姉様のかわいいエルである
頼れる者もおらず、後ろ盾もない、ちっぽけなガキ。
そんな俺の唯一の味方が、姉様だった。
「ねえさま」
「なあに、エル」
幼い頃から、俺は姉様を愛していた。
姉様以上に好きなものなどないし、俺以上に姉様を愛している奴もいない。
「ねえさま、エルは、ねえさまのことがだいすきです」
(すき。すき。だいすき。おれのねえさま。おれだけのねえさま)
温かな指先を握りしめれば、きゅうと握り返される。
「わたしも、エルがだいすきよ」
黒曜の瞳をうっとりと細めて笑う、幼い姉様。
母のいない身ではあったが、当時から大人びていた姉様がまるで母のように俺を愛してくれたから、俺の心はいつも満たされていた。
小さな体で精一杯抱きしめてくれたことを、その時感じた幸福を、俺は今でも鮮明に覚えている。
「エルはね、とってもかわいいの!」
その言葉を聞いたのは、偶然だった。
公爵に用があって、部屋の扉をノックしようとした瞬間のことだ。聞き違えるはずもない愛しい声が、俺のことを語っている。思わず息を殺し、扉にへばりついて聞き耳を立てた。
「私としては複雑だなあ。…私は?私も可愛い?」
「ええ、とっても。エルの目の色はちちおや似ね、ほうせきみたいだわ」
「そうかな。シスカは私の目、好き?」
「ふふ。もちろん、だいすきよ」
「あのガキと私のどっちが好き?まさかあいつなんて言わないよね。ううん、言ってもいいよ。その時はあいつを」
「こーしゃくーー!!こうしゃく!いそぎおつたえしたいことがあるのですが!!」
それ以上は、とても姉様に聞かせられなかった。あの気狂い、姉様の清らかなお耳に何聞かせるつもりだったんだ。
全力で扉を叩くと、盛大な舌打ちと愛らしい歓声が聞こえた。
「エル!こちらへいらっしゃい。いっしょにおやつをたべましょう」
そう言って笑った姉様の笑顔は、変わらず眩しかった。
姉様はいつだって、明るい場所へ俺の手を引いていってくれる。
魔力の暴走のせいで右目だけ弱視になった時もそうだった。俺の右目はモノクルをかけても矯正することが出来ず、視力の向上も見込めない。ショックだったが、姉様は俺以上に悲痛な面持ちで「わたしがエルのみぎめになる」と言ってくれた。そしてそれ以来、俺の右側が姉様の定位置となった。
姉様が、景色のいい場所や香しい花、美味い料理に優しい童話など、この世界の素敵なものを一つ一つ教えてくれる度に、俺は姉様の美しい世界を守ろうと決意を新たにしたものだ。
正妻の一人娘である姉様が全身全霊で俺を愛してくれたため、使用人も下手な扱いはしなかった。姉様が俺を愛してくれたおかげで、俺は家での居場所を得たのだ。
まあ、あの気狂いが度々「シスカ、そんなにこのガキが好き?私よりも?」とか不穏なことを聞いてきたが「そんなききかたする子にはおしえてあげません」と言う姉様の輝く笑顔に沈黙していた。いつの日か姉様が公爵より俺を選んだ暁には、俺はめでたくミーファ湾の藻屑と化すことだろう。ただでは死なんが。
そもそも姉様は基本的に、人から受ける愛情を甘く見ている。
人には惜しみなく愛を与えるくせに、人から与えられる愛を理解しきれていないのだ。だからあの気狂いの、娘にかけるには異常すぎる問いも深く考えず、浮かんだ答えをそのまま発する。
甘い。甘すぎる。
姉様は、執着というものを根本から理解していない。
あれだけ公爵に愛されて、これだけ俺に愛されて。タローも、忌々しいがヴィンセント王子も、どれだけ姉様に狂っていることか。姉様は、何ひとつ知らない。
いくら夢とはいえ、あんな悍ましい話を聞いて、俺やタローが大人しくしていると姉様は本気で思うのだろうか。思うのだろうな。
姉様は、俺も含めた気狂い共によって作られた小さな箱庭で育ったのだ。世界のやさしいもの、きれいなものばかり詰め込んだ、甘やかな花の檻。姉様の世間知らずは、なるべくしてなったものだ。愛でこそすれ、面倒になど思うはずもないが―――これほどまでに俺の愛を軽んじられるのは、少々考えものだな。
後顧の憂いは、早急に絶つに限る。
ヒロインとやらの情報がつかめ次第、速やかにご退場いただこうと決意して早幾年。当然公爵にも話は通してあるが、未だヒロインという名の女は見つかっていない。モンスターはまだ、人間に成りすましてはいないようだ。どこぞの娘に成りすましてヒロインと名乗り始めるのを待つより他ない。
姉様、待っていてくださいね。
悪い夢は直に覚めます。
その根源の死を持って、箱庭の幸福を取り戻してみせましょう。
あいしています、おれだけのねえさま。
いそがなきゃ いそがなきゃ
あのこの首はただひとつ
いそがなきゃ いそがなきゃ
首をとるのはただひとり