黄金の幻影 偽りのエデン
エデン島。そこは、世界中の富と理想が結晶化したような場所だった。
切り立った断崖の上、自然の岩肌と融和するように建てられた超近代的なヴィラ。ハンスが環境保護の論文で幾度となく引用し、聖者のように崇めてきた国際NGOの理事たちや、ノーベル賞候補と目される経済学者たちが、麻のシャツを無造作に着崩し、シャンパングラスを手に笑い合っている。
「ようこそ、ハンス。君の主張や活動は、ここでも最高の評価を得ているよ」
ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲンが、完璧に整えられたプラチナ・オールバックを夕陽に輝かせ、親しげにハンスの肩を抱いた。その隣には、この島の主、ジェフ・ゴールドスタインが、爬虫類のような穏やかな微笑を湛えて立っている。
夕食会は、ハンスにとって夢のような時間だった。
「持続可能な未来」「子供たちの笑顔を守るための連帯」……。最高級のオーガニック食材と、一本数千ユーロもするヴィンテージワインが、彼らの高潔な言葉をより滑らかに、より美しく飾り立てる。ハンスは、自分の人生がこの瞬間に完成したのだと確信していた。
「パパの仕事は、世界を美しくすることなんだ」
息子ルーカスに語ったあの言葉は、正しかったのだ。自分は今、世界の中心で、選ばれし聖者たちの一員として、人類の救済を語っている。ハンスの頬は酒と昂揚感で紅潮し、彼は陶酔の極致にいた。
だが、時計の針が深夜二時を回り、水平線の彼方で月が青白く凍りついた頃、祝祭の温度が変質し始めた。
深夜二時。窓の外ではエーゲ海の波音が、まるで子守唄のように穏やかに寄せては返していた。
ヴィラのテラスに焚かれた松明の炎が、最高級の葉巻の煙と混ざり合い、幻想的な揺らぎを作っている。ハンス・ミュラーは、心身を包み込むような心地よい睡魔に身を委ねていた。ヴィンテージ・ワインの酔いと、憧れの人々に囲まれた高揚感。
(……ああ、なんて夢のような時間なんだ。僕の人生は、今日この島で、本当の意味で始まったんだ……)
ハンスが幸福な溜息をつき、重くなりかけた瞼を閉じようとした、その時だった。
――チリン、チリン。
静寂を切り裂くように、澄んだ、しかしどこか冷徹なハンドベルの音が響き渡った。
ハンスが弾かれたように目を開けると、テーブルの端に立つギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲンが、ベルを手に持ち、集まったVIPたちの注目を一点に集めていた。談笑していた環境団体の理事も、人権派の弁護士も、一斉に口を閉じ、ハンスの方へ期待に満ちた、異様なほどぎらついた視線を向けた。
「諸君、静粛に。今夜、我々の『真実の結束』に、新たな仲間が加わった」
ヘルゲンの深く、響きの良いバリトンボイスが、深夜のテラスに染み渡る。彼は隣に座るハンスの肩に、重厚な信頼を示すように、万力のような力強さで手を置いた。
「紹介しよう。ハンス・ミュラー議員だ。彼はベルリンの泥沼の中で、誰よりも潔癖に、誰よりも純粋に『未来』を語り続けてきた男だ。その彼が今夜、我々と同じ、この『エデン』の果実を分かち合う決意をしてくれた」
パチ、パチ、パチ……。
乾いた、統制された拍手が沸き起こる。
ハンスは、あまりの光栄に胸が詰まり、椅子から立ち上がろうとした。
「……光栄です。ヘルゲン先生、そして皆様。私のような若輩者が……」
「ハンス、礼を言うのはまだ早いよ」
ヘルゲンは、ハンスの言葉を遮るように、その唇に薄く、氷のような微笑を浮かべた。
「……表の世界での『理想』という名の前菜はここまでだ。さあ、ハンス。君が守りたかった『未来』の、本当の味を知る時間だ。」
ヘルゲンが放った「本当の味を知る時間だ」という言葉。それが、ハンスの理性が捉えた最後の記憶となった。
視界が、歪んだ万華鏡のようにぐにゃりと折れ曲がる。
心地よかったはずの睡魔は、一瞬にして、後頭部を鉄槌で殴られたような、暴力的な重圧へと変貌した。
(……おかしい。時間が、止まって……)
ハンスは立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。指先が麻痺し、クリスタルグラスがテーブルから滑り落ち、甲高い音を立てて砕け散った。その破片の輝きさえ、今の彼には遠い星の瞬きのように霞んでいる。
最後に口にした、あの琥珀色の最高級ワイン。
リベラリズムの理想を祝うはずだったその一滴に、逃れようのない「毒」が仕込まれていたのだ。
ヘルゲンが、動けなくなったハンスの顔を覗き込んだ。その氷のような微笑は、もはや知的な指導者のものではない。獲物が罠にかかったことを確信した、冷酷な捕食者の相貌だった。
「……ようこそ、ハンス。君の『潔癖』は、今夜ここで、永遠に死に絶える」
遠のく意識の端で、ハンスは自分が数人の無機質な男たちに抱え上げられるのを感じた。
暗い廊下、重厚な扉が開く音。そして、冷たい地下の空気が肌を撫でた瞬間、彼の意識は深い泥沼のような暗黒へと沈んでいった。
窓から差し込む朝陽は、暴力的なまでの白さで室内を射抜いていた。
ハンス・ミュラーは、重い鉛を流し込まれたような頭を抱え、シーツの海から這い出した。喉は焼け付くように乾き、鼻腔には昨夜の高級ワインの残り香と、それとは正反対の、嗅いだことのない甘い、しかしひどく不潔な匂いが混じり合って残っていた。
(……昨夜、私は……)
断片的な記憶が、割れた鏡の破片のように脳裏をかすめる。ヘルゲンの冷たい微笑。澄んだハンドベルの音。そして、奈落へと引きずり込まれるような暗転。
ふと、右手の指先に触れた質感に、ハンスの全身の毛穴が逆立った。
ぬるりとした、しかし柔らかな人肌の熱。
彼は恐怖に震えながら、ゆっくりと首を横に巡らせた。
そこには、純白のシルクシーツに埋もれるようにして、一人の女が横たわっていた。細い肢体。彼女の首筋には、生々しい指の跡のような鬱血が浮かび、目尻には乾いた涙の跡が、朝陽に光って一筋の線を引いている。
「……あ」
ハンスは、自分の口から漏れた声が、獣の呻きのように響くのを聞いた。
視線を自分自身に落とす。衣服はない。
鍛えられた清潔な肉体は、あられもなく剥き出しにされ、そこには自分が自分であることを証明する「地方議員のスーツ」も、「良き父としてのプライド」も、何一つ残っていなかった。
思考が、猛烈な速度で明滅し始める。
理性が、この状況を否定しようと絶叫する。
『これは罠だ』『私は何もしていない』『薬を盛られたのだ』。
だが、そのすべての弁明を、枕元に置かれた自らのスマートフォンの振動が冷酷に粉砕した。
無機質な起動音と共に、画面が光る。
そこには、昨夜の「儀式」が、逃れようのない高画質で記録されていた。
薬物で理性を奪われ、獣へと堕とされた自分。その醜悪な形相。悲鳴を、自分の喉が掻き消している地獄の光景。
「……う、あ……あぁぁああ!!」
ハンスはベッドから転げ落ち、大理石の床に這いつくばった。
胃の底から、昨夜の数千ユーロのワインが、酸っぱい汚物となって逆流し、高価なペルシャ絨毯を汚した。
(……終わった。私の人生は、ここで、今、死んだんだ)
ベルリンで待つ、愛する妻モニカ。
パパを「ヒーロー」だと信じて疑わない息子ルーカス。
彼らの笑顔が、今のハンスにとっては、どんな拷問よりも鋭い刃となって胸を抉った。
自分はもう、あの清潔な家の玄関を跨ぐことはできない。ルーカスの頭を撫でることも、モニカの唇に触れることもできない。
彼は、自分が「理想」という名の階段を上り、ついに辿り着いたと思っていた場所が、実は「良心を処刑するための断頭台」であったことを悟った。
「おはよう、ハンス。……『洗礼』の味はどうかな?」
部屋のスピーカーから、ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲンの、あの深みのある、しかし今は悪魔の凱歌にしか聞こえないバリトンボイスが響いた。
ハンスは全裸のまま、自分の汚れきった両手を見つめ、声にならない慟哭を上げ続けた。
エデン島。地上の楽園。
そこは、一人の聖者を、一生かけても拭いきれない「汚物」へと作り替える、世界で最も美しい地獄だった。




