09:スランプ
喫茶店『氷砂糖』を訪れてリリィに出会ったあの日から、ぼくの頭の中はほとんど彼女だけでいっぱいになっている。
その一方、スキップレースに燃えていた最初の頃の意地は今にも砕けそうだ。
レースはやっぱり苦しいし、リルに一度勝てたことが嘘みたいに彼が遠い存在に思えた。
経験値の差、操縦桿を操る技量、判断力。悲しいかな、何一つ敵う気がしない。
――ぼくはただ、リルと仲良くなりたかっただけなのに。
騒がしい教室のなか、窓辺の席で外をじっと眺めているリルをかっこいいと思った。陰口を叩かれても一人で凛としている姿に憧れた。彼に近づきたかったんだ。
でもそれは茨の道で、リルも、スキップレースもそう簡単にぼくを受け入れてはくれない。
「お前、この星に来て少し変わったよ。何というか元気になった。いいことだ」
父さんがこうやって言うように、ぼくは今までとは違う人間になった。今までこんなに他人にぶつかって行ったことは無かったし、ぶつけられたことも無かったから。思えばリルに会うまで、そんな努力をする必要がまるで無かったんだ。
ぼくは疲れていた。リリィに忙しなくメールを送るのは、彼女に縋っているだけなのかもしれない。
一日の終わり、ベッドの上に寝転んで、ビスケットみたいな小さな携帯端末を弄る時間がぼくには必要だった。本当はメールじゃなくて顔が見えるホログラム通信の方が良いのだけど、リリィはそれが好きじゃない。顔を見られたり、声を聞かれることが恥ずかしいらしい。
『このあいだ、ぼくの学校でスキップレースがあったよ。ぼくも参加した』と送ると、しばらくしてリリィから返事が来る。
『そうなんだ。結果はどうだった?』
『16人中4着でゴール。もっと練習しないとこの町から追い出されちゃう』
リリィにはぼくとリルの勝負について話していた。嬉しいことにリリィもスキップレースに興味があるらしく、話題に嬉々として乗ってくれる。
『レースの後、体調は大丈夫だったの?』とリリィ。
前に少しだけぼくは自分の切り札、超集中能力についてリリィに教えていた。彼女はぼくの何気ない話題を覚えていてくれる。それがすごく嬉しい。
『今回のコースは短かったから前回のレースほど消耗しなかったんだ。大丈夫だったよ。でも超集中の能力はまだコントロールできないから、レースの飛行時間が長くなるとこの先厳しいかもしれない。ぼくはどうすれば良いんだろう?』
リリィは返事を考えているのか、彼女のアカウント・アイコン――店で撮った感じの後ろ姿――がしばらく黙ってしまった。その間、ぼくはキッチンに行って故郷エウロパのスピッタという甘い飲み物を作った。生姜が効いていて寒い日でも身体が温まるし、簡単な頭痛薬にもなる。実はまだ本調子じゃなくて、父さんから飲むように言われていたのだ。
自室のベッドに戻ってくるとリリィから返信が来ていた。
『ニカ。わたしはレースに出たことがなくて、知り合いから聞いた話を伝えるんだけど、それでもいいかな?』
うん、ぜんぜんいいよ。
ぼくはリリィの澄んだ声を脳内で再生しながら彼女からのメッセージを繰り始めた。それは少し長い文章だった。
『わたしの知り合いが言うには、きみだけじゃなくてスキッパーは皆、きみみたいな集中力を極限まで高める能力を多少は持っているんだって。
もともとスキップレースはある程度は才能が無いと完走すらできない難易度の高い競技だよ。だから完走できるきみには才能がある。それはもっと自信を持っていいんじゃない?
その知り合いもレースを始めた頃は酷い頭痛と吐き気に苦しんでた。でも渓谷で飛行練習を続けるうちに能力にあまり頼らずに飛べるようになって、そのうち能力発動のタイミングをコントロールができるようになったんだ。だから練習あるのみ、とにかく山や砂漠、深い地溝をたくさん飛んで地形をなぞるんだ。偉そうに聞こえたならごめんなさい。
あと、彼はこうも言ってたよ。レースに参加することが苦痛でしかないのなら、つまり少しも楽しくないんだったら、レースから降りた方が良いって』
ぼくはリリィのメッセージを頭の中で頭の中で読み直した。
――ぼくには才能がある。でもきつい練習がもっと必要。スキップレースは義務じゃなくて、楽しくなければもう止めるべき。
そうだ、別にレースをやめたっていいんだ。もしぼくがレースをやめて、リルとの約束を反故にしたところで誰も気にしないだろう。町から出て行けと言うリルだって、ぼくが彼のフィールドから立ち去れば、きっともう何も言わなくなる。
でも、そこでぼくとリルの関係は終わるんだ。
ふとリルに勝った最初のレースのことを思い出した。ぼくの赤いルミエール350が谷間を縫って他の機体を次々に抜いていくあの快感。憧れていたリルと同じ世界に足を踏み入れた嬉しさ。ぼくはあの日のことを一生忘れないとおもう。
リルとの勝負はあと2レースある。だからどんな結果になるにせよ、つらくても、リルに全く敵わなくても最後まで出続けよう。
ぼくはけっこう執念深いから、そう簡単にリルから離れてやるもんか。
『ありがとうリリィ、君のおかげで少し気が楽になった。ぼくはまだレースに出続けてみる』
それから少し経ってから返信がきた。
『そっか。じゃあ頑張らなきゃね』
うん、頑張るよ。
急に眠くなったぼくは携帯端末を握ったままベッドに身を投げ出した。なんだかいつもより良く眠れそうだった。
学年末のレースが終わって、短い春休みもあっという間に過ぎ去ってしまい、気がつくと新学期が始まっていた。ぼくは中等部の三年生になった。
春休みの間は母国エウロパの本家に顔を見せることになっていたから、リリィにいちど『氷砂糖』に会いに行っただけで終わってしまったのが悔やまれる。
登校日初日は伝統的で無駄に長い学期始めの式やらが済むと、朝のホームルームで生徒ひとりひとりの係決めというものをすることになった。
「みんなちょっと待って。係って何のこと?」
ぼくが声をあげると、クラス中が笑ったけど隣の席のちょっと太った女の子が親切に教えてくれた。
「生徒みんなが何かひとつの仕事を割り振られるの。専科の授業の準備とか、フットボールの審判とか、図書館の見回りとか……」
何でロボットにやらせないのかと聞くと、
「わかんない。でもちゃんと仕事をやってると食券を貰えたりするのよ。そう考えたら良いと思わない?」
にこにこして女の子が答えると、またみんなが笑った。
「アビー、ニカくんに説明してくれてありがとう」と司会のレイチェルが微笑む。
「ニカくんは去年の途中に転校してきたから係が決まっていなかったのよね。彼の分もいっしょに決めましょう」
希望がある人は自分のやりたい係に投票して、と言ってレイチェルが携帯端末を弄ると教室の大きなスクリーンに様々な係の名前とか仕事の内容やらが表示された。どれにしようか迷っているとあっという間にどの係も埋まってしまった。どうやら先着順らしい。
「まだ決まってない人はいる?」
「ぼく、まだ決まってない。でも残ったものでいいよ」
「うーん」
レイチェルはセルの画面と睨めっこして未決の係を探し始めた。
「教室担当の掃除係がひとり空いてるわね。それで良いかしら?」
「うん、それで良い」
「ああっ、この係の相方はリルじゃないの!」
レイチェルは教室の後ろの方を睨んだ。
「リル、あんたは去年もこの係だったけど、私あんたがまともに仕事をしているところなんか見たことないわ。今年もそうだったら、委員長として考えがあるんだからね」
するとレイチェルの隣で椅子に座ってホームルームを眺めていたジョイ先生が立ち上がって、まあ落ち着きなさいとレイチェルを宥めた。
「真面目なニカもいっしょにいることだし今度はリルもちゃんと係の仕事をやってくれると思うわ」
でもね、とにこにこして先生は続けた。
「今度サボったりしたらリルのスキップを没収します」
放課後ぼくとリルはさっそく教室の掃除をすることになった。
リルはぶつぶつ文句を言いながら教室の後ろの用具入れから見慣れない道具を取り出して、ぼくに押し付けた。
何なのか尋ねるとリルは呆れた顔をする。──正確には黒いパーカーのフードに隠れていたのでそんな顔をしたように見えたのだけど、ぼくにもリルの表情が何となく読み取れるようになってきていた。
「ホウキとチリトリだよ。お前知らないの?」
「だって掃除なんてロボットがやるものだろう? やったことないよ」
「この町の学校じゃあ生徒が自ら掃除することになってんの。そういうしきたり」
これもかつてこの州を領有していた地球の国が残した伝統らしい。面倒くさいもの残していきやがって、とリルはため息をついた。
「お前も係になったんだから、ちゃんと仕事しろよ」
「君は去年サボってたんでしょ。そんな人に言われたくないな」
「うるさい。さっさと終わらせるぞ」
こうやって使うんだよ、と実演するリルに倣う。
「ホウキは軽いゴミを集めるのに使う。で、チリトリは硬い汚れを刮ぎ落とすのに使うんだ」
「それ、本当に合ってるの?」
「あ、合ってるに決まってんだろ。馬鹿にするなよ」
掃除用具の使い方に若干の不安を感じながらぼくらは教室の掃除を始めた。
今日はなんだかいつもよりちゃんと会話が出来ている気がした。ぼくがいつもみたいにべらべら喋り続けてもリルは途中でツッコミを入れてくれる。ガン無視されていた最初の頃からは考えられない進歩である。掃除だって二人でやればリルが言っていたほど時間はかからなくて、日が暮れる前にはちゃんと帰れそうだ。
掃除用具を片付けているとリルが、遠慮がちに「なあニカ」と言った。
「この前はごめん。変なことで突っかかったりして」
言い過ぎたって反省してる、とそっぽを向いてぼそっと呟いた。
「別に気にしてないよ。あの時も言ったけど、調子に乗ってたぼくが悪かったんだよ。むしろ謝らせちゃってごめん」
リルは居心地が悪そうにもじもじしていた。それを見てぼくは、今なら頼めばあれをやってくれるんじゃないかと悪戯心が芽生えた。
「ねえリル、ひとつお願いがあるんだけど」
「何だよ?」
「そのパーカーのフードを取ってみてくれない?君の顔をもっとちゃんと見たい」
すると、リルはぱっとフードを前に引っ張って顔を隠した。無理、という固い声が聞こえた。
「いや、駄目なら別にいいよ。でもどうしていつも顔を隠してるの?」
「それは……。ごめん、言えない」
どうして俺の顔なんか見たいと思うんだよ、とリルはフードの端を両手で握ったまま呟いた。
「あのさ、ぼくが前に言った、喫茶店で会った女の子のこと覚えてる?あの子がリルそっくりの青い目をしててさ、声もちょっと似ていたんだ。だからもしかしたら親戚か何かかなと思ってさ」
「俺に親戚なんかいない。それに俺は男だぞ」
心なしかリルが慌てているような感じがした。
「もしかしてリル、その子のことを知ってるの?」
「し、知らないってば!もうこの話は終わり。俺この後まだやることがあんだよ」
そう言い終わるやいなや、リルは大きなカバンを引っ掴んで教室から逃げるように出て行ってしまった。
間違いない。リルとリリィ、ふたりはどこかに接点があるんだ。




