1.出会い
フミが実家を出たのは、十五歳の時だ。
村の学校を卒業したばかりだった。
昔から料理人になろうと決めていたフミは、弟子入り先を探していた。
そんな折、年の離れた兄夫婦に三人目の子供が生まれた。
姪と部屋を共有することになったフミは、家を出ることに決めた。
そして、どうせ家を出るなら、異国に行ってみるのはどうだろうかと思いついた。
料理人になるなら、珍しい料理がいい。
誰も知らないような美味しい料理を研究して、自分のお店を開くなんて、素敵な考えじゃないだろうか。
フミは、家族の反対を押し切り、大陸行きの船に飛び乗った。
ちょうど三年前の話である。
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ドシンという大きな音で、フミは、目が覚めた。
地震だろうか。
いや、大陸に来てから、地震なんか一度も起きていない。
フミは、ぼんやりした頭を掻くと、むっくりと起きあがった。
窓の外は、普段と変わらない静かな闇が広がっている。
泥棒だろうか。
フミは、護身用の猟銃を片手に部屋を出た。
その約五分後、フミが壊れた納屋の奥で見つけたのは、一人の青年だった。
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ウィリアムの最後の記憶は、妹の泣き顔と赤い血だ。
怒りはない。
あるのは、ただ驚きだけだ。
どうして、こんなことになったのだろうか。
何を間違えたのだろうか。
分からない。
考えても分からない。
今は、ただ眠ろう。
死人のように。
それとも、ウィリアムは、死んだのだろうか。
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明るい光の中で、ウィリアムは、目が覚めた。
眩しい視界に一人の少女が立っている。黒い長髪を肩に垂らした女の子だ。
きっと東洋人。
天使は、東洋人だったのか。
ウィリアムは、ぼんやりした頭で思った。
その時、振り返った少女の目とウィリアムの目が合った。
黒い瞳だ。髪と同じ真っ黒。
「僕は、死んだのか」
ウィリアムは、掠れた声でたずねた。
フミは、呆れたような表情を浮かべた。
「あなたが死んでるなら、あたしだって生きちゃいないわよ」
フミは、トーストにマーマレードをたっぷり塗りながら答えた。
フミの言葉と腕に残る鈍い痛みで、ウィリアムは、自分が死んでいないことを悟った。
ついでにどこかの家の居間のソファーに寝ていることにも。
「何か飲む?」
フミは、食べかけのトーストをカップの上に置くと、ちらりとウィリアムの方を見た。
「水をくれ」
フミは、冷蔵庫からビンを取り出すと、ウィリアムに放って寄こした。
ウィリアムは、起きあがると、ビンをキャッチした。
冷たい水を飲むと、頭がいくらかすっきりしてきた。
悪夢のような記憶は、ほぼ完璧に覚えている。
しかし、どうしてここにいるのかは、どうしても思い出せない。
とりあえず、現状を確認すべきだ。
ウィリアムは、少女を眺めた。
どこにでもいるような東洋系の女の子だ。
ジーンズにチェックのロングスリーブシャツを着て、裸足だ。
年は、まだ、十四歳くらいだろう。
しっかりしているようだけれど、子供と話してもしょうがない。
「おうちの方はいるかな?」
ウィリアムは、先程より優しい声でたずねた。
怖がらせないように配慮したつもりだった。
ところが、少女は、安心するどころか、苛立たしげに眉をひそめた。
「保護者のこと言っているなら、いないわよ。ここは、あたしが一人で住んでいる家だもの」
ウィリアムは、少女の返答にかなり驚かされた。
「君、いくつ?」
「昨日で十八歳になったわ」
ウィリアムは、一瞬ポカンとした顔になった。
東洋人は、若く見える。
「失礼。もっと若く見えたから」
ウィリアムは、小さく咳払いすると、気を取り直して、質問した。
「ここは、どこで、僕は、どうして、ここに?」
フミは、黒い瞳でウィリアムを見下ろした。
「ここは、ロッククラウド。アレックスの郊外よ。あなたは、昨日の夜中に自転車でうちの納屋に突っ込んできたのよ。酔っぱらいだったら、叩きだそうと思ったんだけど、怪我をしていたから」
「それで、見知らぬ男を家に入れたの?」
フミは、大げさねと言った。
「寝室に鍵をかけたし、枕元に猟銃を置いておいたもの。それにほら、」
ソファーに近づいたフミは、何か細い針のようなものウィリアムの首に当てた。
「タジリ草の汁よ。これだけでは、毒はないけれど、アカネ科の植物と併用すると、一瞬で死にいたる猛毒になるの。ちなみに昨日、あなたの腕の傷を手当した時、殺菌のためにアカネ科のプロポンズを塗ったわ。あら、顔青いわよ」
少女は、にこにこしながら、ウィリアムの耳元で囁いた。
「君の身がいかに安全かよく分かったから、僕の身の安全も保障してくれないか。物凄く怖い」
横目で針の先を見つめがら、ウィリアムは上擦った声を出した。
手を離したフミは、くすりと笑った。
「脅すつもりは全然なかったんだけど、あなた、さっきから失礼なことばかり言うから、意地悪したくなっちゃったのよ」
「なかなか良い趣味だね」
ウィリアムがため息まじりに言うと、フミの笑い声は、大きくなった。
白いぷっくりとした頬がピンク色に染まって、目が糸のようになっている。
ウィリアムは、かわいい笑顔だなと思った。
妹のセーラも少し前まではこんな風に笑っていたはずなのに。
フミは、ウィリアムの顔色が変わったのに気がついた。
濃いブラウンの瞳は、どこか悲しげだった。
孤独なんだなとフミは、思った。
青年の腕は、銃で撃たれていた。
傷自体、大したものではなかったが、銃で撃たれるなんて、よっぽどのことだ。
「ねえ。あなたは、犯罪者なの?」
ウィリアムは、思わず苦笑いを浮かべた。
「まさか。ただの学生だよ。ほら、」
ウィリアムは、ジーパンのポケットから学生カードを取り出すと、フミに渡した。
フミは、カードに記されている内容を声に出して読んだ。
「ロークス国立大学。以下の者が本校の生徒であることを証明する。ウィリアム・レッドフィールド。国籍プルワ王国。一九六〇年生まれ。一九七八年入学。法学部二年。この写真、写りがいまいちね」
フミは、感想で締めくくると、ウィリアムにカードを返した。
「どう?僕が怪しい者じゃないと分かってもらえたかな」
「あなたが、ロークスカレッジの学生だから、犯罪者ではないということにはならないでしょう。先週だって、あの大学で麻薬の密売騒ぎが起きたじゃない。あなたが麻薬の密売人で、マフィアに追われているとしても、別に驚くべきことではないわ」
「疑いを晴らすことはできないってわけ?」
「そういうこと」
フミは、冷めたコーヒーを飲み干すと、立ちあがった。
「バイトに行くけど、あなたはどうする?傷は、一応、大丈夫そうだけど、もう少し寝ていれば?夕方までいるつもりなら、バイト先で交換用の包帯をもらってきてあげるけど」
「ありがとう。ところで、この家に新聞とかテレビはある?」
「新聞は取っていないわ。テレビもなし。バイト先なら、ラジオがあるけど」
リビングの椅子に座ったフミは、ウエスタンブーツに片足を突っ込みながら、返事をした。
「バイトって?」
「すぐ裏にあるオックス診療所の助手」
「僕も行ってもいいかな。ニュースを知りたいんだ」
フミは、「かまわないけど」と言いながら、肩をすくめた。
「あなたって、やっぱり犯罪者でしょう。ああ、そうだ。服は血がついていたから、水に浸けてあるわ。とりあえず、これを着て」
投げて寄こされた男物のロングTシャツを着たウィリアムは、ソファーの脇に置いてあった自分のブーツを履いた。
コートは、見当たらないから、洗濯中なのだろう。
「ホントに近くだから、コートも必要ないわ」
ウィリアムの思考に答えるようにフミの声が聞こえた。
「そういえば、君の名前は?」
「フミ。ファミリーネームは、キムラよ。」
木村文は、少し誇らしげに微笑んだ。
フミ
十八歳。東洋系の女の子。実家が薬屋だったので、薬に詳しい。大国ロークスの首都アレックスの郊外で一人暮らししている。首都のパティスリーで修業をしたいと願っているが、今のところは、近所のオックス診療所でアルバイトをしている。
ウィリアム
二十歳。ロークス国立大学の留学生。性格は、基本的に温厚で平和主義者。ロークス国内では、身分を隠しているが、小国プルワの皇太子。