渡し守の秘密
「『忘れ去られた廃屋の中に、魔術師や幻獣に関する資料が残されている可能性がある。だから回収してこい。どんな些細なものであろうと回収し、一度速やかに帰還して報告しなさい』――と、以上が当主からのご指示です」
「分かった! じゃあ早速行くわね!」
「その前に『どこの廃屋なのか』とか聞くことあるでしょ……ついでに、こいつはなんなの?」
リリトが眼鏡の奥の瞳を無邪気に輝かせて無駄に明るい声で張り切るのに対し、セロンはどこまでも冷静な声音で指摘して、目の前で人語を話した謎の生物に胡乱な眼差しを向けた。正体不明の生物はリリトと同じ群青色の瞳でセロンを見上げ、「ああ、なるほど。あなたがフェニックスですか」とやけに人間くさい仕草でうなずいている。
セロンの正体を知っており、リリトとも知り合いで、さらにどう考えても普通の生物でないことを加味すると、魔術師が関わっているのは確実だ。
「フェニックスは本来、炎のごとき緋色をしていると聞きますが。あなたは反対の紺碧色だ。しかも鳥ではなく人間の姿だなんて。なぜなのでしょう? 変わるのは髪あるいは羽毛だけなのですか? 瞳は噂に聞く、蕩けるような蜜色のままですね。ふうむ。疑問は尽きません」
「…………本当になんなの…………」
うららかな昼下がり、セロンはリリトとともに次の町へ向かっていた。のどかな農村のはずれにさしかかった時、突然行く手を遮るように、この黒い生物が現れたのだ。モグラのように地面から掘り出てきた、というよりも、なにもない空中からぽろんと零れ落ちるかのように。
ぎょっとして立ち止まるセロンと違って、リリトは慣れた光景だったのか、いたって普通に「久しぶりねー!」とあいさつを交わしていた。
大きさはリリトの膝丈ほど。ごく普通の鳥と似た顔立ちをしているが、体はずんぐりむっくりとやや下ぶくれ気味で、リリトの黄色いお下げ頭が揺れるのに合わせてぱたぱたと体の横で動いているのは翼だろうか。薄っぺらく、とても空を飛べそうにない。
「この子? ペルーっていうのよ、可愛いでしょ!」
「止めてくださいリリト嬢。照れるでしょう」
リリトに抱き上げられて頬ずりされ、ペルーと呼ばれた生物はたいして照れていなさそうな声をくちばしの間から漏らした。腹の毛は真っ白なのに、背側や翼、さらに顔まで真っ黒なため、いまいち表情がつかみ取れず少々不気味である。
「僕と同じような幻獣なのか、コレ」
「ちょっと違うわ。私が小さかった頃にお兄ちゃんが神力で……あ、そういえばお兄ちゃんの話ってしたことあったかしら?」
「ほぼ初耳だけど、どう考えても長くなるよね、その話」
幻獣でないならなんなのか気になるところではあるが、今はそれどころではない。リリトはペルーの頭をぐりぐりと撫でつつ、「抱っこしてみる?」と訊ねてくる。
「お腹を触ると絹みたいな手触りで気持ちいいわよ」
「遠慮させてもらう」
「そんなこと言ってー。本当は触ってみたいんでしょ? いいのよ?」
「遠慮するって言っただろ!」
ぐいぐいと押し付けられるのを必死に押しとどめ、「それより」とセロンは話の続きを促した。
「もう一回聞くけど、彼女が行かなきゃいけないのはどこなの」
「さあ、どこなのでしょう」
「……とぼけてるの?」
「違います。本当に分からないのですよ」
地面に下ろされ、ペルーはやれやれと言いたげに息をつく。背の低い彼――彼女かも知れないが――を見下ろすのは首が痛い。リリトは目線を近づけるようにしゃがみこみ、セロンもそれに倣って地面に膝をついた。
人通りの少ない道で良かった。謎の生物を取り囲む二人組など、怪しいことこの上ない。通行人がいれば高確率で不審がられただろう。
「ノイント家はご存知ですか、リリト嬢、フェニックス」
「鳥形態の時ならともかく、今の僕のことはセロンって呼んでくれないかな」
「これは失礼。ではセロン殿。ノイント家は……」
「知ってるよ。魔術師の家系でしょ」
実際にノイント家の人間に会ったことはないが、知識としてはある。
セロンを作り上げた〈探究〉のツェーント家は二百年前に処刑されて血が途絶えたが、〈理想〉のノイント家は当時の当主が民衆の私刑で死んだのを機に、魔術師であることを隠して離散したと伝えられている。現在でも血が残っているのか、人知れず途絶えたのか、定かではない。
「忘れ去られた廃屋というのは、そのノイント家の屋敷のことですよ。二百年前に離散して以降、場所を知る者はいなくなってしまった屋敷です。当主はそこに残されている資料を回収せよと」
「なるほどね、分かった! 速やかにってことは急ぎなのね?」
「ちょっと待って。場所を知る人がいないんだし、二百年前に放置されてずっとそのままだったものを、どうして今回収しろなんて言うわけ?」
セロンの疑問に、ペルーは淡々と、
「ノイント家の資料を基に、幻獣を作った若者が捕まったからですよ」
となかなかに衝撃的な答えを告げた。
幻獣を作成できるのは神力――神から授かった力の名残――を宿した魔術師だけ。ということは、捕まった若者というのは魔術師なのか。だが現存している魔術師の家系、エアスト家とゼクスト家は幻獣作成の禁止を条件に生き残っているわけであるし、家族もろとも火刑に処される危険を冒してまで幻獣を作るとは思えない。
恐らく若者は、一般人から時々現れる〝はぐれ魔術師〟だろう。両親や祖父母は神力を持っていないが、先祖を辿っていけば一人や二人、魔術師がいたりするのだ。なにかしらをきっかけに自分が神力を持っていると気づき、行動を起こす事例は少なくない。
「ねえねえ、ちなみにその人、何を作ったの?」
「シルキーです。家事手伝いの妖精ですね。言うまでもないかと思いますが人型です」
「……人を材料に使ったのは確実ってわけか」
若者は周辺住民の通報によって捕らえられ、どうやって幻獣作成を知ったのかと問われて、資料を見て作ったと告白したという。エアスト家当主はそれを回収したそうだが、そこに記されていたのがノイント家のサインだったらしい。名前から察するに、魔術師の全盛期に活躍したと思われる人物だったという。
「若者によると、資料は自分で探して手に入れたわけではなく、人から買い取ったものだそうです。誰が資料を売ったのかは当主が調べるとして、リリト嬢にはノイント家の屋敷を探り、これ以上の流通を防ぐためにも資料を回収してほしい、というわけです」
「だけど、さっき『どこに行けばいいのか分からない』みたいなこと言ってたよね? もしかして誰も屋敷の場所を知らないの?」
「全く分からない、というわけでもないのですが」
セロンとリリトが揃って首を傾げる前で、ペルーは言葉を選ぶようにしばらく唸っていた。あれでもない、これでもないと悩む姿はなんとなく可愛らしい気もする。
「おおまかな場所は分かっているのです。ただ、辿りつけない」
「はあ?」
「道が複雑で迷ったりして、なかなかお屋敷を見つけられないってことかしら」
違います、とペルーが首、というよりも体全体を横に振る。
「文字通り辿りつけないのです。どれだけ前に進んでも、実際は一歩も動いていない。そんな風に伝えられているし、事実その通りなのだと当主は仰っていました」
ますます意味が分からず、セロンとリリトは顔を見合わせた。
このあたりです、とペルーに地図を渡されて向かった場所は、昼間だというのに薄暗く、生き物の気配があまり感じられない森の奥深くだった。森の外には集落があり、昨晩泊めてくれた家の住民たちに話を聞いてみたが、地元の者たちもほとんどここには立ち入らないらしい。大昔は魔術師の住処だったというのは誰もが知る話で、当の魔術師がいなくなった今、たまに度胸試しで若者たちが足を踏み入れることはあるそうだが、基本的には立ち入るのは忌避されている。
近くに川が流れているのか、さらさらと水の音がする。水分補給をしに動物たちが訪れそうなものだが、森の奥に近づくにつれ、セロンは鳥すら見かけなくなっていた。
「地図で教えてもらうだけじゃなくて、もう少し詳しい道もあいつに聞いておけばよかったんじゃないの」
「あら、ダメよ。ああ見えて意外とペルーは忙しいのよ。私の代わりに家の手伝いを色々としたり、お兄ちゃんのところに遊びに行ったりね。昨日だって、すぐに消えちゃったでしょ? 地図をくれただけでも喜んでおかないと」
普通の少女なら静かすぎる森に恐怖を感じそうなものだが、リリトはそういった少女像とは違うらしい。セロンと初めて会った時と同じくらいの明るさで、ずんずんと突き進んでいく。誰も知らないノイント家を見つけるのが楽しみで仕方がないのだろう。行動を共にし始めて半年も経っていないが、それくらいなら分かるようになった。
空を見上げてみると、鬱蒼と生い茂った木々の枝や葉が天蓋のように頭上を覆っている。時々思い出したように冷たい風が吹き、一瞬だけ陽が当たったりもするが、基本的にどこもかしこも薄暗いままだ。四方八方を見回してみても、同じような光景が続いていて、これでは時間間隔も方向感覚も失いそうだ。
「やっぱり、単純に道に迷って辿りつけないとか、そういうことなんじゃないのかな」
「空から見たらすぐに見つかったりするのかしら」
「ここで鳥になれっていうの? いやだね」
鳥の姿のセロンは山のようと形容されるほど大きい。この場で姿を変えようものなら周囲の木々をなぎ倒すし、村の住民たちが物音に引き寄せられてくる可能性もある。なにより空に飛び上がれば、一発で幻獣がいると騒ぎになる。あまり目立ちたくないセロンにとって、全く嬉しくない事態だ。
残念だわ、とリリトは言うが、口ぶりほど残念がってはいなさそうだ。拒否されると分かった上で漏らしたのだろう。
「うーん、今どのあたりを歩いてるのかもあやふやね。セロンは分かる?」
「さっきもここ通ったのは確かだね」
セロンはそばに立っていた木に目を向けた。目線の位置にある枝が折れている。目印代わりに念のため覚えておいて正解だった。その後も同じ折れた枝を二、三度見ることになった。
能天気で無駄に前向きなリリトも、さすがにうんざりしてきたらしい。同じ道をぐるぐる回り続けているとセロンが指摘すると、珍しく渋面を浮かべて「うむむ」と唸っていた。
「景色が変わらなすぎて、ちょっと飽きてきちゃうわね。お腹もすいてきた。果物とか生ってないかしら」
「ざっと見た限りじゃ、そもそも果実が生りそうな木自体がない。あったとしても、まだ春前だよ。とても食べられる状態じゃないと思うね」
「えぇー」
とはいえ、まだ文句を言う元気はあるのだ。そこまで空腹でもないのだろう。どうしようもないくらい腹が空けば、鶏肉が大好物のこの少女は間違いなくセロンを食べようとするはずだ。比喩でもなんでもなく、文字通り。
「こうなったら二手に分かれて道を探すのはどう? 見つけたら合図をしてお互いに知らせるの! セロンは、そうね、リュート持ってるんだしそれを鳴らして、私はどうしようかしら。手を叩くとか!」
「残念だけど、地図を持っていない方が迷ってはぐれて終わりだね。僕が君を置いてけぼりにする可能性もあるよ」
「えっ、本当?」
そもそもセロンが魔術師嫌いなのを、リリトは忘れかかっていたらしい。捨てられた子犬のように悲しげな目つきをされて、半ば本気だったが「冗談だよ」とはぐらかして肩をすくめた。
リリトの持つ地図を覗き込むと、ノイント家があると思われる場所に赤い丸が書きこまれている。ごく細い道も記されており、セロンたちは今、この道を探して彷徨っているところだ。方角的に考えても進んでいる方向はあっているはずだが、どうにも進んでいる実感がない。進んでいるはずだと思っても、まるで元の場所に連れ戻されているかのように、同じところを巡り続けている。
――どれだけ前に進んでも、実際は一歩も動いていない、ね。
これは行く手を遮る術でも施されていると考えた方がいいかも知れない。魔術師の持つ神力は――持ち主の素質にもよるが――基本的にはなんでも出来てしまう。二百年前、処刑や略奪から逃れるために家の場所を隠したとしてもおかしくない。
「君が神力を持ってたら、術を破れないか試してみてって言うんだけどね……」
「あはは、ごめんなさい。私、神力ないものね」
「知ってるよ。ペルーを作ったのはお兄さんってことは、そっちはあるんだね」
「ええ。でもお兄ちゃんも、ほとんど身を守るための術しか使えないの。それ以外の使い方は今も勉強中。力加減が出来なくて困るって嘆いてたわ」
「……あ、そうだ」
セロンは地図の一点を指さした。道から少し離れたところに、別の線が記してある。丸より手前でぷつんと途切れているそれには「川」とだけ書かれていた。
「水の音がしたし、近くに川があるのは確かだろ。道を探してぐるぐる回るより、川をさかのぼっていった方が楽なんじゃないのかな、これ」
「そうしましょうか。ちょうど喉も乾いていたところなの!」
音を頼りに川を探して、道なき道を進んでいく。やがて目指していたものが現れ、リリトが安心したように胸を撫で下ろしていた。
対岸までの距離は十メートル以上あるだろうか。見回した限り橋らしきものはない。それなりに深さがあるようで、近くに落ちていた長い木の枝を突き刺してみたが、川底には届かなかった。枯葉一枚浮いていない水面は透き通るほど美しく、のどを潤すのにちょうどいい冷たさだ。早速リリトが水を何度かすくい、満足げな笑みを浮かべている。
森の中と違い、川の周辺は枝葉が頭上を覆っていないため、日光が燦々と降り注いでいる。きらきらと反射する川の流れは心癒されるが、ここでも生き物の気配は感じられない。魚の一匹や二匹いそうなものなのに、それらしき影は見当たらなかった。
「あら、なにか来るわね」
「え?」
リリトの声に顔を上げると、彼女は川下を指さしていた。
ぎいぎいと木が軋む音がする。霧はかかっていないはずなのに、音だけが聞こえて姿は朧なままなかなか捉えられない。じっと目を凝らしていると、徐々に正体が明らかになってきた。
「……船だ」
漁船というよりも、少人数での観光を目的に使われそうな木造船だ。丸みを帯びた船首にはランタンがぶら下げられ、昼間だというのに火がついている。どこか薄暗い影をまとっているように見えるのは気のせいだろうか。
どうしてこんなところに船が。近隣住民もほとんど立ち入らないと言っていたのに。セロンは警戒心を抱くが、リリトは暢気に「こんにちは!」などと呼び掛けている。
船を操舵していたのは、若い人間だった。リリトの呼びかけに「やあ」と穏やかに応じる声は女のようにも、男のようにも聞こえる。ひとまず男だと思っておこうとセロンが密かに結論付けたところで、彼はゆっくりとこちらに船を近づけてきた。
「こんな森の川に人だなんて珍しい。旅人かな?」
「そんなようなものよ。あなたは地元の人?」
「私? そうさ。ずっとこの地で暮らしてる」
男は全身をすっぽりと包む灰色のローブをまとっていた。しみ一つない陶器のような肌は艶やかで少年にも見えるが、褐色の瞳に灯る光は少しだけくたびれているせいか大人びている。墨色の髪は頬の横で切り揃えられ、リリトに向ける笑顔は気安かった。
船には男のほかになにも乗っていない。荷物すらもだ。セロンがますます警戒する隣で、リリトは男と楽しそうに話を続けている。
「地元の人ならこの辺りのこと、詳しいわよね。少し聞きたいことがあって」
「私に答えられそうなことなら、なんでも教えるよ」
「ありがとう! えっとね、この地図なんだけど……」
リリトは森に入った経緯を説明しているが、見ず知らずの他人に詳細を話しはしなかった。ノイント家の屋敷のことは「知り合いの家」と言い換えていたし、しばらく顔を見せていなかったから挨拶に来たが道に迷ってしまった、とうまく誤魔化していた。そのあたりの分別はあったようで、セロンは微妙に安心する。
「屋敷に続く道を探していたんだけど、見事に迷っちゃったの。川を辿っていけばひとまず迷わないかなと思って来たら、ちょうど船が」
「ふうん……」
「ねえお兄さん、お願い! 途中まででもいいから、私たちを乗せてくれないかしら! 二人でずっと迷いながら歩いているより、案内があった方が安心だもの。もちろんお礼はするわ!」
リリトの提案に、男は少しだけ迷うそぶりを見せたものの、柔らかな笑みを浮かべて「いいよ」と二人を船に招いた。リリトは嬉々として乗り込み、セロンは強張った顔のままそれに続いた。
「乗船賃は一人一エトラだ。払えるかな?」
庶民がパンを二つ買える程度の値段だ。リリトとセロンがそれぞれ薄い銅貨を渡すと、男はゆっくりと櫂を漕ぎ始めた。
「二人は兄妹? それとも恋人かな」
「赤の他人だよ。成り行きで一緒に行動してるだけだ」
「えー、そこは少しでも冗談に乗りましょうよ」
ぶうぶうと不満げにリリトが頬を膨らませるが、見なかったふりをする。
「せいぜい友人ってところだろ」
「友人! 友だちとは思ってくれてるのね! 嬉しいわ!」
「ちょっ、急にひっつくな、船が揺れる!」
「仲がいいねえ、お二人さん」
船はゆっくりと、けれど着実に川上に進んでいる。周りの風景がほとんど変わらないため、先ほどまでと同じくらい実感はわかないが。
「お兄さんはずっと、こうやって船を漕いでるの? 毎日?」
「そうだね。きっとお嬢さんたちが生まれるよりも前から、ずっとね」
「……そんなに年上には見えないけど。僕と同じくらいかと思ってたよ」
実年齢は二百歳を超えているセロンだが、見た目だけで言えば二十代前半だ。男もそれくらいの歳かと思っていたのだが、リリトが生まれるよりも前となると十七年以上前から船頭を務めていることになる。
「若く見えるってよく言われるよ。歳はとりたくないものだ」
「普段もこの川に?」
「人がいるときだけ戻ってくるのさ。俺は普段、違う川で渡し守をしているよ。さっきも違う所にいた」
「……どういうこと?」
――それにさっきは「私」って言ってたけど、今は「俺」って。
「おっと」
いけないいけない、と男は薄く笑いながら口元を手で隠した。
「それにしても、こんな辺鄙な所までよくやってきたね。二人はどこから来たんだい?」
あからさまに話をそらされた。セロンは打ち切られた話の追及をしようとしたのだが、それよりも先にリリトが「レンフナよ!」と答えていた。
「ああ、隣の国の」
「そうそう。そこの、えーっと、カルヴノって分かるかしら」
エアスト家の屋敷がある地方の名だ。牧羊が盛んで、どこを見ても白い毛の塊がもこもこといるような地域である。王都からは少し遠く、なにより魔術師が今も住まう地として知られているため、観光客が訪れることはほとんどない。セロンも遠い昔に一度訪れたきり、近寄ってすらいない。
男もカルヴノがどういう地か知っていたようだ。
「そういえばお嬢さんたちが行きたいって言ってたお屋敷、昔はとある魔術師が使っていたんだよ。そこに行きたいってことは……二人は魔術師なのかな?」
「ええ!」とリリトはあっさり認めた。うまく誤魔化せる時とそうでない時の差はなんなのだ。聞かれたことには素直に答えるしか出来ないのか。いつの間にか彼女の保護者のような立ち位置でものを考えている自分にも頭が痛くなり、セロンはため息をついた。
セロンは魔術師ではないのだが、訂正するのも面倒くさい。フェニックスだと名乗るのも余計な事態を招きそうだ。
「でも私はノイント家の人間じゃないわ。自己紹介が遅れたけれど、リリト・エアストよ。あのお屋敷が魔術師の家だって知っているなら、私がさっき誤魔化したのもお見通しね? 挨拶に来ただなんて、もうそんな人、誰も住んでいないのに」
「言っただろう? 地元の人間だって。私は最初から分かってたさ」
「……ならどうして、僕たちを船に乗せたわけ?」
「ここに来た人はとりあえず乗せることにしているんだよ。俺には〝どちらか分からない〟からね。そういう場合はひとまず乗せておけって言われているし」
「…………?」
男がなにを言っているのか、時々分からなくなる。自分の気のせいではないはずだ。セロンが疑うような眼差しを向けると、彼は唇に笑みを乗せてこちらを見返してくる。だが瞳は全く笑っていない。
この船を降りるべきではないのか。リリトからは相変わらず警戒心を感じられない。男が目を放した隙に耳打ちをしようとしたところで、彼の方が「ねえ、お二人さん」と問いかけてきた。
「魔術師って、一時はとても崇められていただろう? だけど異端だなんだと言われて表舞台から姿を消した。その時、魔術師たちを称賛していたのも、糾弾していたのも、何の力も持たない人間たちだったよね」
「そうね。エアスト家は今も続いているけれど、二百年前は当然、苦難の時代だったみたい。仲が良かった人たちも、次々に離れていったり、外を出歩けば罵倒されたり石を投げられたり」
そう語るリリトの目は、特別悲しそうではない。ただ歴史を振り返っているだけに思える。
セロンの視線に気づいたのか、彼女はくるりと丸い瞳でこちらを覗き込んでくる。心配しているとでも思ったのか、「大丈夫よ!」となぜか胸を張っていた。
「今は差別されたりしてないわ! カルヴノの人たちみんなと友だちだって言えるくらい仲良しよ。魔術師だからって怖がられることもないもの。だからそんなに泣きそうな顔しないで!」
「……いや、別に僕は心配とか、してたわけじゃないけど。ちょっと昔のことを思い出してただけで」
というか泣きそうな顔に見えたのか。そんな表情はしていないはずだけど、と思わず自分の顔を撫でてしまう。それに構うことなく、男は静かに言葉を紡いだ。
「お嬢さんはとても優しいんだね。だけど一度でも、憎い、なんて思ったことはないかい? 何の力もなく、魔術師にすがってすらいたのに、手のひらを返した彼らのこと」
どうしてそんなことを聞くのだろう。彼は前を見据えていて、表情はうかがえない。
「うーん、私は別に思わないかしら」たいして考え込む間もなく、問われた彼女はほぼ即答した。「当時を生きてきたわけじゃないから言えるのかも知れないけれど。もし糾弾される流れの中で生きていたとしたら、憎いと思うこともあったかも知れないわ」
リリトの声は楽しくて仕方がない時と変わらない風に聞こえるのに、口調はいたって真面目で、なんだかちぐはぐだ。こういう時だけ、幻獣の調査・記録・管理を一手に引き受けるエアスト家の人間らしい顔つきになる。
「セロンはどう思う?」
「僕、は」
どうなのだろう、と改めて考えてみるが、人間たちに対して憎いとは思えない。彼らによって、己の作成者が処刑された立場だというのに、だ。リリトと過ごすうちに多少和らいだとは言え、魔術師たちに対する嫌悪感の方が勝っているからかも知れない。
自分の答えをはぐらかし、セロンは男の背中に目をやる。
「なんで急にそんなこと聞いてきたわけ」
「さあ、なぜだろう。俺が人間たちを憎んでいるからかな。俺の主人にあんなことを言わせた人間たちが憎くて仕方がない。ああ、でも、これは私の性質も少なからず関係しているのだろうけど」
「……もしかして、あんた」
今の話の流れから察するに、男はただの人間ではないに違いない。
魔術師か、あるいは。
「リリ……」
リリト、と呼びかけようとして、セロンは口を噤んだ。
彼女は腕を組み、目を閉じていた。眠っているのかと脱力しかけたが、そうではないとはっとする。珍しく眉間に皺をよせ、薄く開いた唇から、もしかしてとか、可能性としては云々と呟きがこぼれていた。
稀に見る集中状態だ。こうなるとどれだけ声をかけても一切反応してくれない。焦って言葉を重ねたところで無駄だろう。第一、彼女が落ち着いているのに自分が慌てるのもおかしい気がした。
セロンは諦めて力なく腕を組み、「それで」と男に問いかけた。
「目的地にはちゃんと連れてってくれるの?」
「もちろん。乗船賃を貰ったのだから当然だよ。ついでにいいことを教えてあげよう。お嬢さんに見せてもらった地図、あれは不完全だ」
「……どういうこと」
男はようやく振り返る。中性的な顔立ちに微笑みが浮かんでいた。冷たい風が頬を撫でていき、セロンはやっと、あたりに霧が立ち込めていると気がついた。
「川が途中で消えているのさ。地図を書いた誰かさんはきっと、君たちみたいに俺に拾われることなく、陸からここを記したのだろうね。だから川の先がどうなっているのか、書かれていない」
船はぎしぎしと軋みながら、霧の中を迷わず進んでいく。立った今まで見えていたはずの森は、もう見えない。
「遅くなったけれど、自己紹介をしようか」
ざぶ、と川に波が立つ。男が櫂を操作する手を止めたのに、船は流れに身を任せるまま、川の先へと運ばれていく。そんな状況でも、リリトはまだ集中から戻ってこない。
男はセロンとリリトを見下ろし、ローブの裾を捌きながら優雅に腰を折った。
「俺の名前は〝カロン〟。君と同じ幻獣だよ、フェニックス」
人は極度の緊張が続くと胃が痛くなるという。幻獣ではあるが、現在人の形態をとっている自分でも、それは例外ではないようだ。カロンに名乗られてから岸に上がるまでの間、ずっと胃がしくしくと痛んだ。
「到着したよ」と声をかけられてから、ようやく現実に戻ってきたリリトは、羨ましくなるほど暢気だ。あたりには霧が立ち込め、腰ほどの高さまで伸びた草が生い茂っていて薄ら寒いというのに、彼女はウサギのようにぴょこぴょこと飛び跳ねながら楽しそうに笑っている。
「不死だっていうのに、今にも死にそうな顔をしているねえ、フェニックス」
背後からカロンが肩を叩いてくる。自分の知識が間違いでないのなら、もとの神話のカロンは老人の姿のはずだが、年若い青年の姿をしているのは作り主の趣味なのだろうか。
「〈核〉を取られたら僕だって死ぬよ……それより、知ってたんじゃないか、僕のこと。なんで? 僕が人の姿にもなれるって、片手で数えられるくらいの人しかいないはずなのに」
「現代では、だろう? 言ったじゃないか、お嬢さんたちが生まれるよりもずっと前から船を漕いでいるって。何百年という期間、色々な人間を乗せてきたんだよ。その中に君の作り主がいなかったと思うのかい?」
「…………」
問うていたはずなのに、逆に問われている。それに言われるがまま、記憶を思い返す自分もいる。
セロンを作った魔術師――シータ・ツェーントは、決して口の軽い人間ではなかったはずだ。とはいえ己に残る彼女の記憶は、もう二百年も前のもので、本当にそうだったかいまいち確信が持てずにいる。
最終的に、セロンは考えるのを止めた。面倒くさくなったのだ。
「ねえねえお兄さん! ノイント家のお屋敷はこの先? この先で道を見つけたの! あれって地図に書かれている道よね!」
草をかき分けてずんずんと突き進んでいたのか、リリトが顔や服に草をはりつけて現れる。カロンは「どうだろうねえ」とおかしそうに笑いながら首を傾げ、それを聞く前に彼女はさっさと背を向けて、この先にあるという道まで戻っていった。
「さてフェニックス。俺たちも行こうじゃないか。一人で行かせたら確実に迷いそうだよ、あの子」
「分かってるよ……あと、僕のことはセロンって呼んでくれないかな」
「え、嫌だよ。だって俺の名前、カロンだよ? ややこしいじゃないか」
早く早く、と呼ぶリリトの声に急かされ、二人は足早に彼女を追いかけた。道なき道を進んだ先に、確かに地図に記されていた道があった。うきうきと楽しそうなリリトと反対に、セロンは疲れ切った顔と足取りでそれに続いた。
これを辿ればノイント家の屋敷がある。着いたらさっさと資料やら何やらを回収して、こんな場所、そしてカロンから離れてしまいたい。そのためにはリリトを手伝う必要があるだろう。屋敷がどの程度の広さか知らないが、一人でやらせるよりは二人でやった方が早い。
「なにか見えてきたわ! お屋敷かしら!」
「多分、そうなんじゃ――――え?」
リリトの言う通り、道の先に黒い影がある。近づくにつれ大きさや形が明らかになり、客人を迎え入れるように、霧も徐々に晴れていく。
その時、目に映ったものに、セロンは思わず目を丸くした。
「お屋敷……だけど……」
横に細長い屋敷だ。屋根の四隅に尖塔が建ち、風雨を受け止め続けたそこは今にも崩れ落ちそうだ。窓ガラスもことごとく割れ、火事でも起きたのか、白かったと思われる外壁は黒ずんで美しさとは程遠い。
玄関の扉は両開きだったようだが、完全に崩壊して大きく口を開けている。中に入ってみると、足の踏み場もないほど荒れていた。見る者の目を楽しませていたであろう絵画やタペストリーの名残があちこちに散らばっている。足元に転がる破片は、花瓶だったのか、それとも別の壺なのか、全く判別できない。
「これは……」
「うーん。セロンが暮らしてたお城と違って、ひどい荒れようね。とりあえず色んな部屋を見てみましょ。資料を探しに来たんだもの」
けれど、当主が使っていたと思しき書斎、寝室、食堂。応接間や子ども部屋、使用人部屋まで、ありとあらゆる部屋を探して回ったが、どこにもそれらしいものはなかった。ベッドの下や倒れた本棚、クローゼットやなにに使っていたのか分からない袋の中など、捜せるところは全て探した。
屋敷の外に出てきた時、空は夕焼けに染まっていた。その下で、待機していたカロンがにやにやと笑いながらセロンたちを見つめている。
「どうだい、なにも無かっただろう?」
「ええ。なーんにも。人が暮らしてた痕跡なんて、もうほとんど残っていないくらい」
「残念だったね。君たちは辿りつけなかったわけだ」
「……どういうこと? ここはノイント家の屋敷じゃないの」
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
カロンは楽しそうに肩を揺らしている。セロンが憤り、リリトすら困惑しているのがそんなに愉快だろうか。
「悪いね。ノイント家には〝知っている者〟しか辿りつけないのさ」
「知っている……? なにを?」
「私の名前」
どうだい、と問うように、男は己を指さした。
「名前って……カロンじゃないの」
「それもまた正解だけれど、不正解だ。だから君たちは辿りつけなかったのさ」
「あなたの本当の名前が何なのか当てなきゃ、ノイント家のお屋敷には行けないってことかしら?」
「そう。ずっと昔からそういう決まりでね。私の名前を言い当てられた人だけ、ここへ招かれる資格を持つ。当てられないと、いつまでも森の中を迷い続けるか、俺に拾われて屋敷を目指したとしても、朽ち果てた屋敷を見る羽目になる」
彼の名前を言い当てられていたならば、目の前の屋敷は、在りし日の面影をそのまま残した姿を、セロンたちに見せつけていたのだろうか。
「でも、あんたの名前なんて、カロンじゃないならなんなの」
「カロンではあるんだよ。ただ、足りないんだ」
足りないのさ、と念を押すようにもう一度言ってから、彼はくるりと背を向けて歩き出した。
「君たちを送り届けたことだし、俺は帰るよ。普段は支流で仕事をしているんだ。それを放って君たちを送ってきたから、戻らないと怒られてしまう。ああ、帰る時は道を真っ直ぐに歩いていけばいい。来る時と違って、すんなり森の外に出られるよ」
「ちょっ……」
「あっ追いかけちゃ駄目よセロン。私たちはもう一回、ここを探してみないと」
「でも」
カロンを追いかけようとしたセロンの袖を掴み、リリトは丸い瞳に喜びを漂わせて笑っている。
「いいのよ。だって分かったもの」
「分かったって……なにが? あいつの名前が?」
「うん」
いったいいつ。視線でなにを訊ねられているか分かったのか、彼女は自慢げに胸を張った。
「今! もしかしてって思ってはいたんだけど、足りないとか、支流とか言われて分かった」
「じゃあなおさら追いかけて、正しい場所に連れてってもらうべきじゃないの」
再び霧があたりを覆いはじめ、カロンの姿は目を凝らしても分からなくなっていた。
「多分、船に乗る前に言わなきゃいけなかったのよ。乗ってからとか、着いてからじゃ駄目なんだわ。合言葉みたいなものかしら。いうなればお兄さんは、ノイント家の門番なのかも」
「門番……」
「あくまでも予想だけどね! んん、でもまだ分からないことはあるのよ。ノイント家はもうないんだし、門番であるお兄さんがここにいる必要はないわけでしょう?」
「……確かに。それに」
――俺には〝どちらか分からない〟からね。そういう場合はひとまず乗せておけって言われているんだよ。
「あれはどういう意味だったんだろう。どちらか分からないって、なにが。言われているって、誰に?」
「さすがに私も分からないわ。今もまだ誰か、本当のノイント家のお屋敷に住んでるのかも知れないわね。ノイント家の資料も、そっちに残されているのが確実かしら」
気分を切り替えるように、リリトが勢いよく両頬を張る。ぱんっと響いた音があまりに潔い。
「ここが偽物のお屋敷で、門番のお兄さんの名前が分からなきゃ辿りつけないって分かっただけでも収穫だわ! もうすぐ暗くなっちゃうし、明日の朝にもう一、二回なにもないか確認してから出ましょう。速やかに帰還せよって命令だもの」
「朝にって……リリト、まさか」
ここに泊まる気なのか。
そうだけど、とでも言うように、リリトはきょとんと小首を傾げ、意気揚々と屋敷の中に戻っていった。勘弁してくれというセロンの訴えは無視された。
善良な民である彼らの手を汚すわけにはいかないからお前が殺してくれ、と今にも泣きそうな顔で頼んできた当主の顔が忘れられない。カロンは無表情で船底に寝そべり、少しずつ暗くなっていく空を見つめていた。
ノイント家の当主は民衆の私刑によって殺されたと言い伝えられているが、真実は違う。殺されたのは確かだが、魔術師に反感を抱いていた民衆たちが殺したのではない。
――俺が。
カロンはのろのろと顔の前に手をかざし、ため息をつきながら目元を覆った。
――俺が、殺したんだ。
長い年月を経たというのに、両手にはまだ、首を絞めた時の感触が残っている。
カロンを作ったのは当主だ。彼の名前を正確に言い当てることが出来なければ屋敷に辿りつけない決まりを作ったのも、道を辿るだけでは先に進めない術を施したのも。
そうでもしなければ、ノイント家は逆風の中で真っ先に処刑されていただろうから。
けれど逃げ続けるのも限界で、最終的には当主の死によってノイント家は表舞台から消えた。二度と目を開けない当主の骸を森の外に運び出すとき、自分はどんな顔をしていたのだったか。
「…………ん、誰か私のそばにいる」
先ほどの二人組かとも思ったが、違う。川下に気配を感じた。
身を起こして船を漕ぎ、気配のあった場所に向かう。やがて一組の男女が見えてきた。
女の方はカロンの姿を目に止めると、赤い唇をにっと三日月形に歪めた。襟ぐりが大きく開いた艶やかなドレスは、今から舞踏会にでも赴くかのようだ。長い栗色の髪は毛先だけが深紅に染まり、妖艶な瞳は真っ赤な満月に似ていた。
「遅かったじゃないの、カロン=ステュクス」
迷うことなくカロンの名前を述べ、女は船が着岸するとすぐに乗り込んできた。
「いつもなら川下から現れるのに、今日は向こうから来たのね。どうして?」
「興味もないことを聞くのは、あなたの悪い癖だ」
ふと男の方に目を向ける。以前と変わらず、なにを考えているのか分からない顔をしている。
当然だろう。男の顔は人間のそれではないのだから。
ぱっと見は犬に見えるが、よくよく観察するとジャッカルとツチブタが混ぜられたように見える頭をしている。角ばった耳がぴくぴくと動くたび、後頭部から生えた赤い髪が揺れる。腰には布が巻いてあるのだが、上半身はなにも纏っていないために灰色がかった肌が露わになっていた。
どこからどう見ても幻獣だ。人語は喋れるそうだが、カロンが男の声を聞いたことはない。いつも無言で女のそばに控えるさまは、女王に永遠の忠誠を誓った騎士のようだ。
「ほら、あんたも乗るといい。じゃなきゃいつまでも船を出せないからね」
「…………」
促すと、男はこくりとやはり無言でうなずいて、女の隣に腰を下ろした。毎回このやり取りをしなければいけないのかと内心うんざりしてから、カロンはゆっくりと船を動かした。
今から数十年前、ノイント家の当主と別れてからだらだらと生き続けていたカロンの前に、この女は今と全く変わらない姿で現れ、言ったのだ。
『ノイント家の屋敷を拠点にしたいの。案内してくれるわね? カロン=ステュクス』
一体どこから名前を聞きつけたのだろう。知る者はほとんどいないと思っていたのに。
ステュクスは冥界に流れるという河の名前であり、それを擬人化した女神の名前でもある。そしてカロンはステュクスの渡し守だ。ノイント家の当主は、二つの性質をカロンに詰め込んだのである。
名前を当てられた以上、案内しないわけにはいかない。女が何者なのか、屋敷でなにをしているのか、いまだに分からないが、知るつもりもなかった。自分はただの川であり、渡し守なのだから、知る必要はない。
ひとまず知っているのは、魔術師だということ、世界各地に仲間がいるらしいことだけだ。拠点にしたいと言われてから、何度も彼女の仲間だと名乗る連中をノイント家の屋敷に連れていったし、女に服従と忠誠を誓う儀式だって数えきれないほど見届けた。
先ほどの二人組みたいに、女とは全く関係ない旅人もいる。そういう場合の見分け方は、カロンの名前を知っているかどうか、それだけだ。
「――――到着したよ」
「ありがとう。帰る時はまたお願いね」
二人分の乗船賃をカロンの手に乗せ、女と男は振り返ることなくノイント家の屋敷に歩いていく。女のものとなってから屋敷を見たことはないが、きっと自分の知る外観ではなくなっていることだろう。
「…………やれやれ」
吐息のように言葉をこぼし、カロンは再び船底に寝そべった。支流での仕事に戻るつもりだったのに、女が戻ってくるまで待たなければならなくなってしまった。ただの人間である仕事仲間たちには明日怒られよう。
偽の屋敷に着いた二人組は、今ごろ何をしているだろう。巷では今、ノイント家の資料が出回っていると聞く。それが少しでも残っていないか探しているだろうか。場所的にはこことほとんど同じなのだが、術が張られているから、カロンとも、謎の男女と鉢合わせることもない。
魔術師の少女の方は、カロンの名前に気がついたようだった。次に会う時は、開口一番に当ててくるだろう。
再会した時、少女は怒るだろうか。フェニックスは確実に仏頂面をしているだろう。
くあ、と大きなあくびを一つして、カロンは川の音を子守唄に、目を閉じた。
Spcial Thanks:高城かろ