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理想の骸

 

 ミュラー家の玄関の鍵が、重く、ぎこちない音を立てて回った。


ドアが開いた瞬間、家のなかに流れ込んできたのは、ベルリンの夜気ではなく、「死の腐臭」を纏った絶望の熱気だった。


 「……ただいま」


 ハンス・ミュラーの声は、自分の喉から出たものとは思えないほど掠れ、湿り気を帯びていた。かつて、地方議会の檀上で「誠実」を絵に描いたようなハリのある声で演説していた男の面影は、そこには微塵もなかった。


 ハンスは、自分の影を恐れるようにして、背後でドアを閉めた。


 鏡に映った自分の姿を、彼は直視することができなかった。完璧に整えられていたはずの髪は乱れ、目の下には、数日間一睡もしていないことを物語る、どす黒い隈が刻まれている。そして何より、その瞳だ。かつて理想を映し出していた澄んだ茶色の瞳は、いまや地獄の底を覗き込んだ者だけが宿す、虚無的な光に濁りきっていた。


 (……私は、戻ってきたのか。この清潔な場所に。……こんなに汚れた身体で)


 彼は、自分の指先から、あのマリウポリの少女の涙の感触が消えないことに、生理的な吐き気を覚えていた。石鹸で何度洗っても、エデン島で浴びた「欲望という名の汚泥」の匂いが、皮膚の奥深くにまで染み付いている気がしてならない。


「パパ? お帰りなさい」


 階段の上から、ルーカスの声が響いた。


 ハンスは、雷に打たれたように身体を強張らせた。これまでは、息子のその声こそが、戦場のような政治の世界から戻った彼にとって唯一の「救い」だった。だが、今の彼にとって、その無垢な声は、自分の「罪」を告発する審判のラッパのように響いた。


 「……ああ。……ああ、ルーカス。……今、帰ったよ」


 ハンスは、自分の手が激しく震えているのを隠すように、濡れたコートを乱暴に脱ぎ捨てた。


 彼は、ルーカスが自分の顔を覗き込もうとするのを避け、足早に書斎へと向かった。


(……見るな。私の顔を、その綺麗な瞳で見るな)


 ハンスは、書斎の重いドアを閉めた。


 暗闇の中で、彼は荒い呼吸を繰り返した。背中をドアに預け、ずるずると床に崩れ落ちる。


 彼のポケットの中には、ゴールドスタインとヘルゲンから送信された、自分を「永遠の奴隷」にするためのあの動画が入ったスマートフォンが、重鉛のような質量を持って、彼の太ももを熱く焼いていた。


「……う、あ……あぁ……」


 ハンスは、暗い書斎で一人、声を殺して慟哭した。


 彼はまだ気づいていなかった。


 自分が逃げ込んだこの「聖域(書斎)」の隅で、息子ルーカスが仕掛けた「眼」が、今まさに、赤く冷酷な光を点滅させ始めたことに。


 そして、その「眼」の向こう側で、三人の「亡霊」たちが、自分の破滅を特等席で観賞し始めていることに。


 書斎の重いドアの閉まる音がリビングまで響いた。


 モニカは、パスタを盛り付けようとしていた手を止め、夫が消えた廊下の奥を不安げに見つめた。ハンスが帰宅してからの数分間、彼は一度もモニカと目を合わせようとはしなかった。その背中は、まるで見えない巨大な重圧に押し潰されそうに丸まって見えた。


 「……パパ、疲れちゃったのかな」


 ダイニングテーブルでフォークを握ったまま、ルーカスが静かに尋ねた。その瞳は、子供らしい心配を装いながらも、内側にはザビーネから授かった冷徹な「観察者」の光を宿している。


 モニカは無理に微笑みを作り、ルーカスの細い肩を優しく撫でた。


 「そうね、きっと。……ヘルゲン先生のような偉い方たちと、世界を良くするための難しいお話をたくさんしてきたのよ。慣れない旅の疲れが一気に出たのね。パパは責任感が強いから」


 モニカは自分自身に言い聞かせるように、パスタの湯気の中に希望を見出そうとしていた。彼女にとって、ハンスは常に正義の側にある「完璧な夫」


 「……そっか。パパ、大変なんだね」


 ルーカスは短く答え、皿の上の食事を淡々と口に運んだ。


 モニカがキッチンへ戻り、洗い物の音を立て始めた隙に、ルーカスはズボンのポケットに忍ばせた、あの黒いケースの感触を確かめた。


 (……パパは疲れてるんじゃない。パパは、何かを『隠して』いるんだ。閣下の言った通りだ)


 ルーカスの脳裏には、ザビーネの冷たい微笑と、総統閣下からの「任務」という言葉が、パルスのように点滅していた。


 モニカが「パパはしばらくそっとしておいてあげましょう」とリビングの明かりを落とした頃、家全体が静寂に包まれ始めた。ハンスの書斎からは、微かな、しかし絶え間のない、獣の呻きのような嗚咽が漏れ聞こえてくる。


 ルーカスは暗闇の中で、パジャマの上からランドセルを背負い直すような覚悟で、廊下の影に身を潜めた。


 父が罪悪感という名の毒に冒され、泥のような眠りに落ちるその瞬間。


 オペレーション『Das verlorene Paradies(失楽園)』の、最も残酷なフェーズが、実の息子の指先によって始まろうとしていた。




 ザビーネはヘッドフォンの片側を押し当て、盗聴マイクが拾い上げる「音」に神経を研ぎ澄ませていた。


 「……ハンス、戻ってから一時間、一度も椅子から動いていないわ」


 彼女のスチールブルーの瞳が、画面の中の静止した影を射抜く。


 心拍数を測るセンサーなど、まだこの家にはない。だが、そんな精密なデータなど不要なほどに、ハンスの敗北は「視覚」と「聴覚」だけで残酷に証明されていた。


 「……聞こえる? この呼吸音。浅くて、速くて、時折ひどく喉が鳴る。……何かを必死に飲み込もうとして、身体がそれを拒絶している音よ。……過呼吸寸前ね」


 インカム越しに、アパートで待機するノーマンの乾いた声が重なる。彼はモニターに映るハンスの「震え」をデジタルズームで拡大し、冷淡に分析した。


 「……見てよ、この手の動き。ポケットの中の『何か』を、触れては離し、触れては離している。……まるで熱い鉄屑でも握らされているみたいだ。……ザビーネ、これ以上の証拠がいるかい? ポリグラフなんてなくたって、この男の脳内がいまエデン島での『汚辱の記憶』で焼き切れてることは、猿にだってわかるさ。……間違いなく『黒』だ」


 ノーマンはエナジードリンクを啜り、下卑た笑みを漏らした。


 「……理想主義者の成れの果てだ。地獄の最前列で、自分が守りたかった『未来』が肉の塊に変わるのを見せつけられた。……一回の訪問でこれだ。魂が修復不可能なまでにひび割れている音が、ここまで聞こえてきそうだよ」


 後部座席の闇。そこに座るヒトラーは、一度も瞬きをすることなく、開かれたウィンドウの向こうにある「標的の家」を凝視していた。


 「彼は今、自らの内側から溢れ出す『腐敗』の毒に溺れているのだ。……言葉など不要だ。その震える背中こそが、何よりも雄弁な自白ではないか」


 ヒトラーの声は、深夜の車内に冷徹な石碑を建てるような重厚さを湛えていた。その時、モニターの隅で、別の影が動いた。


 「……ザビーネ。ハンスの脳は、恐怖と疲労で強制シャットダウン寸前だ。……まもなく、意識の堤防が決壊する。……そこが、僕たちの『Das verlorene Paradies(失楽園)』、真の侵食の開始合図だ」


 ザビーネは、隣で前を見据える「亡霊」の横顔を窺った。


 その瞳には、かつて敵軍の包囲を静かに見つめていた時のような、恐ろしいほどの凪が宿っている。


 「……行きなさい、若き兵士よ。……君のその小さな指先で、父の隠し持つ『真実』を、我々の祭壇へと差し出すのだ」


 




 ミュラー家のリビングに、夕食後の穏やかな、しかしどこか所在なげな空気が流れていた。書斎の奥に引き籠もったハンスを案じながら、モニカはキッチンで食器を洗う手を休め、重い溜息をついた。

その背後、ダイニングテーブルで宿題を広げていたルーカスのポケットが、微かな、そして鋭い振動を刻んだ。


 ルーカスは極めて自然な動作でスマートフォンを取り出した。画面には、ノーマンから暗号化された短い指示が、青白い光と共に浮かび上がった。


[標的は沈黙。強制休眠状態を確認。……これよりザビーネが門を叩く。母親を玄関に「釘付け」にする。君は書斎へ潜入。……「幽霊」を流し込め]


 ルーカスの心臓が、歓喜の拍動を打ち始めた。パパを助けるためではない。一億人の主、総統閣下の「眼」となり、自分にしか成し遂げられない任務を完遂するという全能感。


――ピン、ポーン。


 夜九時。静寂を切り裂くように、軽やかなチャイムの音が響いた。


「あら、こんな時間に誰かしら」


 モニカが怪訝そうに顔を上げ、濡れた手を拭きながら玄関へ向かう。


 「……失礼いたします、ミュラー奥様。夜分に突然の訪問、驚かせてしまったかしら」


 玄関のポーチライトに照らされたザビーネ・フィッシャーは、テレビ画面で見るよりもずっと柔和で、それでいて圧倒的な知性のオーラを纏っていました。モニカは、手に持っていたキッチンタイマーを落としそうになるほど激しく動揺しました。


 「ま、まさか……ザビーネさん!? え、ええ、もちろん存じておりますわ! でも、どうして我が家に……」


 モニカの声は上擦り、まるで少女のように頬を紅潮させました。ザビーネは困ったように眉を下げ、完璧にコントロールされた「親しみやすい有名人」の笑みを浮かべました。


 「実は、あの一件でキャスターを辞めまして……今はフリーのライターとして、自分の意志で言葉を紡ぐ準備をしているのです。……個人的に、ハンス・ミュラー議員の誠実な政治姿勢には以前から深く注目しておりましたの。いつか、私の新しい連載でじっくりとインタビューをさせて頂けないかと思いまして。今日はそのご挨拶だけでもと」


 「インタビュー……! まあ、なんて光栄なことでしょう!」


 モニカは、夫が先ほどまで死人のような顔で帰宅し、書斎に閉じこもっていることさえ一瞬忘れ、目の前の「黄金の偶像」との対話に心を奪われました。


 「あの……テレビでの、あの『頷き』の件は正直、私たち夫婦も驚きましたし、残念だとも思いましたわ。でも、あなたが局を辞められたと聞いて、本当に寂しくて……。でも、そうやって新しく踏み出されるのね! 素晴らしいわ。ハンスに伝えておきます、きっと彼も喜びますから。……あいにく、今は旅の疲れが出て休んでいるのですが……」


 「ええ、もちろん。お疲れのところをお邪魔するつもりはありませんわ」


 ザビーネは、モニカの言葉を遮ることなく、むしろ「もっと聞かせてほしい」と言わんばかりに熱心に相槌を打ち、会話の主導権を握りました。


「……奥様、ハンス議員を支えるあなたの内助の功も、界隈では有名ですのよ。少し、あちらの生垣のバラのことでも伺いながら、これからのドイツの未来について、女性同士の視点でお話しさせていただけないかしら?」


 ザビーネはモニカの腕を優しく促し、玄関のドアから数歩離れた、暗がりの庭先へと彼女を連れ出しました。モニカは、憧れの女性が自分を「特別な相談相手」として選んでくれたという特権意識に酔いしれ、ザビーネが紡ぎ出す、中身のない、しかし高潔な響きを持つ言葉の迷宮へ、自ら進んで迷い込みました。


 その背後。


 閉じられた扉の向こう側で、ルーカスは冷徹な「兵士」の貌になり、音もなく書斎へと滑り込みました。


 


  九時の静寂が漂うミュラー家の庭先。ザビーネ・フィッシャーは、月光を背に受けて立つ、完璧な「知性の偶像」を演じきっていた。


 「……ええ、モニカさん。ハンス議員のような方が、これからのドイツの背骨にならなければいけない。私はそう確信して、局を去る決意をしたのですわ」


 ザビーネの声は、バイオリンの弦のように心地よく響き、モニカの虚栄心を優しく愛撫した。モニカは、憧れの女性が自分を「同志」として扱ってくれているという陶酔の中にいた。ハンスが書斎で絶望にのたうち回っていることなど、今の彼女の意識からは完全に消え去っている。


 「まあ、ザビーネさん……。そんな風に仰っていただけるなんて。主人が聞いたら、どんなに喜ぶことか!」


 ザビーネは微笑みを絶やさず、しかしその内側では、耳の奥に仕込まれた米粒ほどの小型イヤホンから流れる「現場の鼓動」を冷徹にカウントしていた。


 『……ルーカスがアプリのダウンロードを開始した。……インストール率80%……90%……。よし、完了だ。幽霊が定着したよ』


 インカム越しに聞こえる、ノーマンの抑揚のない、しかし確信に満ちた報告。


 『ルーカス、書斎を脱出。……ザビーネ、幕引き(カーテンコール)の時間だ』


 報告を聞いた瞬間、ザビーネのスチールブルーの瞳に、一瞬だけ鋭い「狩人」の光が宿った。だが、彼女は瞬時にそれを隠し、モニカに向けて最も親愛に満ちた、しかしこれ以上は立ち入らせないプロの別れの微笑を浮かべた。


 「……あら、もうこんな時間。熱心にお話ししてしまって、ハンス議員のお休みを邪魔してしまったかしら。……モニカさん、今日はあなたとお会いできて、本当に良かったわ」


 「えっ、もうお帰りに? もっとお話ししたかったのに……。あの、連絡先を……」


 「ええ、また改めて。ハンス議員には、私が心から期待していると、どうかお伝えくださいな」


 ザビーネは、モニカが名残惜しそうに差し出した手を優雅に握り、そのまま流れるような動作で門扉へと背を向けた。


 彼女が闇に沈むセダンへと戻り、ドアを閉めた瞬間、車内の空気は一変した。


 ザビーネは、後部座席のヒトラーを鏡越しに見つめた。その瞳には、一人の母親を欺き、一人の父親を破滅へと追いやった罪悪感など微塵もなく、ただ「完璧な仕事」を成し遂げた充足感だけが、青白いモニターの光に照らされて美しく輝いていた。


 




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