32(レーンハルト視点)
あれから二日ほど経った昼下がり、俺はひとりでクリストファーの部屋を訪ねていた。
午後の早い時間、クリスの予定は少し変更させた。まあ腹がふくれて眠くなる時間だ、授業をしても効率は悪いだろう。
サーナは俺との婚約が内定したため、突貫の后教育が始まった。サーナたっての希望でできるだけクリストファーとの時間は取れるよう配慮しているが、今までのようにサーナとクリスが一日中一緒にいられるわけではなくなっている。
俺はクリスと話さなければならない。あの子があんなふうに気持ちを荒げて泣いた本当の理由を知らなければならない。
今までそれを意識的に避けていたわけじゃないが、積極的に関わって来なかったのでツケが回ってきたのだと思う。
サーナは「自分が聞いてくる」と言っていたが、それは待ってもらうことにした。これは父親である俺の役割だと思うから。
クリスの侍女たちもみんな下がらせ、二人きりになる。クリスは顔色が悪い。叱られるとでも考えているのだろうか。
「クリストファー」
「はい、父上」
「こっちにおいで」
向かいのソファーに座るクリスをそばに来るよう呼びかけた。クリスは一瞬さらに顔色を悪くしたが、言われた通り近寄ってきて俺の隣に立った。
「ほら、もっとこっちだ!」
「わ、わわっ!」
座ったままクリスを抱き上げ、強制的に膝の上に座らせた。今の今まで青ざめていたのに、あっという間に恥ずかしそうに赤くなるほっぺたがかわいい。
「ち、父上! 下ろしてください!」
「いいじゃないか、誰も見てないぞ?」
「僕、男の子だもん! 恥ずかしいです!」
「まあそう言わんと、たまにはこの父にもご褒美をくれようとは思わないか」
「ご褒美?」
「ああ、ご褒美だ」
「なんのご褒美ですか」
「ん? そうだな――仕事を頑張ったご褒美だ」
青い瞳をまんまるに見開いてこっちを見るクリスの顔が近い。この五歳児は父を悩殺するテクを持っているに違いない。癒やされる。
「これが父上へのご褒美になるのですか?」
「ああ、なるぞ。ものすごーいご褒美だ」
頭を撫でてやると恥ずかしそうに、でも嬉しそうにおとなしくなってしまった。ああ、でもこれから難しい話をしなきゃいけない。膝に乗る重みを堪能しつつ俺はクリスを目を真っ直ぐに見た。
「――サーナが母親になるのは、いやか」
突然核心をついた問いにクリスが固まった。
視線をそらしたその表情は曇っている。それも雷が鳴り出しそうな曇天だ。
「サーナが嫌いだからいやなわけじゃないだろう?」
「サーナは……大好きだから……」
「そうか」
うつむいたその金の頭をそっと撫でてみた。触れるなりビクリ、と震えたのがわかる。
怯えているのか?
そしてただ撫でられているだけだと理解したのだろう、恐る恐る俺を見上げてきた。
「――怒って、ないのですか?」
「なぜ? 怒る理由はないだろう」
「だって、あんな、ワガママ言って――父上もサーナも困らせて、それに、それに」
あ、声に湿り気が混じってきた。まずい。
「クリストファー」
言葉をわざと邪魔するように名前を呼んだ。
「――はい」
「いいか、俺は怒ってなんかいない。いくらなついているサーナとはいえ、突然新しい母親になるなんて言われたらビックリして当たり前だからな。ただ、俺とサーナの結婚は決まったことだ。これは変わらない。だから」
撫でていた手を止め、もう一度真っ直ぐ視線を合わせた。
「俺もサーナも、クリスが心から『結婚おめでとう』って言ってくれるようにちょっとでも歩み寄りたい」
「え?」
「だから聞かせて欲しい。ミカエラに口止めされたこと、全部話して欲しい」
クリストファーがまんまるに目を見開いた。あんなに怖がっていた話題を再び思い出させるのはかわいそうだとは思う。
けれど、そのとげが刺さったままでは誰も笑顔になれない。
「話すな」と釘を刺され、どれだけ怖かったことだろう。不安だったことだろう。
そんなものを恐れる必要はないと、この父が必ず守ると声を大にして言いたいのだ。
とっととあの女を追放しておいて本当によかったとさえ思える。
「魔法を失敗してドレスを濡らしたときに叱られたって言っていたな。そこで『近寄るな』って言われたのか?」
「――はい」
「他には?」
「気味が、悪いって」
「どこが気味が悪いんだ。クリスはこんなにかっこよくていい子なのにな」
本当は「かわいい」と言いたいが、五歳の男の子がかわいいと言われて喜ぶわけがないのでかっこいいと言っておく。
「その、魔力が」
「魔力?」
「魔力が強すぎて気味が悪いって。まるでお話の中に出てくる魔物みたいだって」
「そんなわけあるか。クリスの魔力が強いのは、俺の子どもだからだぞ?」
「でも、母上は」
「ああ、ミカエラはそんなに魔法が得意じゃなかった。それに魔力量も多くはなかった。うーん……だからいっぱい魔力を持っているクリスのことがうらやましかったのかもしれないな。
――さて、これだけクリスは俺に話してしまったがミカエラどころか誰も叱りに来ないだろう? どうだ、俺の言ったことは本当だったと信じてもらえたか?」
「あ……本当だ」
「だろう。そもそもミカエラは『話すな』って言ったらしいが、話したら怒りに来るってはっきり言ったのか?」
するとクリストファーは少しずつ上を向いてきていた顔を再び伏せてしまう。
「ううん。……が、……るって」
「え?」
「父上が、いなくなっちゃうって」
「俺が?」
「そしたらボクみたいな子は母上もメンドー見るのいやだから、ひとりぼっちになっちゃうのねって、笑って、いいざまね……って……」
訂正する。
ミカエラを簡単に追放したのは愚策だった。今すぐここに引きずり出してきて、クリストファーの目の前で土下座させてやりたい。いや、クリストファーの目にあの女を映すだけでもこの子が汚れてしまいそうだ。
そう考えるくらいには頭に血が上っている。
俺はとっさにクリストファーを抱きしめた。
「父上?」
「――っ、クリストファー。俺はいなくならないし、おまえは決してひとりぼっちになったりしない。だから、ミカエラが言ったことは全部嘘だ」
「嘘……?」
「ああ、嘘だ。約束する」
「本当に? 本当に父上は大丈夫なのですか?」
「本当だ。その証拠にぴんぴんしているだろう?」
クリストファーは今五歳。ミカエラが出て行った頃はクリスはまだ三歳か四歳に脚を突っ込んだところだったろう。そんな小さい子にひとりぼっちになる恐怖を教え込むとか、どんな神経をしていたらできるんだあの女。
それでもやはりクリスのおびえは払拭しきれないのがその瞳の中にうかがえる。
この怯え方。ひょっとしたらそんな酷薄な言葉を投げつけたのは一度や二度じゃないのかもしれない。
「クリス、ミカエラにぶたれたりしたことは?」
「ええと――その」
「あったんだな?」
「ぶ、ぶたれてはいません! ただその……足をひっかけられたことは」
もう何も言えなかった。
俺は何をしていたんだ。まだ五歳にもなっていない、幼いたった一人の息子。仕事にかまけてすべてミカエラと侍女達に任せっきりで。
あの女がこの子に何をしていたのか、これっぽっちも気づいてすらいないなんて、父親失格――いや、それじゃ済まないかもしれない。とてつもない後悔の念が押し寄せ、溺れてしまいそうだ。
そっとクリスの頬に手を寄せ、前髪を払う。瑞々しい弾力のある頬、絹糸のようにふんわりした髪。この子はまだほんの五歳、庇護されて然るべき年齢の幼子ではないか。
こんなあどけない子に、俺は、何を――
「クリス、クリストファー。すまない。すまなかった」
膝の上の子どもを抱きしめた。
「父上、苦しいです」
「すまなかった――よく、ここまで頑張ってくれた。不甲斐ないこの父を赦してくれ」
「父上――」
「大丈夫だ。サーナは絶対にミカエラのようにはならない。そして、俺もだ。約束する」
もうこの子がひとりで苦しまないように。
クリストファーは少しの間じたばたしていたが、やがてすすり泣く声に切り替わっていった。いつしか俺も頬を濡らしていた。
追放したミカエラを捕まえて、自分のしたことの代償を山ほど利子をつけて払わせてやりたい。この子がどれだけ辛い思いをしたのか、わからせてやりたい。
ミカエラの所在を確かめようと心に決めた。




