涙の海
白い指先を向けられた三日月は、照れるように桃色に染まり、細いカラダを一瞬にしてふくらませ蒸気を上げながら満月に変わる。 裕也がそれに歓喜の笑みを見せると、月は照れながらくるりと一回転して豊満なウエストをぷりぷりと振ってみせた。
白兎と少年を乗せた雲塊は翼の生えた白馬のように姿を変えながら空を駆ける。夜闇に乱雑とそびえる高層ビルや鉄塔を縫いながら、時折高く咆哮を上げ、風をまとい、小さな雲を蹴散らしていった。
「まずはあれに見える扉から参りましょう」
クレイバーが声を上げ、ビル群の中に埋もれる一画を指し示す。赤茶色に灼けたレンガ作りの外観、幾つもの窓とドアが整列している。近代的な構造に外からレンガをあしらったマンションのようだ。裕也は白馬の背中にしがみつき、その建物が何かを確かめていた。
「僕のウチだ!」
見る間に近づくマンションのドア。それはまさしく裕也が暮らす見慣れた扉であった。
「おや、さようでしたか。ではおじゃまします。」
「え?カギがないよ」
「カギがないとは無用心な」
裕也の言葉に呆れた白兎。
雲馬はドアの前にひらりと舞い降り、その背中から荷を降ろすと空に駆け上がりまた雲に戻って流れた。
荷物のひとつ白兎のクレイバーは黒い扉を軽くノック。
「最近の扉はカギも装飾もないのですね。実にシンプルだ」
そして無造作にドアを開ける。
「あれ、開いてた?」
ドアノブに目を向ける裕也は、いつもそこにあるはずのカギ穴が消えている事に気付いた。まるでドアノブを交換したかのように。だがそれを握ってみると、いつもと同じ感触が手のひらから腕に伝わる。
「さぁ、入りましょう」
ウサギが中から手招きした。
自分の家なのに手招きされて不思議な感覚を味わいながら、裕也はドアを閉めた。
いつものように靴を脱いでスリッパに履き替えようとした所で、自分が裸足だった事に気付く。病室から飛んで来たのだから当然だ。靴を脱ぐ動作はあきらめてスリッパだけを突っかける。
玄関から細く伸びる廊下を突き当たると、左手にリビングへのガラス戸がある。白兎がそのドアを開けようとして、一瞬ためらい裕也を振り返った。
「どうぞ、開けて下さいミスター」
振り返った眉根が寄っているのを見ると、住人を優先したわけではなさそうだが、促されて裕也はドアノブに手をかける。その背後で白兎の表情が若干引きつっている気がした。
ガチャリ、ドアを開ける。
10畳程の広間、中央に小さなテーブル。それを囲うようにソファが並び、正面にはテレビが陣取る。
奥まった場所にダイニングテーブルとキッチン、裕也が見慣れた部屋がそのまま……
「にゃーん」
……
……
猫が居る。
「にゃーん」「にゃーぁん」「にゃにゃーん」「にゃにゃーぁん」…
いっぱい居る。
黒いの白いのトラぶちシャムマンチカンわらわらわらわらわらわらわらわらわらわニャンニャンにゃんにゃかお祭り騒ぎだ。
裕也があっけにとられながらも、その愛らしい小動物に微笑んだ背中で、クレイバーが尋ねる。
「お母様は猫がお好きなんですか?」
「うん。好きだよ。一軒家じゃないから飼えなくて残念がってる。けどこんなに沢山飼うつもりだったのかな」
「さて、それにしても足の踏み場もないとはこの事。ニオイはまだしも騒がしいですね!」
ドアを開ける手前で察知したであろうクレイバーは部屋の片隅でイラ立った声を上げた。裕也から見れば猫の群れに戯れるデカイ白兎なので、微笑ましい限りなのだが。
長い耳を折って両手で押さえながらクレイバーは鼻をヒクヒクさせ、何故か楽しそうに笑う裕也に不機嫌な声を投げる。
「ミスターユウヤ、一つお願いがあるのですがね、あそこにある時計をもう少し遠ざけて頂きたいのです」
リビングにある小さな本棚、その上に置かれた金属製の置時計を指差す。
裕也が足元に擦り寄る猫達を踏まないように近付き、置時計を手に取りながら尋ねる。
「よっぽど時計が苦手なんだね」
「夢世界において、天敵ですよ、て・ん・て・き!」
白兎はアカンベーして見せた。
裕也が時計の盤面を見ると、病室で見たのと同じように、針が通常とはかなり早いスピードでクルクル回り、せわしなくそこを走る小さな人影があった。
「あ、お父さんだ!」
秒針、分針、回転しながら迫り来る針達。それを避けながら走るリクルートスーツを着た小さな男性の姿。
「おお、時間に追われていらっしゃる。哀れな……」
白兎が首を軽く振った。
「時間に捕らわれ、時間に追われる。こんなに哀れな事はない」
「ねぇ、助けてあげてクレイバー!」
「私と同じように時計を止めてあげればよろしいかと」
裕也の訴えに白兎が猫を撫でながら答えた。すぐに時計を裏返し、電池を引っこ抜く。時計を表返すと父親の姿は消え、止まった針が残っていた。裕也は周りを見る。すぐ近くに父親が現れると思ったのだが、リビングにもキッチンにも、その姿は無かった。
「お父さん何処に行っちゃったんだろう」
裕也の問いにわずかな不安が含まれる。
「働いてらっしゃる大人は会社で缶詰めか、鳥かごに飼われているのがほとんどです。何故かみなさん狭い場所がお好きのようで。不思議ですねぇ」
白兎が肩と腕に三毛猫を2匹乗せながら言った。缶詰めや鳥かごの意味はよく分からなかったが、その落ち着きのある言葉が裕也の不安を少しやわらげる。
「そう言えばお母さんは何処だろう?」
「さて、他のお部屋を覗いてみましょうか」
言うとクレイバーはいそいそとリビングを出て行った。慌てて後を追う裕也。
特に広いということもないので、リビングを出たすぐの廊下で、白兎の尻尾を捕まえた。
白くて丸いフカフカを掴むと、クレイバーは一瞬眉を上げて振り返る。
「こちらで宜しいのですかね」
廊下に面した一室の、引戸の前でノック体勢をしつつ尋ねる。住人の許可を得るのはいいが、どうも遠慮は見当たらない。
裕也がうなずきを返す。
「お母さんとお父さんが寝てる部屋だよ」
「では開けます」
トントン、ガラリと今度は譲る様子もなく開け放つ白兎。ノックは型式的な物だとこの時理解した。
入口に立つクレイバーの脇から裕也が顔を出す。部屋を覗き込む裕也の眼前を、有るはずのない水槽が邪魔をした。水族館の展示のような、水の壁だ。
「海の中みたいだ」
呟く。
水壁は部屋の扉に沿って垂直に満ち、透明感のあるゆらぎを持って部屋を覆い尽くす。ガラス板があるわけでもなく、水壁は重力を無視して部屋を満たしていた。
水槽の中、透明感を見渡すと、畳とタンス、和室に敷かれた布団が二つ。水の浮力を無視して、並んでいるのが見える。そしてその中央、
「お母さん、……泣いてるの?」
部屋の真ん中でポツリと座り込む背中に、裕也は問いかけた。
後ろでまとめただけの髪、薄い化粧、質素な服、病室で眠っていた服装と姿そのままに、母・美代子は座り込む。背中を幾分丸くして力なく虚空を見る姿は今にも消えてしまいそうなロウソクのようだった。
裕也が問いかけた声に、ゆっくりと振り向く。
両の瞳から涙を流しては、周りの水槽に注ぎ込む。いや、今では水槽のゆらぎそのものだ。
「お母さん?」
裕也は再び呼んだ。
美代子は自分の息子の姿をその目に捉えると、優しい笑顔を見せる。
揺らぐ景色の中で確かに目が合う。
「裕也、ごめんね」
水の中から震えた声が届いた。
美代子は座り込んだまま両腕を開き、裕也を招いた。
「こっちにおいで、裕也」
水の中で確かに聞こえる母の声に、裕也は手を伸ばす。
そばに行きたい。でも行けるのだろうか?その疑問が目の前の水壁に触れる。
空間を埋め尽くす悲しみの海は、裕也の右手に触れると大きくうねり、崩れ落ちる。
重力を思い出したかのように入口から廊下に大量の波を作り、玄関に向かって押し流れ始めた。その流れは開け放したリビングのドアにも侵入し、中から猫の慌てた声が誘発される。
「ごめんね、裕也……ごめんね」
繰り返す母親に、裕也が歩を進める。
まだ涙は部屋から流れ切ってはいなかったが、それは衣服を濡らすものではなく、部屋の壁も天井も家具もそのままに、跡形もなく流れていった。
裕也が母の膝元まで近付くと、待ちきれない様子で美代子は裕也を抱きしめた。
「ごめんね、痛いね、痛かったね」
呪文のように繰り返す母の胸に顔を埋める。確かに柔らかく、暖かい。
「別にお母さんは悪くないよ。車が突っ込んで来たのが悪いんだし」
裕也の言葉に、首を振る美代子。
「お母さん何にも出来ないから、何にもしてあげられないから。私が代わってあげられたらいいんだけど……ごめんね」
母の抱きしめる腕が強くなった。
母の細い両腕は少し痛かったが、けして気分を害するものではなく、むしろ心地よい。そして母の胸元はいい匂いがして照れくさかった。
顔がますます胸に触れると、裕也は自分に巻かれた包帯とケガの存在を改めて思い出した。
そして同時に、新しい友達の白い兎の存在と、何をしに来たのかを。
「お母さん、チョット出かけてくるね」
裕也は母の胸から顔を引っぺがして言った。
母は少し疑問顔で裕也を見る。
「あら、お出かけ?寝てなくていいの?」
「大丈夫だよ。友達も来てるし、すぐ帰るから」
裕也はまだ部屋の入口でたたずんでいる、幾分おおきな白い兎を振り返る。
「あら、お友達?裕也ってば変わったお友達が居るのね」
右手を胸に当て、英国を思わせる立ち振る舞いで会釈する。二本足を交差させて立ち、モダンダンスの始まりのような、貴賓ある会釈をして見せる白い兎は、何も言わなかったがルビーのように赤い両眼を数回ぱちくりさせて二人を見つめた。
裕也はニッコリ笑いながら母の腕を離れる。
数歩、振り返る。
「いってきまーす」
「ご飯までには帰るのよー」
「はーい」
裕也は小走りに駆けた。
白兎の横をすり抜けて部屋から飛び出すと玄関に向かって足を向ける。
白兎が後を追う。
さっきまで水が流れていたはずの畳も廊下の床も乾いており、一滴の雫も見当たらなかった。ただ一つ、母の足元に置かれたマクラだけがしっとりと濡れていたのだが、軽快にスリッパを脱ぎ捨て運動靴に履き替える裕也に、それを知る事は出来なかった。
「行こうクレイバー!」
「何処へなりとご案内しましょう」
「夢鏡が見たい」
「了解しました。ドアを開けたらジャンプして下さい、次の夢へと跳びます」
「こうかっ!?」
開け放つ玄関の扉を出ると、夜闇のビル群が広がる街に向かってマンションの廊下を蹴る。安全柵を跳び越えて二人は夜空に躍り上がった。
丸い月はそれを静かに見ていた。