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桜に先駆け春の訪れを告げた梅の木を背景に添えて、記念撮影の場は着々と設けられた。
侘しい梅の木の隣には、四君子大学付属幼稚園と銘打たれた石碑がある。撮影業者は石碑が端に映るように台の位置を調整した。
撮影業者が園側に準備が終わったことを告げると、教師たちが迅速に動き出した。
「はあい、注目! 今から写真を撮りますよー。まずはさくら組の皆から写真を撮りまーす。さあ、さくら組の子は集まってえ」
「さくら組の次はゆり組でーす。ゆり組の子は先生の周りに集まって下さあい」
先生の呼び掛けを耳にして、暇を持て余していた卒園児たちがワッと一斉に動き出す。
「ひまわり組、呼ばれないね」
「でも、先生は居るよ」
ほらと、遥が少し離れた位置に居る先生を指差した。
さくら組とゆり組の子どもたちの動きが落ち着き始め、漸くひまわり組の先生が声を張り上げた。
「ひまわり組。集まれえ!」
そわそわしていた子どもたちが駆け出す。うたかも遥と手を繋いで先生の元へ走った。
「はい。横に六人ずつ並んで」
ひまわり組の先生が子どもたちを効率よく数えるための指示を出した。横に六人。縦に五人。最後列だけ三人だ。
「ひまわり組は一番最後に写真を撮ります。それまでお友達と髪型や服装のチェックをしましょう。髪が跳ねていないか、服は汚れていないか。さあ、始めましょう」
うたかと遥は列の最後尾で話を聞いていた。先生の話が終わり、遥がうたかを向く。彼の背後では男の子が前の列の子に混ざって身だしなみの確認をしている。
「うたか、僕、変なところない?」
「ちょっと待って」
うたかは遥を頭の天辺から足の先まで一瞥した。
髪を結ったり、ヘアピンをつけていない頭は風で乱れたところもなく問題ない。水色のブレザーの釦は外れていない。中に来た白シャツや紺色のハーフパンツに汚れは付いていない。
「前はいいかな。はい、後ろ向いて」
うたかに言われた通り、遥が後ろを向く。
襟元は正されている。一番心配だったハーフパンツのお尻部分も汚れていなかった。
「うん。変なところはないよ」
「よかった。じゃあ、僕がうたかを見てあげる」
「よろしく頼んだ」
「前、よし! はい、後ろ」
「分かった」
クルリと、うたかはその場で回った。高い位置で結い上げてなお肩甲骨まで届く長い髪の束が、身体の動きに遅れてしなる。射干玉の髪が水色のブレザーの表面を滑った。
透はつむじの見えない頭から踵まで視線を滑らせた。
「あ! うたか、お尻になんかついてるよ」
「ええ?」
うたかはスカートの裾を前に託し寄せて汚れている部分を直接確かめようとしたが、白い粉が付着したお尻の部分は流石に見えなかった。
「うたか、パンツ見えちゃうよ。ほら、スカートを放して。じっとしててね」
遥がうたかのスカートを叩いたのだが、淡い水色の上着ならいざ知れず、紺色のスカートと白は相性が悪すぎた。
「白い粉が取れないよ」
「濡らしたら取れるかな」
「濡らせば大丈夫だと思う」
遥の言葉を受けて、うたかは手を大きく上げた。
「先生。ハンカチを濡らしに行って来ていいですか?」
「いいですよ。但し、写真を撮るまで時間はあるので、転ばないよう走らずに行ってきてください」
「はーい」
記念撮影は園児を真正面から撮るので、スカートの後ろに付いた汚れは写らない。そのことにうたかと遥は気づかないまま、近くの水場に向かった。
うたかが外の水場の蛇口を回せる方向へ捻ったけれども、冬場は使う機会がないため元栓が閉められていた。
「あれ? 出ないよ」
「それなら、中に行くしかないね」
「うん。急がないと」
二人は競うようにして歩調を速めた。昇降口から建物の中に入って一番近い水場、保健室の前にあるお手洗い場を目指す。
遥が蛇口を捻る。うたかはポケットからアイロンを当てたハンカチを取り出した。
「遥、これ使って」
遥はハンカチを受け取ると、ハンカチの端を濡らして絞った。そしてうたかの汚れが付いたスカートを拭った。
「取れたよ」
「ありがとう、遥」
「早く戻らなくちゃ」
「うん」
遥から返されたハンカチの、濡れた部位を包むように畳み、うたかはポケットにしまった。
二人が外に戻るため踵を返したとき、呼び止める声があった。
「待って」
その一言だけではどちらに向けられた言葉なのか判断できなかったので、二人はほぼ同時に保健室のある方向を振り返った。
そこには天使がいた。亜麻色の髪、透けるような質感の白い肌、碧の目。ただ、整った目鼻立ちは宗教画のそれではなく、馴染み深い日本人のものだった。
「振り返るタイミングまで一緒なんて、仲がいいんだね」
半ズボンの園服を着た天使が口元を綻ばせる。
「だれ?」
遥がそう訊ねる傍らで、うたかは男の子の名前を思い出そうと頭を捻った。
男の子の胸には同じ卒園生の証である、春色のコサージュが誇らしげに咲いている。幼稚園に組が三つあるとは言え、三年間も通っていれば自然と同学年の子の名前は記憶に刻みつく。
その筈なのに、男の子の名前が思い出せない。
「うーん。おかしいなあ」
うたかは遂に音を上げた。
「どうしたの、うたか」
「あのね、あの子の名前が出てこないの。あんなにきれいな子だから、すぐ思い出せると思ったのに。変だなあ」
「変じゃないよ。僕は身体が弱くて幼稚園には全く通ってなかったから、僕の名前なんて知らなくて当然だ」
うたかを真直ぐ見据えて男の子はそう話した。その口元が称える笑みは、うたかと遥が仲良しだと言ったときより、何処か淋しげで歪だった。
「そうなの? それじゃ、自己紹介が必要なんだね。わたしはね、酉越うたか。うたかは平仮名で書くんだ。よろしくね」
うたかは笑顔で自己紹介を終えた。
「ほら、遥も」
「分かったよ」
うたかに促され、遥も自己紹介をする。
「鏡見遥。ひまわり組。よろしく」
遥の自己紹介は三言で終わった。
「言い忘れてた。わたしもひまわり組だよ。遥、人見知りが激しいんだ。でもね、慣れると面白い子だから仲よくしてね」
「面白い子って何さ」
「本当の事を言っただけだよ。それでキミの名前は?」
男の子は突然始まった自己紹介を驚いた顔で聞いていた。
うたかと遥がじっと注目する中、男の子は戸惑い気味に言葉を紡ぐ。
「僕は、雪彦……子津雪彦。一応、さくら組が僕のクラスってことになってる」
「ええ! そりゃ大変だ。さくら組の写真はもう始まっちゃってるよ!」
「ああ、そうなんだ」
雪彦は軽く頷いた。まるで興味がない様子だ。
うたかは焦りさえみせない雪彦の態度を不思議に思った。
遥も訝しく思い、違和感を指摘する。
「何で慌てないの? 集合に遅れちゃってるんだよ?」
「そう言われても、ね。保健室で休んでいた僕には声が掛からなかったからしょうがないよ。あとで合成?って奴をするんじゃないかな」
「ああ。お腹を痛くしたのってお前だったんだ。今は大丈夫なの?」
「今日は単に緊張しただけだから、今は平気」
「元気になったんだね、良かった。それならゆっきーも私たちと一緒に行こう」
「ゆっきーて、もしかして僕のこと?」
「うん、そうだよ。『ひいちゃん』とどっちがいい?」
雪彦はうたかの馴れ馴れしさに初めこそ狼狽えたが、やがてこの子はこういう子なのだろうと自分を納得させたのか、うたかの問いに答えた。
「えーと……『ひいちゃん』の方かな」
「分かった。さあ、ひいちゃんも行こう。先生に走っちゃ駄目って言われてるから、早歩きで戻らないといけないんだけど、これが結構大変なんだよ」
「いや、僕は……」
雪彦は目線を逸らし、何かを気に掛けている様子だ。しかし、どうしたのと問われるより早く迷いを振り切り、うたかの誘いに乗った。
「よし。急ごう」
うたかは遥の手を取り、近くに寄ってきた雪彦の手も取り、率先して前を歩いた。
遥はすぐうたかの横に並んだ。
その一方で、雪彦は当たり前のように手を取られたことに戸惑ったせいで少し出遅れて歩いた。うたかがつないだ手もつないでいると言うよりは、うたかが雪彦の手を握っている状態だった。
「うたか、もうちょっとゆっくり行こうよ」
「駄目だよ、遥。これで遅れて行ったら、つっきーに『またあなたたちですの!』って怒られちゃうよ」
「そうだった……いい加減うざいな、あいつ」
前を並び歩く二人に雪彦が追いつく。そのときには雪彦もうたかの手を遠慮がちながら握り返していた。
三人が横一列に並ぶと、うたかの背が頭一つ分飛び抜けている。透と雪彦を比べると雪彦の方に軍配は上がるが、大した差はない。
「その『つっきー』もひまわり組の子なの?」
幼稚園に全く通っていなかった雪彦は、つっきーという子を取っ掛かりにして会話に参加した。
「そう。自分が一番じゃなきゃ気が済まないって奴なんだ。あんまり近づかない方が身のためだよ」
「そうなんだ」
「つっきーが勝負を挑むのは遥くらいなんだけどね。あとは、たまにとばっちりを私が受けるくらい」
「どうして?」
「あのね――」
うたかは雪彦の純粋な疑問に答えようとした。しかし、遥は入園式の出来事を知られることが嫌だった。
「知らなくていいよ」
遥が愛想のない言葉でばっさりと切り捨てる。
雪彦は目を丸くした。
「聞いちゃいけない話題だった?」
「ううん。実はねえ
「うたか!」
遥がつっきーより可愛いことが悔しかったらしくて
「言うなって!」
幼稚園に入ったときからライバル視されてるの」
遥の制止の声にもめげず、うたかは言い切った。
雪彦はうたかの顔を見て、遥の顔を見た。遥は悔しさと恥ずかしさで顔を真っ赤にさせていた。
「うたかの馬鹿!」
遥がうたかとつないだ手を大きく振り動かし、手を放そうとする。
だが、背丈に比例して力強さもうたかの方が勝っているので、振りほどけもしない。
怒って手を振りほどこうとする遥と、謝りながら手を放す気のないうたか。膠着した二人の間に雪彦の声が割って入る。
「嫌だよね、そういうの。男なのに『可愛い』とか『きれい』とか。僕は『かっこよく』なりたくて仕方ないのに」
天使のような雪彦は、西洋人形のような遥と同じ目に遭ったことがあるのだろう。
声音には慰めではなく、憤りと共感の情が宿っていた。
遥は振りほどこうとする動きを止め、うたかの向こう、雪彦へ意識を向けた。
「お前も?」
「うん」
それは第三者が聞けば、何が通ずるともしれない短いやり取りだった。
しかし多くの言葉を語らなくとも、同じ辛酸を味わった二人の間ならばこそ通じるものはあった。
うたかは気づかれないように遥の顔を盗み見た。遥は理解者を得て嬉しそうな表情をしていた。
次に雪彦へ視線だけを移した。会ったばかりの人物を相手に確証は持てないけれども、少しだけ顔のこわばりが解れた気がする。
うたかは何だか嬉しくなって口元を緩ませた。
その表情を見咎められないよう、更に歩調を上げて二人の前を歩いた。