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病める月の城壁

作者: 壱岐津 礼

 そのころ、太陽は赤黒くふくれ上がり、恵みをもたらさず。地もんで作物はしなび腐るばかりであった。人々は飢え、互いに生存を争ったが、やがて争うだけの力も失いたおれていった。耕す者の居なくなった土は一層衰え荒れ果てるばかりとなった。かろうじて生き延びた者達は、わずかに残った草木の生育の許された土地にしがみつき、不安なままに細々と生活を営んでいた。

 国というものはくなっていた。運命に見放された者たちは、かつての身分に関りなく虚しくなった。


 イーシュヴァラという城砦じょうさいが在った。

 元は他の都市、邑邑むらむらと同じく滅びを待つばかりであったところが、如何なる天のおぼしか。ある日人の姿をまとった鳥が舞い降りた。それより後、祝福されし土地に変じたと言う。残った邑々も日々荒れ地に侵食され消えてゆくのを他所目よそめに、イーシュヴァラは一層富み栄えた。栄華の噂は四方よもの彼方まで駆け巡り伝えられた。道中の危険もかえりみず、城砦の門戸もんこを叩く為に各地を旅立つ者も少なくはなかった。

 百年、そうして光輝に満ちた時は過ぎた。

 一人の旅人が、やはり炎に魅せられた羽虫さながら噂に引き寄せられて訪れた時のこと。見慣れぬものを見た。一人の青年が……城砦の生まれと思しい育ちの良さをにじませる若者であったが、城壁の門のかたわらにうずくまっていた。当人の風情ふぜいに似つかわしくないみすぼらしい着衣は殆ど用を為しておらず、剥き出しの肩や背中は邪悪な陽光にあぶられて既に痛ましいほど赤くれあがっていた。

 旅人の近付く気配に顔を上げた若者の唇は白く乾ききってひび割れていた。目のふちには歳不相応な深いしわが刻まれ、心痛の色が濃くかげを落していた。

 同情と、ようやく目的地に辿り着いた安堵あんどから、今まで大事に残してきた貴重な水を施そうと水筒を差し出すと、若者はてのひらを上げて旅人を制した。

 「いけません」

 ジャラリと鎖が鳴った。挙げられた手首には太い金属の枷がはめられ、鎖はそこから垂れ下がっていた。地をって城壁に繋がれているのであった。

 「私に水を与えると、あなたまで罰せられます」

 「どういうことだ」

 水筒を懐に戻し、若干じゃっかんは事情を理解したように覚えながらも旅人は訊ねた。

 「私はイーシュヴァラから放逐ほうちくされました。他の土地に行くことも許されておりません」

 自らをいましめる鎖を手にすくい取り、示して若者は言った。

 「罪人なのです。水を飲むことも、食をることも許されません。ここで陽にかれ飢えて乾いて死に至ることが罪のつぐないなのです」

 「どういうことだ」ニ度旅人は訊いた。

 「知りたいのですか」彼は傷ついた唇を笑みの形に歪めた。「いいでしょう。お話ししましょう」


 『鳥』は舞い降りてより百年、イーシュヴァラに留まっていた。城砦都市の中心に、その為にしつらえられた神殿に、その奥に、隠れんでいた。

 隠されていた。

 約一年をさかのぼった頃に、青年は『鳥』の身の回りの世話をおおせつかった。前任の者が病で身罷みまかった為である。

 『鳥』の世話にあたる者は親族共々神殿の中枢ちゅうすうに近い地位におり、また世俗の雑事に染まらぬ者が好ましいとされていた。そうやって何代にも渡って受け継がれてきたのである。青年は歳若いこともあって周囲には不安を唱える者も居たが、両親ともに身分は高く、神殿の秘密に通じていた上に青年の生真面目に過ぎるほどの誠実さが買われた。他に候補ががらなかったこともある。

 『鳥』はけがれをいとう。世俗の欲に汚れた者は近付くことができない。そして、イーシュヴァラは百年の繁栄を経て、爛熟らんじゅくを過ぎ腐敗の時代に入りつつあった。物欲。愛欲。権勢。美しく整備された街並みは、肉眼では見えぬそれら欲望の色に染められていた。物陰で、密室で、争いの種も密かに芽吹いていた。陰謀も。

 神殿の中枢院に属する者とて例外ではなかった。一人立ちした大人で『鳥』のそば近くに行ける者は実の所、皆無だったのである。

 『鳥』の住まいは四方ぐるりを噴水と堀に囲まれ、流れ絶えることなき清らかな水に守護されていた。白亜の重厚な建物であった。柱は太く天井は高く、壁には一面に繊細な装飾が、浮き彫りが施されていた。更に深部に踏み込むと白い絹のベールに幾重にも包まれた空間に突き当たる。中心には、天蓋てんがいそなえた、王侯もかくやと思われる豪奢ごうしゃな寝台な据えられている。その寝台の上、柔らかな寝具にくるまれて『鳥』は、日の半分以上を横たわって過ごしているのであった。

 『鳥』の姿は人とほとんど変わるところがない。、ただ、非常に端麗であり、ほっそりとした体躯は男とも女ともつかず、実際に性別は持たぬようであった。肌は透ける様に白く、髪もまた雪のごとき目も眩む純白。ひとみは、太陽が狂う以前の、かつての空がそうであったと伝えられる澄んだ青。

 白い絹さがながらの髪は百年間一度も刃物を触れさせもせず、伸び続けていた。広い寝台の上にも余り、こぼれ流れ落ち、白亜の床一面にまで広がっていた。

 青年の仕事は、日に二度、『鳥』の為に特別に清められた食物を運び、『鳥』の住処と『鳥』自身を常に清らかに保つことであった。

 責任は重く、仕事は手間の掛かるものばかりであったが、彼は己の職務を愛した。柔らかな白い髪を丹念にき、絡み合いもつれ合ったそれを解きほぐす作業は、彼にとって密かな楽しみでもあった。

 幸福な日々と言えた。

 ただ気がかりは、『鳥』弱々しさであった。

 一日の殆どを寝台から離れないわけは、虚弱さにあるようであった。『鳥』はしばしば体調を損なった。じっと身を横たえたまま、苦しげな、細い、短い間隔かんかくの息を吐きつづける日もまれではなかった。青年がどれほど神経を研ぎ澄まし眼を凝らして『鳥』の宮殿を磨き上げ、穢れを叩き出したとしても、知らぬうちに見えない悪しきものが入りこみ『鳥』に纏わりついて苦しめているかと思われた。

 もう一つ、彼の胸をえぐるもの。

 『鳥』の背中にはニつの大きな傷跡が有った。古い傷跡と見えた。肩甲骨けんこうこつのちょうど上あたりに肩から下に向かって走っていた。変色して、盛りあがり、引きり、ただれたようになっていた。全てにおいて美しい『鳥』の体の中で唯一ゆいつみにく箇所かしょだった。

 誰が傷つけたのか。イーシュヴァラで最も神聖な存在を?

 誰からも答えは与えられなかった。両親は口をにごした。中枢院の神官は警告を口にした。

 めったなことを訊くのではない。

 その問いは禁忌きんきだ。

 つのる疑惑に絶えかねて、ついに若者は『鳥』本人に問いただした。いったい何故、誰がその傷を付けたのか、と。

 『鳥』はいつものごとく寝具に埋もれ、細く短くあえいでいた。目をまたたき、問いを発した人間の若者をしばしはかるように眺めていた。やがて枕に顔を埋めるようにうつ伏せ、弱々しく応えた。

 「あなたがそれを訊くのですか」

 青年の問いに問いで返した。

 「私の苦しみを代償だいしょうとして、思う様、繁栄を享受きょうじゅしているあなたが?」


 「『鳥』がどうして『鳥』と呼ばれたか、その訳をご存知ですか」荒い息を吐きながら若者は旅人に、問うともなく問い掛けた。口を開く間も与えず、自身で答えた。

 「翼が有ったからですよ。ここに舞い降りた当時は」

 「それで、どうなったのだ」

 「私は『鳥』を愛していた」

 「それで……」

 「解放したのです。この穢れた地上から」

 若者の笑みは今や凶暴な様相を見せていた。限界まで見開かれた双眸そうぼうにはギラギラと燃える熾火おきびが、危険な輝きが宿っていた。

 旅人は懐の水筒を押さえて後じさった。

 「殺したのだな。イーシュヴァラの守護者を!」

 「生かし続けることが善だとお思いですか! 苦しみを長引かせることが!」

 「イーシュヴァラの民はどうなる?加護を失ったこの都市は?」 

 若者はカラカラと甲高く声をあげて笑い、叫んだ。

 「私は間もなくこの場で滅びて朽ち果てる! だが朽ちるのはこの城砦もだ!『鳥』の苦痛の上にやすんじていた者たちもだ!罪人は皆、裁かれる。罰を受けるのだ!相応な罰だ!」 

 旅人は更に数歩退き、己の歩んだ道を振り返り、イーシュヴァラの城壁とを見比べた。あこがれを抱いて訪れた壮麗そうれいな門を見上げた。

 長い時間立ち尽くし。 

 遂に、門をくぐる事は無かった。

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