教会の鐘
大きな何かに引っ張られて、虹色の光から逃れた。目の前にあった桜井由香の笑顔は頬を赤く染めていた。
次の瞬間、裕也はまた部屋に居た。
知らない部屋ではない。
暗がりでまだ目が慣れないが、視界の端々に映る家具の配置が居場所を認識させる。
ピンクのカーテン、ベッド、勉強机。なんら変わらない配置と景色は先程と同じ部屋だと教えてくれていた。
一瞬光に包まれて暗くなっただけかとも思ったが、さっきまで目の前に居たはずの桜井由香が居ない。
そして鼻を刺激する甘い蜜乳のような匂い。男の本能で感じる淡い刺激。むせ返りそうなほど部屋に充満して、過去からずっとこの部屋にはあった匂いだと、裕也に現実世界を突き付けた。
ベッドに視線を投げる。
ピンクハートの毛布に包まるように眠るのは、現実の少女、桜井由香に間違いない。
裕也は息を呑んだ。
声を出してはならない。
物音をさせてはならない。
起こしてはならない。
絶対に見られてはならない。
冷や汗で背中に悪寒が走る。
大人の解釈論ならば不法侵入なのだろうが、少年の解釈で言うならば、
『これじゃあ僕は変質者じゃないか!』
と、なるようだ。
硬直状態から忍び足状態に移行した裕也の顔をいきなり覗きこむ白兎。
「どうしたんですかミスター?」
「!!??」
変わらない音量に悶絶する。
「何かのダンスですかモガモガモガ」
慌ててウサギの口を両手で塞ぐ少年。口と同時に鼻も塞いでしまって苦しむ白兎。
さらに、
「こら〜!やっぱり‘夢渡り’が遊んでやがったな!」
声が投げかけられる。
裕也くんは怒られて思わず硬直。
クレイバーは解放されて一命を取り留める。
本棚に並ぶ少女マンガの陰から声の主が姿を現す。
赤いとんがり帽子を被り、何処かの国のカンフーっぽい衣装に日焼けした浅黒い肌、黒い髪、赤い瞳。そして手の平サイズの身の丈。
その背中には身長に釣り合わない、同じくらいのサイズの、彼には大きそうな剣を背負っていた。
「お前らのせいで大変な目にあったんだぞ!」
小さな男の子は本棚から身軽にジャンプして、勉強机の上に着地する。
「……!?」
その声と姿と二重に驚いて口をパクパクさせる裕也に、白兎が言う。
「普通に喋っても彼女は起きませんよ。私達は夢の世界の魔法を継続してますから」
「……こ、こここ、小人だ」
裕也がやっと言葉を発した。すごくぎこちなかった。
対してクレイバーは冷静に紹介した。
「彼は夢防人。外側から夢を守る戦士の一族です」
紹介をされた夢防人の小人は胸を張り、腰に手を当てながら裕也達を見上げる。
「いいかよく聞け!この女の子はいい夢をたくさん見る上玉だ!いつもなら一人でも余裕なんだ、それをお前達が余計な事しやがるからブクブクとデカくなっちまって、おかげでわらわらいっっぱい湧いてくるわ、仲間を呼ぶ羽目になるわ……!」
「ブクブク?」
裕也は何の事か合点がいかずに、由香の寝顔を振り返る。ベッドの中のクラスメイトは先ほどと変わらず安眠を貪り続けているが、別段太った様子はない。
クレイバーが裕也に言う。
「夢を見ている時に、夢の力が結晶化するんですよ。小さなボールみたいに。夢の内容によって変化しますが、力が強いとそれが大きくなり過ぎてしまう」
「へぇー、それでブクブク。由香ちゃんが太ったのかと」
「違うわい!」
小人にツっこまれた。
「もともと夢を見る時間は短いですからね。結晶化するのも稀ですし、そんなに大きくなりません」
「僕のせい?」
「ユカ様が抱くミスターへの愛が強かったのも原因ですが、自己の欲求と愛情表現は欲望と紙一重ですからね。いい夢になればまだいいのですが、欲望が強く出ればそれはいい夢とは呼べません。むしろ悪い方です」
「愛とか言われるとすっごく恥ずかしいんだけど、いい夢にする必要があったから僕にあんな事言わせたのかっ!」
「ミスターも本心でしょう。まんざらでもなかったくせに」
「うるさい!」
「こら巨人ども、お取り込みのとこ悪いんだが、用が済んだら出てってくれないか?まだその辺に【ヤツら】が潜んでるし、このお嬢さんがさっきの夢の続きを見る可能性もあるんだ」
「やつら?ってさっきクレイバーも言ってた……!?」
「結晶をエサにして食べる悪いヤツらで……」
そこまで言って、三人の視線が緊張感と共に由香の寝顔へと集まる。予感ともいえる兆しだ。
キ……ィィン
小人の持つ剣から甲高い音が響き、それと同時に由香の寝ている頭上に光が集まっていく。
「……始まりましたね」
クレイバーの冷静な声に弾かれるように小人が机の上を駆け出す。
「お前らさっさと消えろよ!これを狙ってさっき逃げた連中が戻って来るぞ!」
「行きましょうミスター」
「何処へ?」
「ああ、そうでした。もしもし?夢鏡が見たいんですが【ミカガミの姫】はどちらに?」
白兎が小人に尋ねる。
勉強机の天板は裕也達からすればさほど大きくないが、小人にとっては体格の何十倍ものスペースだ。走り出してからさほど距離は稼げておらず、ようやく辿り着いた机の角で振り返りながら小人が答える。
「ひめぇ?……サリィならたぶん教会だ。用があるならどっかの水たまりで呼べるだろ!ついでにありゃあ姫じゃねえ、ババアだ」
言うと小人は背中の剣を抜いて机から身を躍らせた。
空中で叫ぶ。
「ジン!モーリス!さっさと出てきて手伝え!ベッドの下に一匹来てる!」
すると先程赤帽子の小人が出てきた本棚の同じ場所から、二人の小人が現れた。
「待って!レン、今そっちに行く!」
青い帽子を被って大きな弓を背負った青い服の男の子と、
「ゴミ箱の影に小さいのが一匹居るわ!ジンはそっちを相手して!私がレンの援護するから!」
黄色いワンピースを着た、緑色の長い髪の女小人。
小さな身体とは思えないジャンプ力で空中を舞い、床に置いてあったクッションやカエルのぬいぐるみに着地して、すぐさま走る。
先行して駆ける赤小人のレンは、ベッドの脚にまとわりつく影、丸く蠢く闇の塊に剣を向けた。ソフトボール程のサイズのそれは、濡れた毛糸を丸めたように表面が波打ち、垣間見える触手が足と腕の役割を担って居るようだ。
「さぁ、ミスターユウヤ、ここは彼等に任せて行きますよ」
白兎の声に裕也がうなずく。差し出された白いふかふかした手を取る。クレイバーは部屋のピンクカーテンを掴むと大きく広げるように舞わせた。カーテンが白兎と少年を包み込むようにして呑み込むと、部屋には小人達の三つの声と、少女の寝息一つだけが残された。
純白の空間に裕也は居た。
上下左右は学校の教室のような広さでいて奥の壁が果てしなく遠く、最果てが見えない。
先程まで居た生活感溢れる少女の部屋は面影もなく、色彩も匂いまでも失って、眼前にただ白が広がっていた。
「ここはどこ?」
裕也が尋ねる。この状況に案内したクレイバーは当然のように答える。
「夢の中ですよ」
微笑すら浮かべて。
「誰の夢の中なの?真っ白で何もないよ?」
「そうでもありませんよ、ほらあそこ」
遠くに揺らめく蜃気楼のように、白銀のドレスが浮かび上がる。頭から被ったケープが顔を隠し、その表情は読み取れなかったが、その人物は裕也を一直線に見つめながら純白の中に溶け込んでいた。
「……由香ちゃんが、お嫁さんの服を着てる」
「ウェディングドレス、よくお似合いですね」
「じゃあここは由香ちゃんの夢?」
「そうです」
「どうして何も無いの?」
ーーさっきの部屋は何処へ行ったの?
「お家ばかりが夢の舞台ではありませんよ。学校や会社もね。そして過去や現在だけが夢見る時間でもありません」
「……どういうこと?」
「これはまだ見ぬ未来を夢見ているのです」
「将来何になりたいかって事?」
「そうです。お嫁さんになりたい。サッカー選手になりたい。野球選手、料理人もいいでしょう。未来に向かって決めた夢。他の事はわからない、だから真っ白。でもその中に決めた夢が一つある」
「由香ちゃんの夢はお嫁さんなんだね」
「そうですね。ミスターユウヤのお嫁さん、ですね」
先程の自分のセリフを思い出して、裕也は顔を赤らめた。
「……おや、顔が赤いですよ」
「うるさいなぁ」
「ミスターユウヤ、あの花嫁の姿は、実はミス・ユカだけのものではありません。ここを今からもう一人の夢と繋ぎます」
するとクレイバーはポケットから白いハンカチを取り出して広げ、端と端とを結び合わせて輪を作る。それをゆっくり足元に置くと、そのハンカチの輪を中心に、世界がカタチを取り戻すように広がり還る。起伏し、色付き、音が生まれ、匂いが風に流れた。
足元は赤く長い絨毯が伸び、背後に豪華な扉が現れ、左右にはいくつもの長い椅子が、正面に一段高くなった祭壇を置き、ステンドグラスの色彩が太陽の光を和らげて随所に差し込む。
祭壇の上には純白の花嫁が立ち、それを何人ものシスターが歌う讃美歌が包んだ。
花と木の匂い、長い椅子に人陰が並び始めると、二人の正装した夫婦が花嫁の傍らに起立する。
クレイバーはよく響く建物内で、なるべく静かに告げた。
「今繋がりました。これがミス・ユカのお母様の夢です」
教会の鐘が予想外に大きく鳴り響くのを裕也は少しも不快に感じなかった。