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汚れた聖域

 

 ハンスは、床に這いつくばったまま、スマホの画面に表示された「商品リスト」の続きを、震える指でスクロールしてしまった。


 そこには、顔写真と共に、彼女の素性が淡々と、事務的なフォントで記されていた。


『Origin: Mariupol, Ukraine / Status: Displaced (SVR Secured) / Identification: No. 742』


 「……マリウポリ……?」


 ハンスの喉が、ヒュッと鳴った。


 彼は数ヶ月前、ベルリンの議会で、ロシアの侵攻によって家を追われた子どもたちへの支援を、涙ながらに訴えたばかりだった。


 『彼らの瞳に宿る絶望を、我々の連帯で希望に変えよう!』


 あの時の自分の言葉が、今のハンスの耳には、鋭利なガラス破片となって突き刺さる。

自分が「救う」と誓ったはずの子ども。


 その子が、ロシアの秘密警察の手によって「収穫」され、この絶海の孤島へと運ばれ、そして今...


「……あ、あ、あああああ!!」


 ハンスは自分の顔を掻きむしった。


 ヘルゲンやゴールドスタインは、ただの変態的な愛好家ではない。彼らは、ロシアが占領地で行っている「略奪」という名のビジネスの、最も上質な顧客クライアントだったのだ。


 リベラルな西側諸国がロシアを非難する一方で、その指導者リーダーたちは、ロシアから供給される「生きた肉」という供物を、エデン島という闇の市場で貪り合っている。


 ハンスは、全裸のまま床を打ち叩いた。


 自分の正義が、自分の理想が、最愛の息子ルーカスの未来までもが、少女の絶望と引き換えに、ロシアの工作資金という泥沼の中に沈められたことを理解した。


 窓の外では、何も知らないペリカンたちが、青い海を優雅に旋回している。


 ハンスは、その翼の白さが、今の自分には耐え難いほど汚らわしいものに見えていた。




 夕暮れの残光が住宅街をオレンジ色に染め上げる中、ルーカスは校門を出たときから感じていた「選ばれた者」特有の昂揚感に支配されていた。


 自宅の生垣の影、そこに停まった黒いセダンの後部座席から、プラチナブロンドの髪をなびかせたザビーネ・フィッシャーが姿を現したとき、ルーカスの世界から「家族」という概念は消失した。


 ザビーネのスチールブルーの瞳が、少年の幼い顔を検分するように射抜く。彼女の手のひらには、宝石箱のような黒いケースが載せられていた。


 「……閣下からの、直接の命令よ。ルーカス・ミュラー」


 「はい。総統閣下のためなら、何でもします」


 ルーカスの声は、十歳の子供特有の甲高さが消え、冷徹な一貫性を帯びていた。ザビーネは微笑み、ケースを開いて、ボタン型の集音器数個とUSBデバイスを少年の手に滑り込ませた。


 ボタン型盗聴器と小型隠しカメラ、ハンスの書斎のPCに差し込むだけで自動的にバックドアを構築するUSBデバイス...


「これを、パパの書斎の、一番目立たない場所に隠して。あとパパとママの寝室とリビング……そして、一番大事な任務よ。パパが島から戻ってきたら、疲れて眠っている隙に、パパのスマホにこの『特別なアプリ』をインストールするの。……いい? 誰にも見られてはいけないわ。これは、君と閣下だけの『秘密の通信機』なんだから」


 ルーカスは、その冷たい金属の感触を、勲章を受け取るかのような敬虔な手つきで握りしめた。


 命令の是非を疑う余地など、微塵もなかった。


 パパが何をしているのか、なぜ総統閣下はこの命令を下したのか、そんなことは、大義の前では些末なノイズに過ぎない。自分は今、ベルリンの片隅で、歴史の歯車を回すための「不可視の指先」になったのだ。


 「……了解しました。誰にも見られません。僕は、総統閣下の目になります」


 ルーカスは、ザビーネに教わった手順を脳内で反芻しながら、自分の家の玄関を見据えた。そこはもはや温かな家庭などではなく、攻略すべき「敵陣」であり、任務を遂行するための「戦場」だった。


 「……良い目ね。」


 ザビーネが車に乗り込み、エンジンが静かに唸りを上げる。


 ルーカスはランドセルを締め直し、一歩、また一歩と、自分自身の「聖戦」へと踏み出していった。


 そのポケットの中で、ノーマンが仕込んだ赤く小さなLEDが、まるで獲物の鼓動を待つ獣の眼のように、一度だけ不気味に点滅した。


 

 黒いセダンの重厚なドアが閉まり、防音加工を施された車内に、一瞬の真空のような静寂が訪れた。


 ザビーネ・フィッシャーは、バックミラー越しに、家へと駆けていくルーカスの小さな背中を見つめていた。その手には、先ほど彼女が手渡した、家庭という聖域を粉砕するための「毒」が握られている。


「……ふっ」


 不意に、彼女の唇から乾いた、自嘲の混じった吐息が漏れた。


(……滑稽だわ。本当に)


 わずか数ヶ月前。テレビ局のスタジオで、完璧にライティングされた「知性の祭壇」に座っていた頃の自分なら、今のこの光景をどう描写していただろうか。


『非人道的な児童煽動』

『ファシズムの再来による家庭の解体』

『倫理なきプロパガンダの極致』


 かつてのザビーネなら、持ちうる限りの語彙を動員し、冷徹で高潔な怒りをもって、目の前の自分を徹底的に弾劾したに違いない。彼女が信奉していたリベラリズムの教典によれば、今の彼女は「最も唾棄すべき、文明の敵」そのものだった。


 だが、今の彼女の指先は、その「罪」の感触に心地よい痺れすら感じていた。


 (……あの頃の私は、なんて薄っぺらな正義を、安っぽい香水のように纏っていたのかしら)


 数ヶ月前の自分が今の自分を非難する。その「かつての自分」の幻影を、彼女はスチールブルーの瞳で冷ややかに見下ろした。


 ザビーネは、自分の理性が「狂気」を「機能美」として解釈し始めていることを自覚していた。


 かつてのザビーネ・フィッシャーは、今夜、ベルリンの夕闇の中で完全に死に絶えた。


 今、ハンドルを握る彼女の心臓を動かしているのは、道徳という名の足枷から解放された、「新秩序」の冷徹な拍動だけだった。


 セダンは滑るように闇へと溶け込み、ザビーネの唇には、過去の自分への決別を示す、残酷で美しい微笑が刻まれていた。


 

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