↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

魔法の使用には神様の許可が必要です(読切版)

作者: 申請堂
掲載日:2026/10/01

一 不許可通知は十一枚


「魔法の使用には、神様の許可が必要です。」


 受付の神官は、もう何百回も言ってきたような平らな声で、レトの申請書を受け取った。

 振興会館の一階、コクドの小神殿の受付だった。レトがこの決まり文句を聞くのは、今日で十二回目になる。


 神官は申請書を台に置き、欄が埋まっているかだけを指でなぞって確かめた。中身には何も言わない。前に一度、どこが悪いのか聞いたら、「申請の内容についてはお答えできません」と同じ声で返された。


「申請者ご本人で、お間違いありませんか」

「わ、私が……いや、俺が本人です」

「受付いたしました。念のため、印鑑を」

「なんで印鑑がいるんだよ」


 神官はわずかに目を伏せた。


「……慣習です」


 レトは工具帯の脇から木の印鑑を出して、言われた所に押した。


 受付を出ると、吹き抜けの広間はいつもどおりがらんとしていた。高い天井に、立派な石の階段。二階の窓口はどれも板が打ちつけてあり、色あせた案内板には、もう誰もいない店の名前が並んでいる。町じゅうの神殿と店をここに集めるつもりで建てたらしいが、レトが物心ついたときには、もう半分閉まっていた。


 申請書の控えを鞄に押しこもうとして、一枚が指から抜けた。紙は床をすべって、廊下の向かいへ流れていった。

 その先の扉が開いた。


「落としましたよ」


 拾ったのは、レトと同じくらいの年の女だった。紺の長衣に白い襟、丸い眼鏡。手には色つきの付箋の束を持っている。開いた扉の札には「トセラ行政術士(ぎょうせいじゅつし)事務所」とあった。

 女は控えに目を落として、ほんの少し眉を寄せた。


「失礼ですが、ハイネさん。その書式では受理されません」

「もう出したって。受付はしてくれたじゃん」

「受付と受理は別です。……拝見しても?」


 返事をする間もなく、女はもう控えを読みはじめていた。眼鏡の奥の目が、一行ずつ下りていく。三行目の、欄からあふれた書き足しのところで、その目が止まった。


「それ、一生通らないわよ」


「は?」

「一生。百回出しても通らない。あんた、これ何回目?」

「……なんで分かるんだよ」

「読めば分かるでしょ、こんなの」


 レトは鞄の口を開けて、薄い封筒の束をつかみ出した。言い返すためだった。


「十二回目。前の十一回分が、これ」


 女は封筒の束を受け取り、手のひらで一度弾ませてから、扉を大きく開けた。


「入りなさい」


 事務所は狭かった。机が一つと、書類の棚が三つ。棚には色つきの付箋がびっしり貼られていて、どの段にも紙の背表紙が隙間なく詰まっている。

 女は机の上を片手で空けると、十一枚の不許可通知を一枚ずつ並べはじめた。どの通知の頭にも、天上府(てんじょうふ)の丸い印が押してある。十一枚目を置き終えたとき、机の端から端まで埋まった。

 眼鏡を押し上げて、しばらく黙ってそれを見下ろしていた。


「……全部違う理由で落ちるなんて、一種の才能でしょ」

「感心すんなよ」

「してない。呆れてるの」


 指が三枚目をたたいた。


「『元』がいつの時点か書いていない。あんた、どの状態へ戻すかの欄に『元どおり』って書いたでしょ」

「元どおりは元どおりだろ」

「いつの元? 積んだ日? 去年の秋? 百年前? 書いてなきゃ、神様だって決めようがないじゃないの」


 指が四枚目に移る。


「『いい感じに』は審査の基準にならない。……これ、本当に書いたの?」

「書いた。いい感じにするんだから」

「するのは分かったから」


 八枚目。


「所管がまたがる。『水路』って書いたでしょ。水まで入るから、コクド様だけじゃ決められない」

「水路は水路じゃん。水の流れてない水路なんか、ただの溝だろ」

「だから落ちたんでしょ」


 それから十枚目。


「使うマナの上限がない。どれだけ使うつもりか書かないと、どれだけでも使う人だと思われるでしょ」

「必要なぶんだけだって」

「その『必要なぶん』を数字で書きなさい」


 残りの七枚には、ざっと目を通しただけだった。


「それで、十二回目は、十一回分を全部反省して書き足したってわけ」


 女は控えを机の上で広げた。欄の中は、レトの書き足しで埋まっていた。元は、父が前に積み直したときの状態。いい感じに、とは書かず、水は含まない、石だけ。マナは必要なだけ、ただし多すぎない量。はみ出した字が、余白をまわって裏までつづいていた。


「何を許可してほしいのか、読んでも分からない」

「全部書いてあるだろ」

「全部書いてあるから分からないの」


 レトは口を開けたまま、言い返す言葉を探した。見つからなかった。


「……じゃあ、何て書けばいいんだよ」

「で、何を直したい?」

「水路の石」

「どこの、どの石」

「旧市街の、うちの工房の前の水路。北側の石積みの、上から三段目。冬に凍みて、そこだけ外にふくらんでる。叩くと音が濁るんだ。中で裏込めの土が流れてる。手で抜いたら崩れる。だから、そこだけ魔法で戻したい」


 話しているうちに、手が勝手に、机の角の継ぎ目をなぞっていた。

 女は、少しのあいだ黙ってレトを見ていた。

 それから机のペン立てから一本抜いて、控えの上にかがみこんだ。欄の外にあふれた書き足しに、一本ずつ線を引いていく。ペン先が紙をこする音だけが、狭い事務所に続いた。


「おい、何すんだよ」


 線を引き終えると、女は控えを二つに折って、レトに差し出した。


「出したあとの控えに引いても、遅いけど」


 レトは折られた控えを受け取り、女の胸元を見た。小さな資格章に、ミレア・トセラと名前が彫ってある。


「……あんた、神官?」

「行政術士です」

「役人?」

「行政術士です」


 ミレアは付箋を一枚はがして、通知の束に貼りつけた。


「申請の書類を作る仕事。……魔物が出たら、所管確認(しょかんかくにん)も」

「所管確認?」

「どの神様の管轄か、見極めるの。……相談料は、今日はなし」

「取る気だったのかよ」

「次からは取るから」


 十一枚の通知を鞄に戻して、レトは事務所を出た。


 帰りの廊下の壁に、大きな絵が一枚、貼ったままになっている。毎回前を通っているはずなのに、ちゃんと見たのは初めてだった。

 日に焼けて色の抜けた、何かの計画の絵だった。地面の下から太い矢印が何本も伸び、その先に建物や工房や笑っている人の顔が描いてある。矢印の上に、大きな字で「龍脈(りゅうみゃく)の恵みを地域の活力に!」。右上の隅には、小さな四角い囲みがあって、細かい字が詰まっていた。

 その絵の前に、男が一人立ち止まっていた。

 小柄で、少し猫背だった。着ている上着は、仕立てがいいのがレトにも分かる。そのくせ、袖口も肘もすり切れていた。男は片手を上げて、右上の小さな囲みを指でなぞった。それから両手を後ろに組んで、絵を見上げたまま動かなくなった。

 レトは横を通りすぎた。玄関の扉に手をかけたところで、なんとなく振り返った。

 男は、まだ絵を見ていた。

 レトには、ただの日に焼けた絵にしか見えなかった。



二 並んでるのと、直ってるのは違う


 旧市街の水路は、朝のうちから日なたの石の匂いがした。

 市から工房に回ってきた、川下の水路の修繕だった。水を堰で脇へ逃がし、乾いた水路の底に下りて、崩れかけた石積みを積み直す。レトは昼前までに、傷んだ石を抜き、裏の土を詰め直して、新しい石を据えた。かがむたびに、作業着の胸の内側で、古い紙がかさりと鳴った。

 面はまっすぐに通り、目地の幅も、指で測ったようにそろっていた。

 レトは一歩下がって、積んだ面を眺めた。悪くない。夕方に堰を戻せば、水がこの石の前を通っていく。直した水路に水が戻ってくるときの音が、レトは好きだった。石と石のあいだを、水が迷わずに抜けていく音だ。


 父のドーマが、小さな槌を手に水路の上から下りてきた。何も言わずに、レトの据えた石を、こつ、こつ、と軽く叩いていく。叩くたびに、首を少し傾けて音を聞いた。

 三つ目の石で、父の手が止まった。

 父はその石の目地に節の太い指をかけ、ゆっくりと引き抜いた。


「ちゃんと並んでるじゃん」


 父は抜いた石を手の中で一度裏返した。


「……並んでるのと、直ってるのは違う」


 それから、空いた穴の両脇を、槌の柄で軽く押した。


「隣の石に、無理させてる」

「なんで? 叩いただけじゃん」


 答えのかわりに、父は右の石をもう一度叩いた。今度はレトの耳にも、音がほんの少し詰まって聞こえた。

 父は抜いた石をレトの足もとに置き、自分の持ち場へ戻っていった。


 レトはしゃがんで、空いた穴に手を入れた。右の石の裏に、指先がかすかに当たる。見た目には分からない。手は、もう分かっていた。

 レトは石置き場から、ひとまわり小さい石を選んだ。叩いて、裏を返して、また叩く。据え直してから右の石を叩くと、今度は澄んだ音が返ってきた。

 どこがどう変わったのかを言えと言われたら、レトには言えなかった。


 昼の休みに、郵便配達が水路の縁まで来た。


「工房の若いの。また来てるよ」

「……また、って言うなよ」

「だって、いつも同じ封筒だろう。薄いのばっかりだ」


 差し出された封筒を、レトは受け取る前から見ていた。受け取ると、やっぱり紙が一枚入っているだけの重さだった。

 開けなくても分かっていたが、開けた。天上府の丸い印の下に、一行だけ。


申請の趣旨が不明確。


 出したのは、あの事務所で線を引かれる前だ。当然の返事だと分かっていても、腹は立った。

 水路の上で、父が弁当の包みを開いていた。郵便配達は帰りがけに、その横へ工房あての請求書を置いていった。封を切って中を一度見ると、父はため息をついた。


「……マナ代と天税(てんぜい)で、また上がった」


 レトの封筒も見えていたはずだが、父はこちらを向かなかった。最初の封筒を見たときは、余計なことはするな、とだけ言った。今日は、それも言わなかった。

 レトは十二枚目の通知を、鞄の中の十一枚に重ねた。許可さえ下りれば、手では積めない所を、自分の魔法で直せる。父が一人で抱えている町じゅうの水路の仕事を、少しは分けてもらえるはずだった。


 夕方になって、片づけを始めた。昼に父が抜いた石は、なんとなく手放せずに、片手に持ったままだった。

 堰を戻すと、脇へ逃がしていた水が、また水路に入ってくる。据え直した石の前を、水が音を立てて抜けていった。足首まで来た水の冷たさに、一日の疲れが少しほどけた。

 そのとき、足もとの水がぴたりと動かなくなった。浮いていた木の葉が、水の上で止まっている。

 地の底のほうで、低い音がした。

 遠い雷のような音だった。けれど空は晴れている。音は足の裏から上がってきて、水路の石積みを震わせ、すぐに消えた。

 父が顔を上げた。槌を持ったまま、旧市街の地下へ続く、水路の暗い口のほうを見ている。

 水路の底の格子から、冬の井戸の底のような、冷たい風が吹き上がってきた。

 レトは格子に手をかざした。風は吹いては止まり、少しして、また吹いた。奥のどこかで、何かがつかえている。手のひらにそう伝わってきたが、それが何なのかは分からなかった。

 父はその暗い口から目を上げ、一度だけ、坂の上の振興会館のほうを見た。何も言わなかった。

 水路の水が止まったのは、奥でつかえているせいだ。だとしたら、同じ地下の古い水路から水を引いている家々の井戸も……

 向かいの家の戸口から、桶を提げた女が出てきた。


「井戸が、止まったよ」


 誰に言うでもなくそう言って、女は空の桶を見下ろした。


 通りの街灯が、遠いほうから瞬きはじめた。

 川上の端の一つが、二度、三度と明滅して、消えた。その手前が瞬いて、消えた。消えるのが、少しずつ近づいてくる。通りにいた人たちが、話すのをやめて顔を上げた。

 レトはズボンのポケットに手を入れた。指先に、折りたたんだ紙が触れた。あの事務所で、線を引かれた控えだった。この何日か、腹が立って何度も捨てようとしたのに、まだそこにあった。

 目の前の街灯が、音もなく消えた。

 あたりが暗くなった。レトの手の中で、昼に父が引き抜いた石が、いつのまにか冷たくなっていた。



三 二万七千人


 暗い通りの向こうで、誰かが叫んだ。


「広場が落ちた!」


 父が、黙って道具箱からロープと槌をつかんだ。


「親父?」

「来い」


 崩れた所は、工房から通りを二本はさんだ広場の下だった。

 石畳が皿のようにへこみ、真ん中に黒い穴が開いていた。父は穴の縁にしゃがみ、ランタンをかざした。


「下を見る。ロープ持ってろ」


 父は作業員を二人連れて、崩れた先へ下りていった。レトは上に残り、ロープの端を握った。

 地の底で、またあの低い音がした。

 今度は、足もとのすぐ下だった。


「親父!」


 ロープが手の中で跳ね、穴から土煙が噴き上がった。


 それからのことは、順番がはっきりしない。レトは穴に飛びこみ、崩れた石を素手でどけた。ランタンの灯りの中に、父の、節の太い指が見えた。父の脚の上に、レトの胴ほどもある石が乗っていた。


「親父!」


 石に肩を入れて押した。動かない。もう一度押した。誰かの手がいっしょに石をつかみ、石が、ずるりと傾いた。

 気がつくと、治癒院にいた。


 灯りは半分しか点いておらず、うす暗い中に寝台がいくつも並んでいた。作業員の一人が、肩を押さえてうめいている。

 父の寝台の横には、治癒院の主任のガルムが膝をついていた。左手に古い大きな傷のある大男で、レトが子どものころから知っている顔だ。その両手が父の脚の上にかざされ、手のひらから治癒の光が出ていた。

 細かった。いつもなら寝台ごと包むような光が、糸のように細い。光が揺れるたびに、ガルムの額に汗が浮いた。


「マナが来ねえ」


 ガルムは父から目を離さずに言った。


「町じゅう、どこもだ。崩れたのは水路だけじゃねえ。龍脈がどっかで詰まってる」

「親父は……」

「やってる」


 それ以上は言わなかった。


 父の顔には、血の気がなかった。目は閉じたままだった。

 母には、まだ知らせていない。隣の小神殿で、夜番のはずだった。

 レトは自分の手を見た。爪が割れて、指の皮がめくれていた。穴の中で、ほかにも誰か埋まっていたかもしれない。まだ石の下に。

 レトが戸口へ向かおうとすると、ガルムが片手を光から離し、振り返りもせずにレトの手首をつかんだ。


「どこへ行く」

「穴。まだ誰か……」

「全員出た。お前が出した」

「でも、まだ崩れるかもしれないだろ。見てこないと……」

「座れ」

「ガルムのおっちゃん、俺は……」


 ガルムが、つかんだ手首の先に目を落とした。


「お前もコーロー様の管轄だ」


 ガルムの手は、少しも緩まなかった。


「その手で石を積む気か、坊主。座れ」


 レトは座らなかった。手首をつかんでいた手が、ふっと離れた。

 寝台の上で、父の指がかすかに動いた。光は細いままだった。


「マナはどこで止まってんだよ」

「配分所に聞け。わしには分からねえ」


 レトは走り出した。


**


 王府の庁舎へ向かう通りは、街灯が消えて真っ暗で、人と荷車で詰まっていた。レトは川沿いの土手へ回った。土手は町はずれで、結界の柵に沿って曲がっている。

 暗い土手の先で、乾いた銃声が鳴った。

 柵の手前に、町の冒険者の年寄りが四、五人、間を空けて並んでいた。柵の向こうの暗がりで、泥の塊のようなものがいくつも動いている。泥獣(でいじゅう)だ。いつもなら柵のずっと奥にいて、ここまでは寄ってこない。

 一番手前にいた小柄な老婆が、古い単発の銃に一発だけ込めて、撃った。柵に這い上がりかけていた泥の塊が崩れ落ちる。老婆は銃を下ろすと、その場にしゃがみこみ、膝の上の分厚い帳面に何か書きつけた。それから、角の丸くなった印鑑を、帳面に押した。

 立ち上がって、次の一発を込める。

 レトは泥の塊から目が離せず、足を止めていた。

 老婆は、隣の年寄りが肩にかけた長い弾帯を、もったいなそうに見た。


「ニューディールなら弾帯ごと撃つ。……ここはヒノアさね」


 それから、レトに気づいた。


「修繕屋の子かい」

「……セルマのばあちゃん」


 セルマは帳面に、もう一つ印鑑を押した。


「柵の向こうの相手にしか撃てん弾さね。……行政術士でもいて、所管が取れりゃ、話は早いんだがね」


 それから、柵の一か所を顎で示した。杭が一本、斜めに傾いたままになっている。


「あれ、まだ誰も直さん」


 レトはその杭を知っていた。あの杭の向こうに、子どものころ、一度だけ入ったことがある。泥の匂いと、目の前で持ち上がった黒い塊。帰り道で見た杭は、そのときから傾いていた。

 柵の向こうで、また泥が動いた。セルマは一発込めて、撃って、しゃがんだ。

 レトは土手を走った。


**


 王府の庁舎は、旧市街で一番古い石造りの建物だった。二階の窓だけが、ぼんやり明るい。


「第七地域マナ配分所」と書かれた扉を開けると、職員たちが机のあいだを走り回っていた。奥の一番大きな机に、灰茶の髪を短く切りそろえた女が座っていた。机の上に、分厚い台帳が広げてあった。首から真鍮の流量計を下げていて、女はそれを、懐中時計でも見るように手のひらに載せていた。机の札には「配分課長 ネイラ・アデル」とあった。


 机の上の灯りは、油のランプだった。この部屋の天井の灯りは、一つも点いていない。


「配分官」


 レトは机の前に立った。


「親父が治癒院にいる。下敷きになった。……治癒院に、マナを回してくれ」


 ネイラは顔を上げた。その目が、レトの割れた爪に一度だけ落ちた。


「ハイネ工房の、ハイネさんですね」


 それから、流量計の針を見た。


「その要望は、配分計画の第三順位に劣後します」

「……つまり、後回しってことかよ」

「はい」


 ネイラは台帳に目を戻し、ペンを動かしはじめた。

 レトは机に両手をついた。


「人が死ぬんだぞ!」


 職員たちの足が、一瞬止まった。

 ネイラはペンを置き、台帳を半回転させてレトのほうへ向けた。細かい字と数字が、ページの端まで詰まっている。ネイラの指が、その上に置かれた。


「あなたには一人が見えている。私には、この街に住む二万七千人が見えています」


 声は大きくなかった。台帳に置いた指の先が、白くなっていた。


「……その二万七千人に、親父は入ってないのかよ」

「入っています」


 ネイラは台帳から指を離さなかった。


 机の端に、紙の束があった。電報の控えだった。一番上の紙に、カタカナが一行。


トワル リュウミャク ヘイソク シジ コウ


 その下にも、同じ文面の控えが何枚も重なっていた。返事らしい紙は一枚もない。


「所長は王都です。予算の会議だそうです」


 ネイラは控えに目もやらずに言った。


「本局は、確認中です」


 職員の一人が駆けてきて、ネイラの耳元で何か言った。ネイラは流量計の針を見た。レトの目にも、針が下がっていくのが分かった。ゆっくりと、止まらずに。


「結界は、夜明けまでです」


 ネイラは壁ぎわに目をやった。取っ手がいくつも並んだ、鉄の盤がある。


「最後の電報を打ってください」


 ネイラは紙に一行書いて、職員に渡した。職員が読み上げる。


「ケッカイ ユウセン デンシン テイシ ダイケツ ス」


 レトは頭の中で、それを字に直した。結界、優先。電信、停止。


「……止めたら、もう王都に何も聞けないじゃん」

「はい」


 ネイラは職員のほうへ顔を向けた。


「打ち終わったら、知らせてください」


 職員が走っていった。ネイラは流量計の針を見ていた。

 しばらくして、隣の部屋から声がした。


「送信、終わりました」


 ネイラは引き出しから判子を出し、決裁の紙にまっすぐ押した。

 朱色の字が、紙の上に残った。


所長不在につき、配分課長代決(だいけつ)


「代決?」


 レトは聞き返していた。


「所長の代わりに、私が決めます」


 ネイラは立ち上がり、鉄の盤の前へ行った。取っ手の下の札に、「電信局」「中継所」とある。そばにいた年かさの職員が、何か言いかけた。

 ネイラは職員を見ずに言った。


「このままじゃ、ハシマの二の舞です」


 職員はそれ以上何も言わなかった。

 ネイラは取っ手を二つ、順に下ろした。重い金属の音が、部屋に二度響いた。下ろしたあと、その手が少しのあいだ取っ手から離れなかった。


 窓の外で、電信局の灯りが消えた。

 ネイラはそれを見なかった。



四 事前着手


 電信局の灯りが消えると、旧市街で明るい窓は、ほとんどなくなった。坂の上の振興会館の、一階の端の窓だけだ。

 レトは走った。半分閉まった正面の扉を肩で押し開け、暗い廊下を抜けて、灯りの漏れる戸を叩きもせずに開けた。


「……何時だと思ってるの」


 ミレアは机に書類を広げたまま、丸眼鏡の奥からレトを見た。


「親父が、崩落に巻き込まれて」


 息が続かなかった。レトは戸口に手をついて、思い出した順に言った。


「治癒院の光が、細くて……龍脈が詰まってるって。配分所に行ったら、後回しだって。二万七千人が先だって。電信も、止められた」


 ミレアは一度も口を挟まなかった。聞き終えると立ち上がり、棚から分厚い書式集を引き抜いた。


「あんたが十二回落ちた申請、何だった?」

「今それ関係ないだろ」

「あるから聞いてるの」

「……壊れたもんを、元に戻す魔法」

「石積みを直す申請でしょ。龍脈のふちも石積みなら、同じ形で出せる」


 ミレアの指が頁を飛ばし、ある一文の上で止まった。括弧の中に括弧が入った長い一文を、指先が二度往復した。


「……つまり?」

「あんたが持ってる簡単な修繕の包括許可じゃ、枠に入らないの」ミレアは書式集を閉じた。「だから個別に出す。今夜のうちに、緊急で」


 戸口で、咳払いがした。

 小柄な男が立っていた。仕立てのいい上着の袖口がすり切れていて、肩に図面筒を掛けている。受付の帰りに、廊下の絵の前で立ち止まっていた男だ。


「悪いな。崩れたと聞いて、昔の図面を確かめに来た。そしたら、景気の悪い話が聞こえてな」

「どちら様ですか」ミレアの声が、客に向けるものに戻った。

「サカド・カナール。商店街の診断屋だ」


 その名前を、レトは工房の帳場で聞いたことがあった。


「おっさん……うちの工房に来て、借りるなって言った人だろ」

「言ったな」男はあっさりうなずいた。「ハイネの工房の子か。親父さんは」


 答える前に、廊下を重い足音が近づいてきた。整えた髭の大男が戸口をふさぐ。ガルムだ。


「やっぱりここか、坊主」

「ガルムのおっちゃん、親父は」

「命は取り留めた。今は眠ってる」ガルムはそれだけ言って、レトの肩をつかんだ。「で、お前は何をしに来た。また降りる気なら、わしが担いで帰るぞ」


 その後ろから、もう一人入ってきた。首から真鍮の流量計を下げ、脇に台帳を抱えている。


「……配分官」

「閉塞点を割り出しました」ネイラは机の書類の上に台帳を開いた。「この建物の真下です。下りる扉の鍵を、持ってきました」

「だったら、なんで後回しにしたんだよ。下を直せば済むだろ」

「直す方法がありません。ですから、聞きに来ました」


 サカドが、レトとネイラの顔を見比べた。

 図面筒から紙を一枚抜いて、裏返した。


「いったん整理しよう。論点は三つだ。下に何があるか。どう直すか。それを誰が神様に出すか」紙の裏に線を三本引く。「誰が、何を、いつまでに?」

「下の数字は、私が出します」ネイラが台帳に手を置いた。


 レトは槌の柄を握り直した。「直し方は、俺が分かる」


「書類は私が作ります」ミレアがペンを取った。

「で、トセラ先生」サカドは戸の札をちらりと見た。「いつまでに?」

「からかわないでください」ミレアは言い返してから、ネイラを見た。

「夜明けまでです」ネイラが答えた。

「わしは」ガルムが腕を組んだ。「お前らのうち誰が倒れるかを見てる」


 ミレアのペンが、様式の欄を上から埋めていった。書いては線で消し、消した横にまた書く。「どの状態へ」の欄で、ミレアは書式集の見本の欄を一度見て、迷わずペンを動かした。


振興事業の竣工時の状態。


「工事が終わった日の形に戻すってこと。記載例どおりよ」


 レトは横からその一行を見ていた。


「……それ、なんか違う」

「どこが」

「分かんない。でも、違う」

「理由を言えないなら黙ってなさい」


 言ってから、ミレアのペン先が紙から浮いた。すぐに、また下りた。

 レトは黙った。手の中で、槌の柄が汗ですべった。


**


 夜の小神殿の受付は、どこも閉まっていた。治癒院の隣の夜間窓口だけが、まだ開いていた。

 格子の向こうに座っていたのは、母のペトゥラだった。袖口に朱肉の跡がある。

 ペトゥラはレトの顔を見て、一度だけまばたきをした。それから窓口の声で言った。


「ご用件を承ります」

「緊急です」ミレアが申請書を差し出した。押印の欄に、「印」と書いた付箋が貼ってある。


 ペトゥラは中身を読まずに、欄が全部埋まっていることだけを確かめた。

 受付でいつも言われる印鑑を、レトは鞄から出しかけた。そこで母の声がした。


「印鑑は……今回は、結構です」


 レトの手が止まった。ミレアが格子の下から手を伸ばし、「印」の付箋を剥がして、何も言わずに握った。


「受け付けました。こちらでお預かりして、回します」


 ペトゥラが封をした申請書を奥の台に置くと、封筒の角がひとりでに折れはじめた。翼の形に、頭の形に。紙の鳥は一度羽ばたいて窓口の天窓を抜け、暗い空へ上がっていった。

 レトは、鳥の抜けた天窓に向かってつぶやいた。


「人同士の電報は止まってんのに、神様への申請だけは届くのかよ」


 母は何も言わなかった。


**


 事務所に戻ってから、誰も座らなかった。

 サカドが懐中時計を開けては閉じた。ネイラの胸の流量計の針は、さっき見たときより、また少し左に寄っている。

 窓が、こつこつと鳴った。

 ミレアが開けると、紙の鳥が机に降りて、ひらいて一通の書類に戻った。


「……補正命令」

「不許可じゃないんだろ」

「不許可じゃない。でも」ミレアは書類を指でたどった。「所管がまたがるから、協議の書類を出せって。石の所管と、流れの所管の両方に。行って、戻って、また行って……早くて三日」

「夜明けまでです」ネイラが言った。


 それきり、誰も口を開かなかった。

 ミレアは補正命令を、もう一度上から読み直した。指が一行ずつ下りていき、末尾の小さな但し書きで止まった。


「……待って。緊急の場合は、事前着手……」


 サカドが、ミレアの肩越しにのぞきこんだ。


「事前着手? うちの業界じゃ毎週聞く言葉だ」


 ミレアの顔から色が引いた。


「一緒にしないで。……ケイザー様のマナ補助とは違うのよ。魔法の事前着手の担保は、命よ」


 サカドが口を閉じた。

 ミレアは書式集の後ろのほうを開き、但し書きのもとになった条文を指で押さえた。


「許可の前に始められる。その代わり、始めた本人の命を預ける。通れば戻る。不許可なら、没収」

「……没収って」

「返ってこないってこと」ミレアは条文から目を上げなかった。「試験には出るけど、実務で使った人はいない」

「認められません」ネイラが先に言った。「生命力の量は、私の台帳には載っていません。載っていないものは、配分できません」

「わしの前で、若いのに命を張らせるか」ガルムの声は、いつもより低かった。


 レトは槌の柄を強く握った。それでも、膝の震えは止まらなかった。


「……怖い」口に出すと、よけいに震えた。「でも……」


 その先が出てこなかった。誰も、続きを急かさなかった。


「下までは行く」声が少しかすれた。「決めるのは、石を触ってからだ」


 ミレアは何か言いかけて、書式集を鞄にしまった。

 ガルムが長いため息をついた。「なら、わしも行く。倒れたら誰が担ぐ」


「下へ行く前に、一つ見せたいものがある」


 サカドが言った。


 廊下の壁の、色あせた計画の絵の前で、サカドは図面筒から黄ばんだ図面を一枚出した。


「振興事業が終わったあとに出した報告書の、図面の写しだ。捨てろと言われて、捨てられなかった」


 ランプを近づけ、絵と図面を並べた。ほとんど同じだった。サカドの指が、図面の上で何本にも分かれた線を順にたどり、それから絵の同じ場所の、太い一本の線をなぞった。絵の右上の四角囲みの、細かい字の終わりに、こうあった。


龍活協分科会《りゅうかつきょうぶんかかい》(改)。


 サカドが、その四角を指でたたいた。


「この『改』、天上府には出てないぞ」

「……一本に、寄せたのかよ」


 サカドは答えなかった。ネイラが台帳を開いて、線の寄った一点と見比べた。


「閉塞点と、同じ場所です」


**


 降りる前に、レトは治癒院に寄った。

 寝台のドーマは、目を開けていた。包帯の上から、節の太い指が毛布をつかんでいる。

 レトは何から言えばいいのか分からなかった。


「……親父」


 ドーマは天井を見たまま、少し黙った。毛布をつかむ指が、一度だけ強くなった。


「……石は、叩いてから据えろ」

「……うん」


**


 振興会館の地下への扉は、鉄でできていた。

 ネイラが懐から扉の鍵を出して、差しこんで回した。錆びた蝶番が鳴った。扉の向こうから、湿った土と古い油の匂いが上がってきた。



五 銀の線


 階段は途中で石から煉瓦に変わった。

 先頭はガルムだった。担架の柄の棒を一本、杖のように突いている。その後ろにレトが槌と楔を腰に下げて続き、書類鞄を胸に抱えたミレア、図面筒を担いだサカド、腰の高さほどもある鉄の開閉鍵を肩に乗せたネイラの順に降りた。

 古い水路は、膝まで泥水に浸かっていた。ランタンの光が水面で揺れて、天井の苔を照らした。崩れた石が、ところどころで水をせき止めていた。

 レトの足が、勝手に遅くなった。崩れた石を見ると、どうしても手が出そうになる。

 気づくと、ネイラが隣を歩いていた。開閉鍵の重さで、肩が片方だけ下がっている。


「……配分官は、なんで来たんだよ。鍵なら誰かに渡せばいいじゃん」


 ネイラは少しのあいだ、前を見たまま歩いた。


「私の島は、配分表の一行で消えました」


 それ以上は、言わなかった。


「……そっか」


 泥水を踏む音だけが、二人ぶん続いた。


 古い水路が尽きると、急に壁がきれいになった。

 手で据えた石が終わり、型に流して固めた灰色の壁に変わる。目地が一本もない。天井が高く、床にも壁にも、マナを流すための銀の線が細い溝になって走っている。線は網の目のように枝分かれして、通路の奥へ続いていた。壁に打ちつけた真鍮の銘板には、「振興事業 第三期」とあった。


「新しいほうの水路だ」サカドが図面と見比べた。「俺が最後に見たときのままだな」


 前の暗がりで、ぬちゃりと音がした。

 ガルムが立ち止まった。腰の銃に手をやり、抜く寸前で止めた。


「……ここは結界の外だ。この弾は、結界の中でしか使えねえ」


 床の銀の線から、泥が盛り上がった。

 泥の塊に、崩れた石がいくつも埋まっている。床を掻いてこちらへ向き直っても、足の先は銀の線から離れなかった。町はずれの柵の向こうと同じ、腐った土の匂いがした。


「下がれ!」


 ガルムが棒を横に払うと、泥獣の前足がそれて壁に当たり、泥がはねた。その隙に、レトは懐に飛びこんだ。泥の中の石と石のあいだに楔を当て、槌を振り下ろす。継ぎ目が割れて、泥獣の片側がずるりと崩れた。

 崩れた泥は、床の銀の線に吸いつくように集まった。線がかすかに光る。泥が盛り上がり、さっきと同じ形に戻った。

 泥獣の前足を棒で受けながら、ガルムが叫んだ。


「嬢ちゃん! こいつの所管は!」


 ミレアが胸の資格章に手を当てた。その目は、牛ほどの体と、這って床を掻く四つの足と、吠えるように身をよじる動きだけを追っていた。


「所管確認。……本件、所管は、生き物と確認する」


 胸の章が一瞬光って、ぱちんと消えた。

 泥獣には、何も起こらなかった。

 ミレアが、消えた章を見下ろした。


「不受理!?」


 床の銀の線がいっせいに光り、泥の体がひとまわり膨らむ。前足に押されて、ガルムが棒ごと膝をついた。

 ミレアが叫んだ。「どうして! どう見ても生き物なのに……魔物は、見た目じゃどの神様の管轄か分からないの。だから、あたしたちが中身を見極める。合ってれば、その神様が引き取ってくれるのに!」


「あんたの見方が違うんだよ」

「じゃあ何が違うの!」

「何がって……」レトはさっき割った継ぎ目の手応えを、手のひらで思い出した。「見りゃ分かるだろ」

「見て分かることを、言葉にしなさい!」


 レトは口を開けた。手の中には答えがあるのに、一つも言葉にならなかった。


「いったん整理しよう!」


 サカドが、ランタンを床に向けた。銀の線が、泥獣の足もとから通路の奥へ伸びている。


「戻るのは、その線から吸ってるからだ。線は奥の弁から来てる。三番だ! 課長、閉めろ!」


 ネイラはもう、開閉鍵を肩から下ろしていた。床の鉄の蓋をはね上げ、弁に鍵を差しこむ。


「三番、閉めます」


 鉄の鍵が、重い音を立てて回った。銀の線の光が、奥から順に消えていく。泥獣の体は、それ以上ふくらまなくなった。


「……もう、吸えません」

「あれだ」サカドが通路の脇の錆びた鉄の箱に駆け寄った。「第三期で入れた排水ポンプだ。俺が見積もった」


 蓋を叩き開け、上着の内から出した工具で中をいじりながら、泥獣を顎で示した。


「図体のわりに足が遅い。固定費がでかい体だな。……泥なら、水を抜けば鈍る。ガルム、押さえてくれ!」

「レト、壁が来る!」


 振り向くと、ミレアが壁を指さしていた。泥獣がぶつかった所から、石が二つ、三つとずれかけていた。


「これは修繕です」


 神様に聞こえるように言い張ってから、レトはずれた石を手のひらで押し戻した。押し戻した石が、目地へすっと収まった。その脇に楔を打ちこむと、石はもう動かなかった。ミレアの声が、まだ耳の奥に残っていた。

 ポンプが咳きこむように動き出した。サカドは吸水管を引きずってきて、網のついた先を泥獣の脇腹に突き立てた。網に石が当たって鳴り、泥水だけが管を駆け上がって、通路の溝へ吐き出されていく。サカドは取っ手を回しながら、ぼそりと言った。


「全部、借りたマナで買った機械だ。今夜やっと役に立った」

「……なんで借りちゃダメなんだよ」


 喉に引っかかっていた言葉が、口からこぼれた。工房の道具が古いままなのは、父が借りなかったからだ。

 取っ手を回すサカドの手が、一度だけ止まった。


「……全部借りて、全部なくしたのが、俺だからだ」


 それきり、サカドは取っ手を回し続けた。

 泥水が抜けるにつれて、泥獣の体がしぼんでいった。中から、積み重なった石が浮き出てくる。ガルムが棒で押さえこみ、レトがその石と石のあいだに楔を当てた。

 叩くと継ぎ目が割れ、泥は、すぐには集まってこなかった。

 レトは手を止めて、割れた所に指を当てた。泥の下は、ざらりと固かった。積んだ石の重なり方を、指でたどる。


「……中は泥じゃない。石だ。生き物みたいに這ってるけど、積み方は石垣と同じだ。下の石が、上の重さを受けてる」

「水は半分抜けた」サカドがポンプ越しに言った。

「流入、ゼロです」ネイラが針を読んだ。


 ミレアの目が、三人の顔を順に見た。それから、もう一度泥獣を見た。


「中は積んだ石。水は抜けた。流れこむマナもない」指を一本ずつ折っていく。「生き物じゃない。動いてるだけ。……これは、土地だ」


 胸の章に手を当てる手つきは、さっきよりゆっくりだった。


所管確認。


「本件、所管は、土地と確認する」


 胸の章が光って、そのまま消えなかった。


「……受理」


 ミレアが、小さな声で言った。

 床の石が割れて、岩が伸びた。太い岩の枷が泥獣の四つ足に巻きつき、そのまま地面へ引きずりこんでいく。泥は土に戻り、石は床の石と見分けがつかなくなった。

 ポンプの音のほかは、何も聞こえなくなった。


 サカドが取っ手から手を離すと、ポンプの音がゆっくり止んだ。

 ガルムは棒に体をあずけて大きく息を吐き、ネイラは流量計の針を確かめた。

 ミレアが、泥だらけのレトの手を見た。


「レト。手、切れてない?」

「……平気。ミレアこそ、眼鏡」


 ミレアは泥のはねた丸眼鏡を外して、袖で拭いた。それから、そっぽを向いた。


「よく通したな、嬢ちゃん」ガルムが笑った。

「嬢ちゃんって呼ばないでください!」


 怒った顔のまま、ミレアの口もとはゆるんでいた。

 叫んだ声が、通路の奥へ吸いこまれていった。

 返ってきたのは、こだまではなかった。もっと奥のほうから、低い音が、足の裏に響いてきた。



六 どの石にも


 水路は、そこで終わっていた。

 床の銀の線が途切れた先に、川のようなものが横たわっていた。流れるはずの光が、曇った水晶のように固まって、表面に細かいひびが走っている。低い音は、その奥から聞こえた。詰まった管に、無理やり水を押し込んでいるような音だった。


「……ここです」


 ネイラが流量計を持ち上げた。針は、ほとんど底に沈んでいる。

 固まった光のふちに沿って、石が積まれていた。水路の石積みと同じ、一つずつ手で据えた石だ。レトは膝をつき、槌を抜きかけてやめた。先に、手のひらを当てた。

 冷たかった。それから、重かった。

 手の下の石が、何かを支えて、内側から割れかけていた。叩かなくても分かった。申請書には、一度も書けなかった手ざわりだった。


「……ミレア」


 書類鞄を抱えたミレアが、横にしゃがんだ。レトは石から手を離せないまま言った。


「俺がずっと直したかったものじゃん。」


 ミレアは、書類鞄の留め金をぱちんと外した。丸眼鏡に、ひびの走る光が映っていた。

 うしろで、サカドが懐中時計の蓋を開け、すぐに閉じた。流量計の針は、さっきより下がっている。柵の外では、泥獣がまだ寄ってきているはずだった。


 レトは、石に当てた自分の左手を見た。指先が細かく震えていた。


「……怖い」


 思ったより、かすれた声になった。

 ガルムが、担架の柄の棒を壁に立てかけ、黙ってレトの横に膝をついた。ランタンの明かりが、ガルムの左手の古い傷を照らした。


「死ぬのが怖いって言えるやつは、まだ大丈夫だ。……限界は、わしが決める」


 太い指が、レトの左の手首に乗った。


 ネイラは台帳を開いた。


「上限を、出します」


 それだけ言って、流量計の針と台帳の数字を見比べはじめた。一つの数字の上で指が止まり、列の頭からもう一度たどり直して、同じ所でまた止まった。サカドが、ネイラの横顔を見た。

 ミレアが書類鞄から控えを抜き出した。地上で書いて、紙の鳥に持たせた申請の控えだ。膝の上に広げ、ペンの蓋を口でくわえて外す。


「言いなさい。何を」

「これだよ。この固まってるやつ」

「『これ』は書けないの」

「じゃあ、なんて書くんだよ」

「第七地域龍脈の閉塞点」ミレアのペンは、もう動いていた。「次。どの状態から」


 レトは石の表面を指でなぞった。ひびは表だけではなかった。指の腹に、奥まで割れが続いている手ざわりが返ってくる。


「固まってる。叩いても鳴らない。ひびは中まで入ってる」

「硬直してひび割れた状態。次、どの範囲で」

「こっから、あの辺まで」

「『あの辺』は範囲じゃないの!」


 声が地下に跳ね返った。手首を押さえたまま、ガルムが喉の奥で笑った。

 レトは筋に沿って手を滑らせた。割れた石が、一つずつ手のひらの下を通っていく。四つ、五つ。割れが途切れて、ただの冷たい石に戻った所で、手が止まった。


「割れた石の筋の、端まで」

「閉塞点から、割れた石の筋の端まで」ミレアのペンが走った。「……書ける」


 ペン先が、一つ飛ばした欄の上に戻って、止まった。

 そこには、地上でミレアが書いた一行がある。振興事業の竣工時の状態。

 レトがその行を見ているのに気づいて、ミレアが先に言った。


「どの状態へ。……規則では、時点を書く」


 言い返す言葉を、レトはまだ持っていなかった。

 サカドは図面筒を両手で抱えたまま、閉塞点の光を見ていた。


「……時点に戻したら、あの絵に戻るだけだ」


 ミレアのペンが止まった。

 いつもなら、ここで三倍になって言い返してくる。ミレアの指が、眼鏡のつるを押さえた。


「……」


 それだけだった。


 低い音だけが続いていた。針が、また少し下がった。

 時点じゃないなら、何を書けばいい。

 レトは、もう一度石に手を当てた。同じ重さが、手のひらに返ってきた。


「……無理が、かかってる。一つの石に、全部」


 手を、隣の石へずらした。軽かった。その隣も、軽い。重さは、割れた一つにだけ乗っていた。


「……どの石にも、無理がかかってない。」


 ミレアはペンを浮かせたまま、レトの顔を見た。

 口に出してから、レトは作業着の内側から、あの古い紙を取り出した。

 広げると、様式は今と同じだった。隅の日付は、二十五年前。何を、の欄に振興会館の地下とある。どの状態へ、の欄には、節の太い指で一字ずつ押しつけたような字で、こうあった。


石に、無理をさせていない状態。


「親父は、二十五年前にもう見つけてた」


 ミレアが紙を受け取った。眼鏡の奥で、目がその一行を何度も往復する。それから自分の控えに向き直り、「どの状態へ」の行に、ペンで一本、線を引いた。その下に、レトの言った一行を書いた。


 サカドが懐中時計の蓋を開けた。今度は、閉じなかった。


「あと、三十数える間だ」


 ミレアが立ち上がった。


「申請者、レト・ハイネ。特定修繕。何を、第七地域龍脈の閉塞点。どの状態から、硬直してひび割れた状態」


 レトは父の紙を見なかった。


「どの状態へ。……どの石にも、無理がかかっていない状態」

「どの範囲で、閉塞点から、割れた石の筋の端まで」


 ネイラは台帳に目を落とし、一拍おいてから、いつもの平らな声で続けた。


「使うマナ、八百万マナまで」


 喉が渇いていた。石に当てた左手が、自分のものではないみたいに震えている。その手首の上で、ガルムの指が少しだけ強くなった。

 口を開くと、声がかすれた。


「事前着手します。」


 一拍、何も起きなかった。

 それから、左手の甲が焼けるように痛んだ。皮膚の上に、判子を押したような印が浮かんでいる。


 石に当てたレトの手の横に、岩の手が置かれた。

 人の頭より大きな手だった。腕をたどって見上げると、天井に届きそうな岩の体に、濃紺の作業羽織が一枚ひっかけてある。首から、巻尺が下がっていた。

 岩の手が腰のハンマーを抜き、すぐ横の石を、軽く叩いた。

 コン、と鳴った。岩の頭が、少し傾いた。音を聞いている。


「……コクド様」


 ミレアの声は、ほとんど息だった。


「図面を見せろ」


 サカドが図面筒の蓋を開け、一度取り落としかけながら写しを差し出した。岩の指は、彫刻刀みたいに細い。図面をめくる指が、一枚の上で長く止まった。


「そのマナはどこから持ってくるのです?」


 うしろから、声がした。

 全員が振り向いた。通路の口に、もう一柱が立っていた。銀白の髪をきっちり結い、白と黒の端正な長衣をまとっている。左の目が金、右の目が青だった。


「……ザイム様」


 ネイラの声だった。金と青の目が、五人を順に見た。

 四人の目が、台帳を開いたネイラに向いた。

 ネイラは流量計の針に目を落とした。


「浄水と治癒と結界には、手をつけません。町の灯りと電信と工房を止めて、七百万。残りの百万は、この町にはありません」


 ザイムの目が、ネイラの台帳に落ちた。


「この区域の人口は」

「二万七千です」

「……二万七千。」


 金と青の目が、台帳からネイラへ上がった。ネイラは目をそらさなかった。ザイムは五人に向き直った。


「残りの百万は、天税の備蓄から出します」

「……よろしいのですか」

「このときのために、積んできたのです」

「石は、我輩が見る」

「流れは、わたくしが」


 協議は、それで終わった。二柱の神は並んで、止まった龍脈を見下ろした。

 コクドが、ミレアの手から父の紙を取った。細い指が一行をなぞった。


「……現場の言葉だ」


 手のひらの下で、重さが動いた。

 一つの石にのしかかっていたものが、隣の石へ、その隣の石へ、少しずつ分かれていく。割れ目の奥で、固まっていた光がほどけはじめた。

 左手の甲が熱くなった。印が手首を越え、腕のほうへ這い上がってくる。指を曲げようとすると、握りが途中で抜けた。槌を握るときの、最後のひと締めが入らない。

 手首の上のガルムの指は、動かなかった。流量計の針が、上がりはじめていた。

 曇った水晶が、端から澄んでいく。ひびの奥を、光が走った。直した水路に水が戻るときと、同じ音がした。

 まだいける、と手が言っていた。もう少し流せば、筋の端の石まで一度に……

 ガルムが、黙ってネイラのほうへ顔を向けた。

 針は、台帳の八百万のすぐ手前にあった。ネイラは流量計を握りしめたまま、顔を上げた。


「……もう、誰も置いてかん。レト、止めて。」


 知らない島の訛りだった。レトは、止めた。

 左腕が重くて上がらなかった。右手で左の肘をつかみ、石から引き剥がした。

 手が離れても、光は止まらなかった。固まっていた川が、細く、静かに流れている。

 コクドがもう一度だけ石を叩き、音を聞いた。ザイムは流れを見ている。どちらも、許可するとは言わなかった。気がつくと、二柱の姿はどこにもなかった。

 流れる音だけが残った。


「……ネイラさん。針は……」

「八百万。超えていません」


 ネイラは流量計を胸に戻した。ミレアは控えの余白に何かを書きつけていて、その字がひどく曲がっていた。


「……通った、のか?」

「……まだ、審査中よ」


 ミレアは顔を上げなかった。


**


 地上に出ると、夜が明けかけていた。

 結界が持ったのかどうか、自分の目で見たくて、レトはガルムの肩を借りて町はずれまで歩いた。ガルムは何度か「休め」と言ったが、肩は貸したままだった。

 柵は立っていた。

 その手前に、セルマが座り込んでいた。単発の銃を膝に横たえ、記帳の束を胸に抱えている。足もとには、泥の跡がいくつも乾きかけていた。

 セルマはレトを見上げ、角の丸くなった印鑑を指先で転がした。


「……今夜だけで帳面一冊さね」


 レトは、うなずくことしかできなかった。

 振り返ると、旧市街の通りに街灯がともっていた。屋根の上に朝日が出て、遠いほうから一つずつ、街灯が消えていった。



七 見積書


 工房に、槌の音が戻っていた。

 ドーマは作業台の前で、石の角を落としていた。脚の包帯は、もう取れている。節の太い指が、前と同じ速さで動いていた。

 レトは戸口に立ったまま、しばらくその音を聞いていた。


「親父」


 槌は止まらなかった。


「通った。……条件付き、だって」


 槌が止まった。

 ドーマは振り向かなかった。横顔の目だけが、壁ぎわの棚へ動いた。いちばん奥の段に、紙一枚ぶんの埃の跡が四角く残っている。

 それから、また槌の音がした。


**


 町はずれの柵は、明るい所で見ると、思っていたより低かった。

 傾いた杭は、まだ傾いていた。

 簡単な修繕の包括許可の範囲です、と受付の神官は、書類を一度見ただけで言った。念のため印鑑を、とも言った。

 据える前に、レトは杭を叩いた。いい音がした。

 杭を起こし、上から押し込む。最後のひと押しで、左手の指が杭の上でゆるんだ。握りの最後のひと締めだけが、まだ戻っていない。レトは肩を当てて、体ごと押し込んだ。

 杭が、すとんと落ち着いた。

 柵の手前で、セルマが銃を膝に置いて見ていた。


「……やっと直ったかい」

「遅くなった」


 セルマは帳面を開いて一行書きつけ、角の丸くなった印鑑を押した。


**


 帰りに配分所の前を通ると、窓口からネイラが手招きして、一枚の電報を差し出した。


チョウセイ ヲ マテ ゲンドウ ツツシメ


「所長からです。電信が戻った朝に、届きました」

「……今ごろかよ」


 ネイラは何も答えず、電報を台帳に綴じた。


**


 ミレアの事務所の机に、分厚い封筒が載っていた。

 けさ、紙の鳥が運んできたのだという。レトは両手で持ち上げてみた。重い。こんなに厚い封筒は、初めてだった。


「なあ、これ全部……」

「全部、何?」

「許可証、とか」


 ミレアはペンの尻で封筒を指した。


「開けなさい。宛名、読めるでしょ」


 封を切ると、いちばん上の紙に、条件付き承認と大きく刷ってあった。


「……ほんとに通ってる」


 ミレアから聞いてはいた。それでも、刷った字で見ると、膝から力が抜けそうになった。


「その下も見なさい」


 その下が、重かった。紙の束が、まだ封筒の半分以上を占めている。

 ミレアが束を取り上げ、指先でめくりながら、だんだん早口になった。


「添付書類、十二種類。事前着手理由書、生命力使用報告書、ザイム様との協議記録、修復後の……とにかく、あと八種類。様式はばらばら、提出先もばらばら。それから……」


 めくる指が止まった。


「全部出し終えるまで、担保の一部は戻らない」


 レトの目は、自分の左手に落ちた。手の甲の印は、薄くなっただけで、まだそこにあった。

 ミレアの目も、同じ所で止まっていた。


「世界救ったんだぞ、俺!?」

「だからって、書類がなくなると思った?」


 ミレアは束を封筒に戻し、その上に、一枚の紙を置いた。


「……では、ハイネ様。添付書類十二種類の作成、当事務所でお引き受けいたします。こちらが見積書です」

「金取るのかよ!」


**


 天上府の夜は、灯りが落ちない。

 ソームは四本の腕で、判子とペンと算盤と封蝋を同時に動かしていた。


「第七区域、特定修繕。現地にて協議済み。条件付き承認で整理します」


 判を押しかけて、ソームは一つの欄を読み直した。どの状態へ、の欄だった。


どの石にも、無理がかかっていない状態。


 時点が書いていない。それでも、コクドは石を、ザイムは流れを、それぞれ確認済みと記録にある。

 ソームは特定修繕の書式集を開いた。竣工時の状態、と書かれた記載例の隣に、この一行をもう一つの例として綴じ込んだ。

 机の端には、今夜届いた紙が重なっている。

 コーローの意見書。「担保に命を取る決まりは、見直しなさい」

 ボエイダの報告書。「第七区域 杭 一 復旧」

 その下に、綻び(ほころび)の台帳があった。どの頁も、どの状態へ、の欄が空いている。


……綻びも、状態で書けば。


 天上府の夜に、四本の腕が、はじめてそろって止まった。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


初めて書いた小説でしたが、レトとミレアの物語をここまで読んでいただけて、とても嬉しいです。


二人の次の申請(添付書類、あと十二種類です)も、反応をいただけたら書いてみたいと思っています。


「続きが読みたい」と思っていただけたら、

いいね・★評価・感想で教えていただけると、とても励みになります。


また二人に会いたいと思っていただけたら、嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。