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小話、レイチェル

「いつも悪いわね、レイチェル」

「いえ、これが委員長の仕事ですから」

 私はようやくクラスメイトの春休みの宿題の取り立てを終えて、その結果をジョイ先生に報告しに行ったところだった。放課後(こんな時間)まで待ったのに出さないやつのことなんて知らない。

帰り仕度をしに教室に戻ると、扉の前に立ったとき中で何か話している声が聞こえた。


 教室掃除係のニカとリルだ。


 男子二人で掃除なんて遊んでなきゃいいけど、と思って教室に入ろうとしたところで、仲良く喋っている二人の姿が目に入った。私は何故だか二人の会話を邪魔しちゃいけないような気がした。何となく隣の教室に隠れてやり過ごすことにする。

 すると、リルがぱたぱたと教室を出ていく音がして、そのすぐあとをニカが追いかける音が続いた。ニカの楽しげな声が聞こえたとたん、私は急に胸が痛くなった。

 彼は私の前ではいつもクールだ。スキップレースを終えて顔も真っ青で今にも倒れそうな時でも、私を見るとニコッと笑って「へーき、へーき」と言って誤魔化す。でもリルの前では子供っぽくはしゃいで、無邪気に笑ったりする。他のクラスメイトにはそんな顔、絶対に見せないのに。

 気がつくと私は唇を噛んでいた。

 こんなに尽くしている私じゃなくて、どうしてあんなやつが良いのだろう。人の言うことも聞かない、授業もきちんと受けない、協調性のかけらも無くて不真面目で、ニカに酷いこともたくさん言うリルに、

「どうして私が負けなきゃいけないのよ?」

 口の中に鉄の味が広がって、惨めだった。

 ニカの目にはリルしか映っていない。ニカがリルに向ける視線は馬鹿騒ぎする男子たちに向けるようなものとはちょっと違う、もっとこう親密な感じ。男の子に向けるには少し不自然なくらい熱っぽい憧れの眼差し。

 そういう視線を私に向けて欲しいと強く思うようになったとき、それが私に向けられることはないのだと気づいてしまった。それ以来、私はもう彼の笑顔を見るのが辛い。



「さあ、もう帰らなきゃ」


 どれくらい考え込んでいたのだろう。私は二人が出て行った夕陽が差し込む教室に戻った。帰り支度をしていると、教室の窓の外からかすかに誰かが叫ぶ声が聞こえたような気がした。

 窓から身を乗り出して辺りを見回しても、学校の周りには小麦畑か草原しかない。一階にはスキップの駐機場があるけれど、誰もいないみたいだ。


「気のせいかな」


 そう思って教室を出たとき、また声が聞こえた。それも一人じゃなく、何人かの男子の声がする。やっぱり下から聞こえて来ているらしい。

 私は声がする方へ向かって校舎の階段を降りて行くと、一階と二階の踊り場の窓から、私の教室からはちょうど死角になっている校舎裏が見えた。そこに誰かが群がっている。

 制服を着ている男子が三人見える。中等部には制服が無いから高等部の生徒たちだ。その足元にもうひとりいる。黒いパーカーを着てフードをすっぽり被ったあいつ。

 地面に横たわって呻いているのは、リルだった。


「――お前、最近調子乗ってんだろ。この前うちのショーンに怪我させたらしいじゃねえか」

 制服を着崩したいちばん体の大きな男子が、お返しをしてやるよ、と言ってリルの脇腹を思い切り蹴飛ばした。

「うぐっ」

 リルは身体を丸めて必死に暴力に耐えていた。


 どうしよう。

 私が迷っているあいだにもリルは高等部の男子たちに胸ぐらを掴まれて無理やり立ち上がらされていた。 フードを荒っぽく外されて、青い目と栗色の髪が露わになった。男子のひとりがリルの細い首に手をかけて、品のない口笛を吹いた。

 私は何も考えずに一階まで駆け下りた。がむしゃらに走って、リルを囲む不良たちの横顔が見えるくらいのところに立つ。


「やめなさい!そいつから離れないと警備員を呼ぶわよ」


 リルの服を脱がせていた三人の不良たちが一斉に私の方に振り返った。私はポケットから携帯端末(セル)を取り出して目の前に掲げ、渾身の迫力で睨みつけた。

 三人は胡乱な目つきで私を眺めていたけれど、しばらく経ってから体の大きなリーダー格の男子が舌打ちして何も言わずに立ち去って行った。

 不良たちがいなくなったのを見届けると私はへたりとその場に座りこんだ。手足がガクガク震えている。でも力を振り絞ってなんとか立ち上がってリルのもとに駆け寄る。


「リル!大丈夫?」


 リルはいつもの黒いパーカーを脱がされて上半身の白い肌着が見えていた。いつも頭を隠していたフードもなく、大きな深い青色の双眸がおろおろと揺れている。その姿はどう見ても、どう言い訳をしても、怯える女の子そのものだった。


「レイチェル。このことは誰にも言わないで」

「えっ」

「お願い。何でもするから」

私は必死に縋り付く女の子を見て頭が混乱してきた。この女の子と普段の飄々としたリルが同じ人物だとはとても思えない。リルは女の子だったってこと?


「どういうことなの?」

「俺が女だってバレたらまた学校でもいじめられる。また女子たちから殴られるんだ。だから言わないで、レイチェル!」


私は愕然とした。この子はさっきの不良たちよりも、私に怯えているんだ。


「分かった、黙ってる」


 外は寒いからとにかくリルに服を着せなきゃと思い、パーカーを拾ってリルに着せた。ちょっと強引だったけどリルはされるがままだった。強張ったリルの表情を見ていられなかったからフードも被せてあげた。 それからリルの手を引っ張って校舎に戻り、近くの教室に押し込んだ。

「さっきの奴らは何? それと女子からいじめられるってどういうことなの? ちゃんと説明して」

リルはしばらく下を向いて黙っていたけど、ぽつりぽつりと話し出した。


 幼いころからハウスの中で暴力を受けていて、今もハウスで孤立していること。

小学四年生のとき、スキップを親友に盗まれた話。それをきっかけに女子からクラスで手酷くいじめられたこと。中等部に入って以来性別を隠してきたこと。


 私はそんなこと何も知らなかった。

 リルは別の地区の小学校に通っていたし、そこの学校の生徒はふつうそのまま地区の中等学校に進むから、他の地区の情報が入って来ないのだ。


「この地区の学校はハウスの奴らが多いから、小学校はあえて違う地区に通ってたんだ。でも、結局そっちでもいじめられたから、こっちの地区に戻ってくるしかなかった」

「じゃあ、さっきの不良はハウスの上級生ってこと?」

「そうだよ」

 リルはここで初めて瞳に怒りを灯した。

「あいつら、高校生のくせに卑怯なんだ。三人がかりで来やがって」

「ハウスでは上級生に絡まれたりしないの?」

「男女は寮が別だから、気をつけていれば逃げられる。ユイもいるし」

 ユイ、大会の時のサポートに来ていた怖そうな不良のことか。

「俺、ユイに喧嘩を習ったから、ひとりとか弱っちい奴なら何とかやっつけられる。けど俺をいじめる奴らはみんな集団でやって来るんだ。小学校の時だってそう」

 リルは唇を噛み、目の端からポロポロと流れ出した涙を乱暴にパーカーの袖で拭った。

「だからもう学校でいじめられたくないんだ。せっかく、う、うまく行き始めたのにもう嫌だ」

「そんな、大丈夫よ。女の子だって知れたところで誰もあんたをいじめたりしないわよ」

 私はリルのパーカーのフードをそっと外して、ハンカチを手渡した。華奢な肩に手を置くと、それが少し震えているのがわかる。

「どうだか。俺はうんと小さい頃から嫌われてきたんだ。男子にはすごく絡まれるし、女子から好かれたことなんて一度もない。レイチェルだって俺のこと嫌ってるだろ」

 リルは涙で赤くなった目をきっと私に向けた。――でも残念だけど今のあんたはすごく弱そうに見えるよ。

「そうね。私あんたのことが大嫌いだったわ。全然言うこと聞かないし、前にも言ったけど、そうとう自己中心的なやつだと思ってた。でも、あんたがそんな酷い目に遭っていて、あんたの態度もそのせいなんだとしたら、なんだかもう単純に嫌いになれなくなっちゃった」

 ふと教室の窓を見やると外はもうほとんど陽が落ちていて、青紫の夕闇が田舎の空に広がっている。その色を映したリルの瞳が大きく見開かれ、残照を跳ね返してきらきら光った。

 薄暗い教室に佇むその姿は、目を惹きつけ、男装なんて簡単にかき消してしまうくらい綺麗だ。

 私は理解した。この姿が元凶となってこれまでリルを苦しめていたんだ。

 あまりにも綺麗過ぎたから、周りの人間は彼女を潰しにかかった。その恐怖が彼女を殻に閉じ込めてしまい、誰も近づいてこれないような防壁を張り巡らせたのだ。


 ありがとう、とリルは私の目を見てそう言った。

「レイチェルが来なかったら、たぶん酷いことになってた。あと今まで色々迷惑かけてごめん。俺、あんたのことが怖かったんだ」

 小学生の時にいじめてきた女子に私がよく似ているのだとリルは小声で白状した。

「心外だわ。私っていじめっ子に見えるのね」

 そっか。リルがやたら私に突っかかってきたのは、自分を守るためだったわけか。

「私はクラスメイトが困っていたから委員長として動いただけ。だからあんたがまた困っていたら手を貸すわ。これは好きとか嫌いとかの話じゃないの。——だからひとつ、あんたに言いたいことがある」

 私は少しためらってから口に出した。

「ニカくんにちゃんと向き合ってあげて」

「……レイチェル?」

「あんた達の関係はよく分からないけど、ニカくんがあんたのことを慕っているのは私だって分かるし、あんただって気づいてるんでしょ?あんたは口ではニカくんに酷いことを言うわりに何だかんだで彼とつるんでるんだから、それで彼の気持ちから逃げ続けるのは卑怯だわ」

「俺はあいつのことが嫌いなんだ。あいつが勝手に寄ってくるだけだよ」

「嘘よ。だって最近、あんたはニカくんと居るとき楽しそうだもの」

「そ、それは……」

「あんたはもうちょっと自分に素直になれば良いと思う。私が言いたいのはそれだけ。ハンカチはあんたにあげるわ」

 私はそう言って教室を出て、優等生のくせに廊下を走った。ニカの名前を出したとたん赤くなったリルの顔を思い出して、ああこれは敵わないなって思った。


 帰り道、私はアイス屋に寄り道して小遣いを叩いてバナナ・スプリットを頼んだ。バナナを乗せた大きな皿にバニラアイスを被せてクリームとチョコソースをこれでもかとかけ、ナッツとかチェリーの砂糖漬けをトッピングした不健康な贅沢。


 でも、今日の私はそれくらい許されると思った。



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