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私立四君子大学付属幼稚園の園舎は、同じ付属小学校の校舎と並び立つ。
そうは言っても二つの建物の間を、あとひとつ園舎が建ちそうなほど広大な林が隔てているのだが。
クヌギやコナラ、ミズナラなど甲虫が好む樹木を中心に構成された林は境界付近に梅や桜、紅葉や銀杏が交じり、教材としてや季節の行楽に最適な他、目を楽しませる効果を持つ。
実際にうたかたちは先生に引率されて幼稚園舎を囲う塀の向こうに見える、その林へ遊びに入ったことがある。
春だと桜見、夏は虫取り――虫が苦手な子は野花で冠を編んでいた――、秋は紅葉狩りと、園舎と同程度に思い出深い場所だ。
卒園記念撮影はその林から零れ落ちた種が塀の此方側に根づき、大きく育った梅の木を背景に添えて行われる予定だった。
そう、あくまでも予定である。
ここに来てある保護者が、一本の梅の木より見応えのある梅園を背景にして欲しいと口を挟んできたことで、予定が少々遅れてしまっていた。
「――ですから、先ほど説明申し上げました通り、当幼稚園ではこの梅の木を背景にして記念撮影を撮ることが慣わしでして……」
「慣わしに過ぎないんでしょう? だったら、今年から変えてしまえばいいじゃない」
老年に差し掛かった園長は、異議を申し立ててきた保護者のふてぶてしい態度に辟易していた。
園長は公立の幼稚園に勤めていた時期、子どもが少しでも楽しく躾けを身につけられるようにと実践したアイデアがメディアに取り上げられた結果、名門四君子学院のスカウトを受けて幼稚園に勤めるようになった経歴の持ち主だ。
十二名家どころか、分家とさえ関わりがない。
それは園長と言う地位にあってさえ致命的なことのように思えたが、四君子学院を経営する寅若家の後ろ楯と、教職者として真摯に勤める態度のおかげで、彼は今までトラブルと無縁だった。
それなのに、初めて遭ったトラブルがこれか。
園長は内心で溜め息を吐いた。
鏡見家と縁があるのだと初めに宣言した年若い母親はけれども、卒園式の場に相応しくない華やかな着物で出席するあたり、外から嫁いできたのだろうか。
周りが迷惑がっていることも気づけず、着物姿の母親はなおも要求を通そうとする。
ああ、面倒なことになった。
園長は口を動かしながら、頭を働かせる。
こういった手合いは自分より上だと認識している相手の意見ではない限り、たとえ理がこちらにあろうと引いてくれないのだ。
平行線を辿る話し合いの場に灰色のスーツを着こなした、三十代後半と思しき働き盛りの女性が颯爽と歩み寄る。
「記念撮影が始まらないみたいだけれど、園長先生、どうかされて?」
女性は整った卵形の顔が際立つ、耳にもかからないほど短い髪をしていた。
春先らしい桜色のアイシャドウで彩られた、切れ長な目が冷静に場を分析する。
「染里さま」
園長はその女性が現れたことに安堵を覚えた。
「染里さま?」
園長の女性に対する呼び方を聞いて、着物姿の母親は眉を顰めた。
染里の、目元を華やかにした分、計算して色を控えた唇が笑みを描く。
「初めまして。私はひまわり組に通う、酉越うたかの母親で染里と申します」
「酉越!?」
着物姿の母親はあからさまに狼狽した。
染里はニッコリと笑んだまま、黙って名乗りを待つ。
やがて気を取り直したのか、着物姿の母親は咳払いをした。
「わたくしは鏡見家の次男、洋介の妻で京葉月と申します」
「洋介さんの奥方でいらっしゃったのですね。私は洋介さんとは幼馴染みの間柄なのですが、彼はどちらに?」
「わたくしの地元におります。父が次の選挙に出馬するため、秘書として父を支えるべく邁進していますわ」
「そうですか。僭越ながら、お父様の当選を祈念させていただきます」
染里は挨拶を手短に済ませ、園長に向き直った。
「ところで園長先生、記念撮影はまだですか? うちの主人が個人的に娘の写真を撮りたいと、そわそわして少々うざったいんですの」
「ああ、はい。実はですね」
園長は事情を話そうとしたが、葉月が被せるように言葉を紡いだ。
「そのことですけどね、染里さん。わたくし、園長先生に記念撮影の場所を近くの梅園に変えてはいかがと、提案いたしましたの。折角素敵な場所が近くにあるんですもの。こんな侘しい梅の木を背景にするくらいなら、そちらで撮影した方が華やかだと思いません?」
「そうですね。確かに梅園は華やかで、写り映えするでしょう」
「そうでしょう!」
「ですが、既にこの幼稚園から二人の子供を見送った母親の心情としては、末の子の記念写真も同じ場所で撮影して欲しいと思います。
それにご存知ですか? この梅の木を背景に添える伝統は二つの理由からきているものだそうです。一つ目は成鳥の早い梅の木のようにすくすくと育ってほしいという思いから、二つ目は幼稚園の敷地に自然と根づいた梅の木にあやかって、どのような環境でも適応できる子どもに育ってほしいという思いから。
その二つの願いから始まった、素晴らしい伝統です。
どうですか、葉月さん。卒園記念写真は私たちの子どもが思い出を振り返ったとき、幼い頃の教えを思い起こすものであって欲しいと思いませんか?」
「それは、そう思いますけど……」
「それに梅園を背景にするなら大勢でではなく、仲のいい友人だけで撮った方が素敵だと思いませんか?」
論理的な観点から攻め、更に染里は女性が好みそうな観点から後押しをした。
これには葉月も打算から頷いた。
「そうですわね。そのときは是非、うちの子と染里さんの子との写真を撮らせていただきたいですわ」
「勿論。カメラマンは私の主人をご紹介いたします」
その後、葉月は記念撮影の場所を予定通りのままにすることに笑顔で同意した。
「ありがとうございます、染里さま」
「礼には及ばないわ」
小声で告げられた謝意に、柔和な微笑みを返して染里が去る。
園長は心からの感謝を込めて、その背中に頭を下げた。
さて、撮影業者を大夫待たせてしまった。謝罪して、それから撮影は予定通りの場所でと伝えなければ。
園長は所在なさげにしている撮影業者の元へ足を伸ばした。
*
話し合いの場を見事に治めた染里は、彼女の夫の元へ足早に戻って来た。
染里の夫、冬弥は遠巻きながら園児の母親たちの熱視線を一身に集める美丈夫だ。妻とお揃いのスーツの下は、大多数の日本人女性が好む筋肉質な細身をしている。
「お疲れさま、染里ちゃん」
冬弥は、わざわざ揉め事を治めに出向いた心優しい妻を労う名目で両腕を開いた。
しかし、染里が冬弥の胸に飛び込むことはなく。
「まったくよ」
そう、言葉だけを返した。
冬弥は妻のつれない態度に肩を竦めた。『そまり』所属の外国人モデルと並んで歩けば女と間違えられる顔に、まるで捨てられた子犬のような表情が浮かぶ。
だが、染里が自らの魅力を理解しきった冬弥の技に嵌ることはない。冬弥は微かに苦笑を浮かべた。
酉越夫妻の近くには、冬弥を哀れみの目で見守る染里と同年代の男女が居た。
女性の方はベージュ色の訪問着と、吉祥文様の帯を合わせた装いをしている。女の人形じみた冷たい美貌と、伸ばした前髪を真ん中で分けるという些細な違いはあるが、おかっぱの髪型はどこか透と似通っていた。
男性の方は誂えたようなブラックスーツを着ていた。細面に顎髭を薄っすらと生やし、男らしさを醸し出そうとしているのだが、貫禄より洒落っ気が先立つ容貌をしている。
女性の名は鏡見若菜、男性の名は昭。うたかの友人、透の両親である。
硬質な表情を崩さないまま、女性が口を開く。
「染里、ありがとう。私が出て行くと、どうあっても葉月さんが反抗したがるのよ」
「どういたしまして。権力欲の強い身内が居ると大変ね」
「そうね。時折、酉越家が羨ましくなるわ」
若菜は感情を面に出さないまま、溜め息を吐いた。
「それはちょっと違うかな、若菜ちゃん。確かに酉越の血筋は芸術家気質が多いけど、同時に才能を世の中に認められたいって言う顕示欲が強いことも事実だからね」
「そうそう。事故に見せかけて作品を駄目にされたり、依頼主との仲を壊されて仕事を奪われたりすることがあるわね」
「……人の世の無常を感じるわ」
「春柾兄さんみたいなこと言わないでよ」
染里が若菜の気分を持ち上げようと他愛無い話を振る傍らで、冬弥は昭を手招き、コソッと耳打ちをした。
「ねえ。なんか若菜ちゃん、疲れていない?」
「聞いてくれ。俺と若菜は今日の卒園式に備えて昨日の午後から休みを取って家に居たんだが、そこに葉月さんが突撃して来て大変だったんだ」
「どう大変だったのさ?」
「葉月さんが息子を四君子の幼稚園に通わせたいから鏡見家で預かれって我儘を言って、俺たちを困らせた事件があっただろう」
「そのときは葉月さんの無茶な頼みを、三上家が代わりに引き受けてくれて助かったんだよね」
「そう。三上の伯父さんには借りができちまったよ。
洋介は京家に婿入りした時点で鏡見家と縁が切れてるんだ。俺たちがあいつの息子を預かる義理はないってのに、葉月さんはそこんとこを理解してないんだよなあ。
昨日、俺たちが家にいることを知って、家に乗り込んできた葉月さんが何を言ったと思う?
鏡見家の血を引く息子を分家に預けるなんて扱いがひどい。早く鏡見家に入れろってさ」
そのときのことを思い出したのか、昭は露骨に顔を顰めた。
友人の苦労話を聞き終えた冬弥は同情より、むしろ葉月の行動力と胆力の強さに感心を抱いた。
政治家の妻としてはどうかと思うが、陰湿な蹴落としが多いモデル業界では勤めあげていけそうな人物である。
ただ残念なことに、遠目から見た葉月はモデルとしてスカウトするに値しない容姿だった。容貌を貶しているわけではない。西洋人に受けのいい、アジア的な要素が足りなかっただけだ。
「お。そろそろ記念撮影が始まるみたいだぞ」
「うたかも移動し始めたねえ。遥ちゃんとお手てを繋いじゃって、可愛いいなあ。そうだ! ねえ、明後日の桃の節句に遥ちゃんをうちに寄越してよ」
「は? なんで?」
「うたかとお揃いでしつらえるためだよ。楽しみだなあ。きっと染里ちゃんと若葉ちゃんが幼くなったように見えるんだろうね」
冬弥が空想に耽り始めたことを言い訳に、昭は返事をしなかった。
話の流れから冬弥が息子を女の子だと勘違いしていることは分かった。
だが、このタイミングで事実を指摘すれば、冬弥はうたかと遥がつないだ手を放しに走るだろう。
相手は六才児だ。しかも報告を聞くに、実の兄弟以上に兄弟らしく育った仲である。恋心が生じている筈もないだろう。
どうせあとから分かることだと、昭は口を噤んだ。事実を教えて遥たちを無用に怖がらせたくはなかったし、何より、友人が奇行に走るところを見たくはなかった。
……冬弥が遥の性別を知らないことには、染里が一枚噛んでいるのかもしれないが、昭に確かめる気はない。