深夜の案内人
裕也は目が覚めた。
暗い病室。手近に時間を知る術は見当たらなかったが真夜中なのは間違いない。
窓の外は暗く、部屋の中を月明かりだけが照らしている。
薄暗い病室のなか、静かに、小さな冷蔵庫が作動音を上げて、自らの存在を囁いて……
ふと、
その音が止む。
違和感を覚える。
包帯のない片目からの景色が、眠涙で霞む。
……揺れている……
裕也は感じた。
地震とは違う、異質な揺れだ。
周りを見回す。
景色が歪む。傍らに簡易ベッドで眠る母の姿があった。
ゆっくりと、
ベッドの真下に、
あった。
「なんだ、コレ……?」
自分のベッドの下に母の姿がある。身を乗りだし、下を見下ろす。
揺れる世界、歪む景色。寝ぼけた頭で理解できたのは、
「飛んでる……」
空中に浮かぶ自らのベッドだった。
裕也はさほど動揺しなかった。空中に浮いたカラダとベッド、充分異常事態なのだが、少年のとった行動といえば、軽く伸びをした後……ぽかりと大きなあくびをひとつ。
そして一言、
「どうやって降りようかなぁ?」
……
なんとも悠長である。
ベッドから下を見渡す、静かに寝息を立てている母の姿。
に、向かって声を投げようとした……その時、
「せっかく……お休みになっていらっしゃるのを……起こすのも、どうかと思いますよ」
途切れ途切れに微かな声が、どこからか投げられた。少年に向かって。
少年はひゃっと驚いてすぐ部屋を見回す。
驚き開いた口をきゅっと結び、<誰か>に悟られないように口元を手で隠しながら……
……
……誰も、居ない。
不思議に思う彼の背中で、目覚まし時計が宙を流れていた。
それはコツンと少年の頭を叩く。
裕也は振り仰ぐと共に振り向き、それを手に取る。普段は枕元のサイドテーブルに置かれている物だ。赤いプラスチックの外身に覆われ、人気の漫画が文字盤に描かれている。
少年は何気なくその文字盤を見て目を丸くした。
白地に緑の蛍光文字。十二の数字と、
見慣れた秒針達、
……に、追われた……
「あの、ちょっとすいません、この針を……止めていただけませんか??」
……兎が一羽。
明らかにいつもより速いスピードで、くるくると三本の針がめまぐるしく回転している中、
小さな白兎が黒いタキシードを着て、
トコトコと針に追われるように走って居た。
時には短針を飛び越し、時には秒針の下を潜って。
「あのっ、ちょっと、聞いてっ、ますか?」
器用に避けながらこちらに話かけて来る。どうやら先程の声の主に間違いないようだ。
少年はすぐさま浮かぶ時計を掴んで裏返すと、針のマークがついたツマミをぐりぐり動かした。
「うわぁっ!いきなり変な動きっっ、ぐわっ!」
小さな悲鳴と共に、何かに当たって倒れる音がした。
「あれ!?ごめんなさいっ……電池かなぁ?」
裕也は手早く、今度は電池ケースの蓋を外し、中から細い乾電池を二本取り出した。
そして針が止まった事を確認する。
「あ、止まった」
そして彼がいない事を確認する。
「あ、いない」
「あ、いない、じゃないですよ!」
下から声がした。
いつの間に出たのか、空飛ぶベッドの下に、タキシード姿の兎が……後頭部に手をあて、少し機嫌悪そうに見上げている。
「ごめん、わざとじゃないんだ」
「わかってますよ!ただ毎回こうも同じ事されるといい加減ガマンも出来なくなってくるんです!」
どうやら一度や二度ではないらしい。
白兎はタキシードのホコリを払い、内ポケットから取り出したクシで毛並みとヒゲを整えた。
クシを胸元へササッと戻し、襟と耳を正すとさも満足そうにふふんと鼻を鳴らした。
そんな彼に裕也。
「あの、降ろして欲しいんだけど……」
言葉に反応して、彼は思い出したように、
「ああ、これは気付きませんで。私のようなあちらの住人が来ると皆さん興奮するようで……」
「興奮?」
「いわゆる、浮足立っていらっしゃるわけです」
言うと、彼は右手をさっと上げた。
それを合図に空中に浮いていた数々の物たちが、元あった場所へと戻る。
ベッドも音もなく、床へと。
裕也はベッドから降りて彼の前に立つ。
「初めまして。菊地裕也です」
深々と頭を下げる。
白兎の身長は時計の中に居た時よりもはるかに大きくなっており、その目は少年の胸の高さに。耳をピンと伸ばせば少年と同じくらいの身の丈がある。
白い兎は長い前歯をキラリと見せて満足そうに笑った。
「初めまして。礼儀正しい子は大好きです。皆さんが浮足立つ中、あなたは慌てる事なく平静を保った。合格ですよ」
「お姉ちゃんが何が起きてもびっくりしちゃだめって」
「そうです。こちらの世界では異常でもあちらの世界ではごく普通な事、驚くのは仕方ないのかもしれませんが、時には失礼に当たる事もありますから」
白兎がタキシードを着て立って歩き、話をしても、彼にとっては当たり前な事だと言う。なるほど、それを驚いては失礼にもなろう。
「どなたから紹介を受けたかは存じませんが、余程熟知された方からのようですね。安心しましたよ」
彼は白いふかふかした手で、ほっと胸をなで下ろした。
「あなたの事も聞いたよ。名前は確か……」
裕也は昼間の、まだ新しい記憶を辿る。
「うさおさん。」
兎は崩れ落ちた。
「ちがいますっ!」
裕也は驚き顔のまま、
「えっ?〈タキシードうさお〉じゃないの?」
「全っ然ちがいます!!」
「ピッタリそのままだったからすぐわかったのに……」
「そのまますぎるでしょう!あ、その安直な呼び方には覚えがあるミス・ヒイラギの紹介ですね!?まったくあの娘はっっ!!」
立ち上がりつつ、彼は再度襟と耳を正した。
「私の名はクレイバー。夢世界の住人にて、夢渡りの案内者……以後お間違いなきよう!」
語気を強め、ふふんと鼻を鳴らした。
裕也は少し気押されながら頷きを返す。
「わかったよ。よろしく、クレイバー」
裕也はクレイバーと名乗った白兎と握手を交わすと、母親の方に近付く。
母は片目に涙の跡を残し、まだ眠りについている。
裕也が母を起こそうとすると、クレイバーがそっと止めた。
「お母様はそのままで。丁度良いタイミングでいらっしゃる」
「お母さん僕がケガしてから、毎日泣いてるんだ」
「御心配なのでしょう。親とはいつの時代でも、そういうモノです。では出発の際に、一言ご挨拶をして行きましょうか。ミスターユウヤ、こちらをお持ち下さい」
言うとクレイバーはふかふかの手で、一つの貝殻を手渡した。
雫型で丸みがあり、二枚殻の口は固く閉ざされ、表面は薄いピンク色と乳白色が混ざり合いキラキラと光っている。
「夢渡りの通行証のような物だと思って下さい。肌身離さず持って、決して無くさないこと。危なくなった時はこれを壊せば元の世界に戻れます」
「うん、わかったよ」
「もしも、無くした場合は夢の世界に取り残され、二度と戻れませんので、そのつもりで」
クレイバーは強い口調で静かに言うと、裕也の手を取った。
「わかった」
裕也が口元を固く締め、うなずく。
クレイバーが白いふわふわの指先を高く掲げ、パチンと鳴らした。
「では参りましょう。まずは母君の夢の中へ」
再び裕也の身体を浮遊感が包む。
次の瞬間に七色の光りが弾け、視界一面を桜色に染めた。
空間に流れる桜色は花びらの渦となって逆巻き、裕也の身体を飲み込む。
「カイをしっかりと握って漕ぎ出しなさい。恐れず、流れを受け入れて飛び越えるのです」
頭の上からクレイバーの声がした。
裕也は右手に握り締めた貝殻に力を込め、花びらの渦に向かって突き入れた。
するとふわりと身体が浮き上がり、ピンクの渦は水面のように波を打つ。裕也の身体は花びらの中を舞うようにポンと浮かび上がった。
「クレイバー!」
「上手ですよミスター!さぁ、次はジャンプしますよ、おもいきりけって!」
裕也は自分の頭上にふわりと浮かぶ白兎の背中に向かって手を伸ばし、桜色の水面を蹴った。
高く、高く踊り上がった身体はピンクの波を飛び越え、青い夜空を突き抜けた。
星が無数に広がり、遠くに見える三日月は赤や紫に色を変える。
眼下にはビルが建ち並び、都会的な風景がキラキラと光っていた。
「お見ごと!」
伸ばした腕を、白兎が掴む。
「あの雲に乗りましょう」
目の前に流れて来た馬……の形をした真っ白い雲に、裕也とクレイバーは跳び乗った。
「ここは夢の世界なの?」
裕也が尋ねると、白兎は鼻をフフンと鳴らし、
「さぁて?考えた事もありません。お母様の夢の前、もしくはずっと奥の方かと」
「お母さんが見てる夢?」
「まだ、中ではありませんよ。外と呼ぶのがよろしいのでは?」
クレイバーは遠くを指さす。
「月が出ていますから」