卒園式
『幸のない日々』――その小説は、交通事故で両親を亡くした辰見幸が、遠い親戚である九頭家の元でお世話になる場面から始まる。九頭家が在る干支村は、十二名家を筆頭にした身分制が生きる閉鎖的な村だった。まるで住む世界が違うしきたりに肩身の狭い思いを抱く幸。
そんな幸の心を救ったのは十二名家の一つ、子津家の雪孝だった。幸は初恋の男の子、小坂幸孝にそっくりな雪孝へ徐々に心を傾けていく。やがて二人は恋に落ちるのだが、干支村のしきたりが幸と雪孝の関係を許さなかった。
三月一日、桃の花が目に鮮やかな頃、干支村唯一の児童福祉施設である私立四君子大学付属幼稚園で卒園式が行われた。
世界に名立たる服飾ブランド『そまり』のデザイナーが縁あって手掛けた園服に身を包んで、百余名を越える在園生がソワソワと落ち着きなく式の始まりを待っている。
今日に限りスーツをピシッと着込んだ幼稚園教諭が、司会台の前に立ち、朗々と開会の言葉を読み上げた。
式次第が始まり、紺やグレーの落ち着いた礼服を着た卒園生の保護者たちが視線やビデオカメラを体育館の入り口に向ける。
「卒園生入場。拍手でお迎えください」
司会の声に合わせて閉め切られていた扉が開き、まず卒園生のクラス担当教諭が体育館へ足を踏み入れ、深々とお辞儀をした。
続いて胸に春色のコサージュを誇らしげに咲かせ、本日の主役である卒園生たちが二人ずつ並んで入場する。先の教諭のお辞儀を真似てから、緊張からか頬を紅潮させて真直ぐ席に向かって進む。
卒園生の酉越うたかは、前方から人が捌けていくことを列の最後尾近い位置で待っていた。
まだまだ卒園生がひしめき合う廊下は、子どもたちが緊張しているせいだろうか、平時を知る身としては不気味に思えるほど静寂に支配されていた。
しかし、昨今何処にでも待つことが苦手な子供は居るもので、仲がいい友達が隣に居れば尚のこと黙っていられるはずもなく、うたかは横手から袖を引っ張られた。
うたかは高く結い上げた髪を揺らしながら、首を横へ向けた。
しかし、そこには誰も居ない。
「あれ? 誰も居ない」
改めて声に出して確認する。
すると、ムスッとした声が返ってきた。
「うたか、僕を馬鹿にしてるでしょ。下だよ、下」
うたかが言われた通り視線を下げると、既に此方を向いていた、おかっぱの西洋人形――ではなくて鏡見遥と目が合った。
遥は一見して美少女にしか思えない顔立ちをしている。だが、『僕』と言う一人称から察せられる通り列記とした男の子だ。
「ごめんごめん。小さくて見えなかったよ」
「今のうちに言ってなよ。うたかの背なんて、すぐに追い越してやるんだからね」
遥は悔しそうに頬を膨らませた。
背の順で一番前に並ぶ低身長をコンプレックスに思っているわりに、刺激されてもカッとならない。この年頃の子どもにしては大人びた反応ができる理由は、このやり取りが二人の間で挨拶代わりの鉄板ネタになっているからに他ならなかった。
「それでどうしたの、遥。もしかして、おしっこ?」
「馬鹿!」
うたかの恥じらいのない台詞に遥の方が顔を真っ赤にさせた。
遥が高い声を上げたせいで、今まで二人のお喋りを黙認していた丑込羽月が振り返った。
特徴的な垂れ目は長い睫毛に縁取られ、まるで目の周りに大人の女性がするような化粧を施しているかのようだ。
羽月は白い目でうたかと遥を睨んだ。
「シッ。静かにしないと、あとで先生に怒られるよ」
「……ごめんなさい」
思いの外、大きな声を出してしまった遥はしおらしく謝った。
「ごめんなさい」
うたかも何となく遥に習って謝ってみた。
「まったく、子どもなんだから。卒園式の日くらいちゃんとしてよね」
羽月は自分も子どもであることを棚に上げ、二人の子どもじみた態度を鼻で嗤った。
緩くコテで巻いた、ふわふわの髪を自慢するように手で撥ね上げ、羽月は前に向き直る。
羽月の髪が舞ったとき、周りに花の香りが広がった。
遥は鼻をひくつかせたあと、おもむろに皺を寄せた。
「くさ女」
羽月に聞こえないほど小声で呟かれた悪態は、隣のうたかにはまる聞こえだった。
しかし、うたかは遥の悪口を諌めはしなかった。そもそも遥には羽月を嫌う、ちゃんとした理由がある。
羽月は干支村に十二在る名家の一つ、丑込家の次女で、同じく名家である子津家にもどういうわけか可愛がられている。
子津家は名家の中でも戌丸家と並んで多くの分家を持つ。子津家と親しい羽月は子津の分家の人たちと幼稚園に入園する前から面識があった。
羽月はなまじ容貌が優れていたため、お世辞がうまい大人ばかりではなく、自分の気持ちに正直な子どもたちにも「羽月ちゃんはかわいい」とちやほやされて育った。
世界で一番かわいいのは羽月である。
幼い羽月がそう思い込むのも無理はない。
ところが、天狗の鼻どころか、天衝く塔のように高くなった羽月の鼻をポッキリへし折る出来事が入園式の日に起こった。
入園式のリハーサルのため、体育館に集められた園児たち。かわいい羽月が人気者になるはずだと思いきや、男児女児拘らず彼らの視線をある子どもが独占した。
そう、うたかの隣に居る桃顔の美少年、遥が羽月の鼻を意図せず折ってしまったのだ。
それからと言うもの、羽月は遥に何くれと勝負を仕掛けた。
朝の早着替え勝負から始まり、駆けっこ、かくれんぼ。はては歌やお絵描きの上手下手に至るまで。
羽月が勝てば高笑いしながら「この程度ですの」と見下し、遥が勝てば「悔しい」と大泣きされた。
それは遥が男の子だと露見しても終わりを見せず、卒園式のリハーサルでさえ姿勢の正しさを競う勝負事が行われた。
遥が被った迷惑の数々を観たり、時に巻き込まれたりしたうたかとしても、羽月を苦手とする気持ちはやぶさかではない。
「ねえ、うたか。列ってちゃんと進んでるのかな?」
遥は列の前方の様子を窺おうと爪先立ちをした。それでも見えないのか、顎を上げて首まで伸ばし始めた。
「危ないから止めなって」
うたかはフラフラと安定しない遥の肩に手を乗せ、爪先立ちを止めさせた。
「進まないなあ」
「そうだねえ」
「何かあったのかな。もしかして事件とか」
突拍子のない発言をした遥の瞳はけれども、キラキラと輝いていた。
うたかは遥が謎解きものの絵本に嵌っていることを思い出した。
「事件が起こったら、犬のお巡りさんが来るはずだよ」
「そっか。違うのか。ちえっ。つまんないの」
うたかと遥のお喋りは止まらない。
「あなたたち、いい加減にしなさいよ。先生が静かに待ってるように言ってたでしょう!」
遂にしびれを切らした羽月が後ろを振り向き、声を荒げた。
「大体ねえ、何であなたたちが並んでいるのよ」
「先生が決めたからだよ。なに、先生が決めたことにけちつけるの?」
「そんなこと誰も言ってないでしょう!」
売り言葉に買い言葉を返したことで、遥と羽月の口喧嘩は白熱していく。
うたかは羽月の頭越しに、厳しい顔の先生が近づいて来る姿を見つけた。
これは不味いと、うたかは横を盗み見た。残念ながら背の低い遥は先生の存在に気づいていないようだ。
うたかは遥の腕をそっと掴んだ。遥が意識を此方に向ける。
お口にチャック。うたかは目と口元の動きで訴えた。
遥は怪訝そうな顔をしたけれども、それ以降、口を噤んだ。
遥が口を挟まなくなっても、羽月の説教とも愚痴とも判別尽かない話は続いている。
「ちょっと。聞いてるの?」
羽月が漸く反応を示さなくなった遥を訝しんだときにはもう手遅れだった。
先生は、羽月のすぐ後ろに居る。
「羽月ちゃん」
急に呼び掛けられ、羽月は肩を跳ねさせた。
「ひゃい!」
羽月は裏返った声で返事をして、前を向き直った。
「元気なお返事ね。仲がいいことは喜ばしいことだけど、今はお口にチャックよ」
「すみません」
ニッコリ怖い笑顔を浮かべた先生へ、羽月は蚊の鳴くような声で謝った。
俯く羽月の後ろで、うたかと遥は顔を見合わせて声を出さず笑った。
「さて、皆さん。お口を閉じたまま聞いてね」
先生が卒園生たちの注目を集める。
「みんなのお友達がお腹を痛くして、お部屋で休んでいます。他にお腹が痛い子や、お熱が出た子はいませんか?」
先生がぐるりと辺りを見回すけれども、卒園生たちは約束を守って口を噤んだまま首を横に振った。
「分かりました。これからリハーサルの通り、式が進みます。その前におトイレに行きたい子はいませんか?」
この質問にも首を縦に振る子どもはいなかった。
「では先生は前に戻ります。でもリハーサルの通り、お喋りは駄目ですよ」
先生の言葉は明らかに羽月たちに向けられたものだった。
先生が本来いるべき場所に戻っていく。時を置かずして列も進み始めた。
羽月は一瞬だけ後ろを振り返り、涙で潤んだ瞳でうたかと遥を睨んだ。
羽月が先に体育館に入り、いよいようたかと遥の入場する番がやって来た。
二人はリハーサルの通り定められた位置まで進み出て、息の合ったお辞儀をした。
決まった道筋を通り、椅子に座る。
総勢八十三名の卒園生のうち八十二名が無事席に着いた。
その後は滞りなく卒園式が進んでいく。
卒園証書授与……園長先生の挨拶……父母会会長挨拶……。
そして、在園生の送る言葉。
すすり泣く声があちらこちらから聞こえるけれども、うたかは心の中で首を傾げた。
小学校、すぐ隣なんだけどな。
「プログラムにはありませんが、卒園生たちの希望により在園生へプレゼントがあります」
サプライズプレゼントと銘打って、兎のような二つ結いの髪型をした陰の人気者、卯城令子が卒園生たちの代表として、可愛らしい筒を抱えて在園生たちの前へ進み出る。
いきなりのことに事前に知らされてなかった在園生たちは驚き、期待に満ちた表情を浮かべた。
だが、中身自体はたいしたものではない。卒園生が在園生を描いた似顔絵だ。人数の比率的に卒園生一人が在園生二人か三人分を描いた。お絵描きが好きな子どもは嬉々として取り組んでいたが、そうでない子は二枚目三枚目になると飽きてしまい質が落ちていた。
ちなみにうたかは前者だ。とある人物に助力してもらいながら描いた似顔絵は、我ながら感心する出来栄えだったと思っている。
先ほど送る言葉を読み上げた在園生が、令子から似顔絵の入った可愛い筒を受け取る。
「これからは、みっくんがみんなのお兄ちゃんとして頑張るんだよ」
令子の言葉を聞き、改めて別れを意識したのか、在園生は涙を流しながら肯いた。
みっくんと呼ばれた男の子が流した涙には、悲しさ以外に切なさも含まれているだろう。
それと言うのも、少々人見知りで特定の人としか仲良くしない遥や勝気な羽月と異なって、優しげなお姉さんの令子は年少の子どもたちに絶大な人気を誇っていたからだ。
よくよく見れば、みっくん以外にも泣いている男の子は多数存在している。
六才児ながら令子は罪作りな女の子である。
令子が席に戻り、式は今度こそ終わりを告げる。
卒園生たちが退場する間、体育館に鳴り止まない拍手が反響した。