣が来訪してきたのはこの貿易協定を見直すためで、対面でのやり取りは協定締結後、初めてのことであった。見直しと言う名の継続確認は毎年行っていたが、文書のやり取りだけで済ませていたのだ。
今回は王権移行後初の再締結であるため直に会いたい、と言ってきたのはラッポニア側である。そのため、産業の卿パコが対応することになった。
事前の打ち合わせでは特に変更なく、協議は二日で終了する予定だった。
それが今日で五日目になっている。
「陛下、本当に、申し訳ありません……」
「謝るな。お前の落ち度ではない、パコ。私とてこんな条件を出されるとは思いも寄らなかった。今はあれを追い返す手立てを考える他ない」
何度目かの延長後、パコはヴフトの書斎で項垂れていた。
本来は大臣同士で済ませるはずの話し合いが、どうにも収まらず、王であるヴフトを巻き込んでいた。
ただし、貿易協定の内容について議論している訳ではない。むしろこちらは問題なく再締結が決まり、後はサインを待つのみだった。
だがそのサインをするに当たって、ラッポニア側が一つ依頼をつけ加えてきたのである。先方としては何と言うことのない、ちょっとした願いのつもりなのだろう。けれども、それはドゥンケルタールにとってかなり重大な出来事だった。
数年前にサハラウ国で当時の皇太子、タラル殿下の服を洗った者を貸して欲しいと言われたのだ。
つまりカールのことである。
「何か事情があるようだが飲める話ではない。他なら多少考えもしたが、まさかよりによって彼奴を貸せとは……。いや、余所から見れば彼は一介の従者に過ぎないから、こうも気軽に言ってのけるのかもしれないが。それにしても、私が直接断りを入れたと言うのにまるで帰る気配がないとは。昨日ラッポニア本国へ抗議の文を送ってはみたが、果たしてそれでどうにかなるか…。女王絡みとなれば返事が来てもただの依頼文かもしれん」
「誰か代わりの者を送ると言うのはどうでしょう? 幸い、あちらさんに顔は割れていませんし……」
「それは私も考えた。だが、洗うのは女王の礼服で特殊な素材だ。代理を送ってどうにかなると思うか? もし衣装を損なえば、どういう扱いを受けるかも分からん。あそこは安定した国であっても、争いを放棄した国ではない。代理だと知れたらどう出るか」
「では、やはり強制送還の措置を?」
「………もう一日待って女王からの返事がない場合は致し方ない。速やかに行えるよう、準備を進めておいてくれ」
「承知いたしました」
サハラウでの件は、カールがまだ物事の手順を弁えていなかった頃に起こした失敗の一つだった。皇太子殿下の衣服についたワインのシミを、反射的に飛び出して洗ってしまったのだ。そこは宴の席で他国の王や大臣も多く集まっており、一従者が突然、王の衣に触れたことで辺りは騒然とした。
そのとき、場に居合わせカールを引っ込めたのはパコである。騒ぎはサハラウ側の斟酌によって事なきを得たが、ヴフトは公の場で頭を下げた。
もうそろそろ時間も経ちただの失敗談として話されるようになったこの件が、まさか別の方面から掘り返されることになろうとは。
パコを退出させた後、ヴフトは深くため息をついた。
予定外の会議による皺寄せは、ヴフトの執務机に小さな山となって積まれていた。その中から急ぎの物を処理するうちに日付が変わり、残りは翌朝対応することにした。それで片付くかどうかは分からないが、やらないよりはマシだろう。少しでも減らさなければ、明日また追加されてしまうのだから。
ヴフトは湯浴みを簡易的なもので済ませ、疲れの残る足取りで寝室に入った。
「遅くまでお疲れ様です。陛下。お休みの準備は整っております」
「うむ、お前たちも遅くなってすまない。直ぐに寝る」
王が寝室に戻ると、留守を預かっていたメアリーが出迎えた。ベッドに向かうヴフトの左右にすっと係が近付いて羽織りを脱がす。身軽になったヴフトがやや投げやりに体を倒すと、足先に残ったスリッパが外された。
「明日のご朝食はいつも通りで宜しいですか?」
「ん……? いや、執務室に一時間早く入る。軽めの物をそちらに運んでくれ」
「畏まりました。お休みのお茶はいかがなさいますか?」
「今日はもう良い。皆も下がってくれ。ありがとう」
眠気に押されながら短い遣り取りを交わす。ヴフトは柔らかで肌触りの良いシーツに包まれて静かに息をついた。ほのかな薔薇の香りが体を包み込み、疲れを和らげてくれる。
美しい褐色の宝石は白い化粧箱に仕舞われた。
『ああ、やはりあの男の腕は確かだ』
ヴフトはまどろみの中で改めてそう思い、扉が閉まる音とともに眠りに落ちた。
***
始業を知らせるベルが鳴り響く。
王の洗濯部屋からカールが飛び出し、いつものようにアルを連れて城内を回る。そうして一通りの依頼を受け、楽しそうに作業部屋へと戻っていく。
これはよく見られる朝の風景で、この日もほぼ同じであった。
「じゃあ、また午後によろしくね。アル」
「はい! また午後に!」
最後の洗濯物を回収し、そう言葉を交わして二人が廊下で別れる。アルは影に溶け込み次の依頼へ、カールは籠を抱えて作業部屋へ戻ろうと一歩を踏み出した。
と、その目の前に毛深い顔が立ち塞がる。
つい先ほどまで少しの気配もなかったところに人が現れ、カールは驚きの声を上げた。
水色の毛に水色の眼。カールよりもやや小さく恰幅のあるその男は、アイスハウンド族のようだった。
「シッ、騒ぐな下郎。貴様、洗濯物を持っているな。と言うことは、この城で洗濯をしている者であろう? 丁度良い。探していたのだ。私の部屋に来い。聞きたいことがある」
「えっ? あの、申し訳ありません。俺、仕事中でして……。ご用なら他の者を…」
カールは突然掴まれた腕に戸惑いながらもそう申し出たが、相手は聞く耳を持たなかった。何も言わずにぐいぐいと引きずられ、部屋に押し込まれる。中には数人の護衛と召使いたちがいたが、いずれも犬顔で、カールの知っている相手はいなかった。
「あの……いったい、何のご用でしょうか…?」
自分の置かれた状況がさっぱり飲み込めず、カールはぎゅっと籠を抱きしめた。何とか礼節を尽くそうと言葉を選ぶが、本音は今すぐ逃げ出したい。入ってはならない部屋に入ってしまったような気がして、胃が締め付けられた。
そんな彼の前に、出口を塞ぐようにして男が立つ。
「ふむ、心して聞け。私はラッポニア連合王国の貿易大臣、エメリヒだ。この城に、かつてサハラウ国でタラル殿下の衣を洗った者がいるだろう? 数年前の話だ。思い出せ。私はその者に用がある。名と居場所を教えろ」
「え……?」
カールは何を言われるのかとびくついていたが、エメリヒの言葉を聞いて目を丸くした。思い出すもなにも、あれは今も忘れ難い失敗だ。それをどうして初対面の、しかも他国の大臣に問われるのだろうか。カールは益々状況が分からなくなったが、苛々と揺れる尻尾を見ておずおずと口を開いた。
「あの、名前は、カールです…。タラル様のお衣装を洗ったのは、俺、です……」
「なにっ?」
目の前で発せられた言葉に、今度はエメリヒが目を丸くした。
2019/6/30