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失楽園


 ノーマンの散らかったアパートに戻った三人は、安物のピザの匂いとサーバーの熱気に包まれながら、作戦会議カウンシルを開始した。


 ザビーネは、手元のタブレットに表示されたミュラー家のネットワーク構成図を睨みながら、スチールブルーの瞳を険しくさせた。


 「……閣下、ノーマン。仮にルーカス君を使ってハンスのPCやスマホに完璧なバックドアを仕掛けたとしても、そこから『エデン』の決定的な証拠が手に入るとは限らないわ」


 彼女はジャーナリストとしての冷徹な経験則から、敵の慎重さを読み取っていた。


 「あのギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲンよ? 、ハンスのような新入りの端末に、自分たちの首を絞めるような動画やリストを直接送信するとは思えない。証拠はすべて『島』か、あるいはヘルゲンの手元で厳重に管理されているはずよ」


 ノーマンは、三枚のモニターを交互に高速で切り替えながら、エナジードリンクの缶を指先で弾いた。


 「……ザビーネ、君の言う通りだよ。ヘルゲンは馬鹿じゃない。ハンスの端末に『地獄のカタログ』をダウンロードさせるようなヘマはしないさ。……でも、今回の目的はそこじゃないんだ」


 ノーマンが不敵な笑みを浮かべ、画面にハンスのSNSの非公開ログと、銀行口座の微かな動きをオーバーレイさせた。


 「僕たちが今欲しいのは、ヘルゲンを倒すための証拠そのものじゃない。ハンスを『こちら側』へ完全に引き摺り下ろすための、彼自身の『恐怖と罪悪感』の記録だ。」


 「……どういうこと?」


 「ハンスが島で何を見たか、誰と会ったか、そして何をさせられたか。……彼は必ず、その恐怖に耐えきれず、誰かに、あるいは独り言のように何かにその痕跡を漏らす。書斎での溜息、深夜の震える検索履歴、あるいは妻にすら言えない『告白』の断片……。それをルーカスが仕掛ける『眼』と『耳』で拾い上げるんだ」


 闇の中に座るヒトラーが、ゆっくりと頷いた。その瞳は、獲物を追い詰める猟師のように冷たく、澄んでいる。

 

 「……左様だ、フィッシャー嬢。我々がまず必要としているのは、ハンス・ミュラーという男の『魂の崩壊』を証明する記録だ。……ヘルゲンが彼を脅すために使っている材料を、我々もまた手に入れる。……そうすれば、ハンスは二人の主人の間で引き裂かれ、最後には自ら『真実』を吐き出す装置へと変わるだろう」


 ノーマンがエンターキーを叩くと、ルーカスの端末へ送るための、子供向け知育玩具を装った「スパイウェアの起動プログラム」が完成した。


 「……ハンスが二度目の島から戻ったとき、彼の家は世界で最も透明な檻になる。……ザビーネ、君の仕事は、その檻の中から溢れ出す『絶望』を、最高のタイミングで世界中に実況することだ」



 ノーマンはエナジードリンクを一口含み、その青白い顔に、技術者特有の冷酷な合理性を浮かべた。


 「……それにさ、ザビーネ。運が良ければ、ヘルゲンはハンスを完全に縛り付けるための『脅迫材料』だけは、彼の端末に送りつけるかもしれないよ」


 「……あえて証拠を渡すというの?」


 ザビーネが眉をひそめると、ノーマンはニヤリと笑って、モニター上にハンスの端末とヘルゲンのネットワークの相関図を展開した。


 「そう。自分たちが犯した罪の決定的な記録を、ハンスの手元に一発回答で送りつけるんだ。もちろん、強力な暗号と遠隔消去機能付きでね。『お前の手元にもこれがあるんだぞ、逃げられると思うな』っていう、最高の首輪さ。……もしそれが僕たちのバックドアに引っかかって露呈したとしても、ヘルゲンにとっては痛くも痒くもない。ハンスを『トカゲの尻尾』として切り捨てて、彼一人の異常性愛や汚職として処理してしまえば、本丸までは火が届かない仕組みになってる」


 「……なんて卑劣な。理想主義者のハンスを、最初から使い捨ての盾にするつもりなのね」


 ザビーネのスチールブルーの瞳に、激しい嫌悪が走った。


 だが、闇の中に座るヒトラーは、その冷徹なシステムをむしろ称賛するかのように、静かに、重厚な声を響かせた。


「……フム。ヘルゲンという男、実によく分かっている。……恐怖を共有し、罪を分散させ、最後には最も弱い環を断ち切る。……それが、リベラルな皮を被った統治者たちが、数世紀にわたって磨き上げてきた『保身の技術』だ」


 ノーマンは、空になったエナジードリンクの缶を指先で弄びながら、モニターの青白い光に照らされた不敵な笑みを深めた。


 「……それにさ、ザビーネ。たとえ決定的な証拠データが落ちてこなかったとしても、問題ないよ。ハンスの挙動が少しでもおかしくなれば……つまり、島で何かを『見てしまった』痕跡さえ掴めれば、あとは『はったり』一つで彼をこちら側に引きずり込める」


 ノーマンはキーボードから手を離し、椅子の背もたれに深く体を預けて、闇の中に座るあるじを仰ぎ見た。


 「……その段階になれば、僕みたいなギークの出番じゃない。そこから先は、我が総統マイン・フューラーの最も得意な分野になるはずだ。……そうでしょう?」


 ザビーネは、その言葉の意味を瞬時に理解した。スチールブルーの瞳に、ある種の戦慄と、抗いがたい期待が火花を散らす。


 「……直接の対話ダイアログ、ということね」


 「左様だ」


闇の中から、地底のマグマが鳴動するような、重厚なバリトンボイスが響いた。ヒトラーが、ゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感をもって立ち上がる。


 「人間というものは、自らの内側に抱えた『罪悪感』という名の怪物を、誰かに見透かされたと思った瞬間、自ら崩壊を始めるものだ。ハンス・ミュラー……。彼のような潔癖な理想主義者ほど、その亀裂は深く、鋭い。……私はただ、彼の瞳の奥に潜む『エデンの影』を指差してやるだけでいい」


 ヒトラーは、ノーマンが解析したハンスの憔悴しきった近影を、冷徹な眼光で射抜いた。


 「彼がヘルゲンの支配に怯え、自らの汚れに絶望しきったその時……。私は、彼がこれまで一度も経験したことのない『鋼鉄の救済』を提示してやろう。……逃げ場を失ったネズミが、自分を飲み込もうとする蛇の瞳にさえ、ある種の安らぎを見出すようにな」


 ノーマンが、再びエナジードリンクの新しい缶を「プシュッ」と開けた。


 「……最高のプロパガンダだね。自称・聖者のハンスが、一億人の前で『自分たちの正義は死んだ』と告白する。……その脚本スクリプトを書くのは、総統、あなただ」


ザビーネは、自分の指先が微かに震えているのに気づいた。


 ハンスを救うのではない。彼を徹底的に破壊し、その残骸を「新秩序」の礎石として再利用する。この三人の共同体が行おうとしているのは、もはや政治工作ではなく、一人の男の魂を解体し、再起動させるための「悪魔の外科手術」だった。


 しかしまだ解決していない問題も存在する...


 ノーマンは三枚のモニターを険しい目で見つめ、キーボードを叩く指を止めた。エナジードリンクの青白い缶を弄びながら、彼は思考の「壁」に突き当たったことを認めるように、小さく首を振った。


 「……だが、問題はその先だよ、ザビーネ。ハンスを首尾よく僕たちの『共犯者』に仕立て上げ、再びエデン島へ送り込んだとしてもだ。……島の内部から、リアルタイムでデータを送信することは、おそらく物理的に不可能だ」


 ノーマンは画面上に、島の周囲を覆う強力な電磁シールドと、独自の衛星回線による暗号化プロトコルの解析図を展開した。


 「あそこは『デジタルな真空地帯』なんだ。ロシアの最新技術が、外部への一切の漏洩を遮断している。僕自身が直接あそこに潜り込めるなら、いくつか裏道を見つける自信はあるけど、ハンスにあんな高度な電子工作をさせるのは、どう考えても無理だ。……素人の彼には、精々ボイスレコーダーを隠し持つのが関の山だろう」


 ノーマンは眼鏡を指で押し上げ、冷徹な現実を突きつけた。


 「外部との通信が完全に遮断されている以上、どうにかして、決定的な証拠エビデンスを物理的に『島の外』へ持ち出す必要がある。……それも、ヘルゲンやゴールドスタインの厳しいボディーチェックを掻い潜ってね」


 ザビーネはスチールブルーの瞳を細め、腕を組んで考え込んだ。


 「……物理的な持ち出し。USBメモリ一つでも見つかれば、ハンスはその場で『消される』わ。……ヘルゲンは、トカゲの尻尾を切る準備を常に整えているもの」


 ノーマンが頭を抱え、ザビーネがスチールブルーの瞳を曇らせて思考の迷路に沈み込んだその時、背後の闇から椅子が軋む音がした。


 ヒトラーがゆっくりと立ち上がり、青白いモニターの光を背にして、二人の「現代人」を見下ろした。その瞳には、デジタルなノイズを透かし見るような、時代を超越した冷徹な光が宿っている。


 「君たちは、あまりにデジタルな思考に毒されすぎているな、フィッシャー嬢。そしてノーマン」


 ヒトラーの声は、地底から響くような重厚な教えを含んでいた。彼はデスクに散乱した電子パーツを一瞥し、鼻で小さく笑った。


 「電磁波が遮断され、ネットワークが寸断されれば、君たちの知性はそこで死に絶えるのか? ……歴史を振り返れ。普仏戦争の包囲されたパリ、あるいは私が従軍した第一次大戦の泥濘の戦場を。……空が鉄の嵐に覆われ、無線も電線も焼き切れたとき、我々の意志を運んだのは何だったか」


 ザビーネが息を呑み、ノーマンがタイピングの手を止めて顔を上げた。


 「……まさか、閣下。……アナログな、物理的手段を?」


 「左様だ。……伝書鳩だよ」


 ヒトラーは、窓の外に広がるベルリンの夜空を見つめた。


 「鳥の小さな脳には、磁場を感じ取り、故郷へ帰るという、神が与えた不可視の羅針盤が組み込まれている。……これはロシアのジャミングも、ゴールドスタインの監視衛星も検知できん。ただの野生の鳥が海を渡っているとしか映らんのだ。……ハンス・ミュラーに、島へ向かう荷物の中に、小さな『命』を潜ませるのだ」


 ノーマンが、エナジードリンクを喉に詰まらせそうになりながら絶句した。


 「……伝書鳩。……ハンスのスーツケースに、メモリーデバイスを括り付けた鳩を仕込む……。あまりに原始的すぎて、今のセキュリティ・プロトコルには、そんな項目すら存在しませんよ」


 「……敵もまた、君たちと同じデジタルな傲慢さに溺れている。……ハンスが島で真実を掴み、その小さな翼を空へ放つ。……ベルリンのこのアパートの屋上で、我々がそれを受け取る。……これこそが、最先端の虚飾を打ち破る、『血と肉の通信』だ」


 その発言にザビーネは眉をひそめ、冷徹な現実主義者の顔で反論した。


 「閣下、確かに盲点かもしれません。ですが、今の空港の検疫や手荷物検査は、電子機器よりもむしろ『生きた動物』に対して厳しいわ。ハンスが籠に入れた鳩を持ってプライベートジェットに乗り込むなんて、ヘルゲンの秘書たちが不審に思うに決まっている……」


 その時、エナジードリンクを喉に流し込もうとしていたノーマンの動きが、彫刻のようにぴたりと止まった。分厚い眼鏡の奥で、彼の瞳が猛烈な速度で明滅するコードの羅列を追うように動き始める。


 「……いや、待てよ。鳩を『持ち込む』必要なんてないんだ」


 ノーマンは空き缶をデスクに叩きつけ、猛然とキーボードを叩き始めた。メインモニターに、エデン島の生態系調査報告書と、島周辺の気流データが展開される。


 「総統閣下の言う通りだ。アナログとデジタルの融合……これならいける。ザビーネ、エデン島には年中、熱帯の渡り鳥や巨大なペリカンが生息している。あいつらの喉袋は、ちょっとした精密機器を隠し持つには最高の『生きたコンテナ』だ」


 ノーマンの指が、設計図を画面に躍らせた。


「ハンスに、防水・防震加工を施した超小型の超広帯域無線(UWB)ビーコンを持たせる。島で決定的な瞬間を記録したあと、彼はその端末を、餌に見せかけてペリカンに飲み込ませるんだ。ペリカンが島を離れ、海上のジャミング圏外……わずか数キロ先へ飛び出した瞬間、端末内のタイマーが作動し、バースト送信で僕たちのサーバーへ全データを一気に流し込む。……鳥がどこへ飛ぼうが関係ない。データさえ空中に放たれれば、僕がそれを空中でキャッチする」


 ザビーネは息を呑んだ。


 監視カメラが捉えるのは、ただ魚を求めて飛び立つ海鳥の姿だけ。軍事衛星も、1.5GHz帯のジャミングも、羽ばたく肉体の内側に隠された「デジタルの火種」までは検知できない。


 「……『ペリカンの運び屋』。ロシアのSVR(対外情報庁)ですら、自然界の摂理をハックするなんて想像もしていないわね」


 闇の中に座るヒトラーは、その現代的な「野生の転用」を、満足げに、そして深く頷いて受け入れた。


「よろしい。かつては鳩が、今はペリカンが、我々の勝利を運ぶというわけだ。……ノーマン、その『餌』を至急完成させろ。ザビーネ、君はハンスに、どうやってその鳥に餌をやる『勇気』を持たせるか、その心理的トリガーを仕込むのだ」


 ノーマンのモニター群が、青白い光を放ちながら、エデン島の空を飛ぶ鳥たちの軌道をシミュレーションし始めた。


 しかしどうやらノーマンの思考はさらにシンプルかつ成功確率の高い方法が思い浮かんだのだ。


 ノーマンのデスクの上で、数枚の回路図が激しいタイピング音と共にゴミ箱へと放り投げられました。


「……いや、やりすぎだ。変な工作機械を持ち込ませるのはハンスには荷が重すぎる。アイツの心臓じゃ、検査場でボロを出すのが関の山だ」


 ノーマンはエナジードリンクを最後の一滴まで飲み干すと、キーボードを叩き、一つのアプリアイコンを画面の中央に躍らせました。


 「……スマホ一台だ。ハンスが持ち込むのは...中には、僕特製の『幽霊・プロトコル』を仕込んでおく。表向きはただの動画再生アプリだけど、裏では島のジャミングを常に監視し、圏外に出た瞬間、0.1秒のバースト送信で全データを一気にクラウドへ吐き出す『自律型爆弾』だ」


ノーマンは、眼鏡を指で押し上げ、下卑た、しかし極めて合理的な笑みを浮かべました。


「問題は、どうやってペリカンの胃液からスマホを守るか……。あの島なら、エリートたちが掃いて捨てるほど使い散らかしている『避妊用具』がどこにでも落ちているはずだ。ラテックスの弾力と密閉性は、短時間の防水・防酸シールドとしては最高級の素材だよ」


ザビーネは、そのあまりに卑俗で、かつ実戦的なアイデアに、スチールブルーの瞳を微かに不快そうに細めました。


「……リベラルな『楽園エデン』の象徴であるペリカンが、その欲望の残骸に包まれたスマホを飲み込んで空を飛ぶというの? ……皮肉を通り越して、吐き気がするわね」


 「ハンスには、島で手に入る『魚』の腹にスマホをねじ込ませる。施設内のキッチンには、エリートたちの晩餐のために世界中から集められた最高級の魚介が溢れているはずだし、最悪、波打ち際で打ち捨てられた死骸でも構わない。……そこに、あの島の欲望の象徴である『ラテックスの防壁(避妊具)』で包んだスマホを埋め込むんだ」


 ノーマンは、マウスを滑らせてペリカンの捕食シミュレーションを実行しました。


 「大きなペリカンにとって、スマホを飲み込んだ魚なんて、ただの少し重たいご馳走に過ぎない。……監視カメラの映像には、精神を病んだ地方議員が、孤独を紛らわすために鳥に餌を投げ与えている無害な光景しか映らない。……だが、その魚の腹の中では、僕が仕込んだ『幽霊レイス・プロトコル』が、ジャミングの壁を突き破るための秒読み(カウントダウン)を始めているんだ」


 ザビーネは、腕を組みながらその光景を脳裏に描き、スチールブルーの瞳を細めました。


 「……リベラリズムの聖域で最低な欲望の残骸に包まれた真実が、一羽の鳥に託されて空を飛ぶ。……これほどまでに醜悪で、これほどまでに完璧な『回答』はないわね」


 闇の中に座るヒトラーは、その「野生と汚濁の融合」を、聖なる儀式を承認するかのような重厚な声で受け入れました。



 「よろしい。聖なる理想を語る連中の『汚れ』を、そのまま我々の武器に転用するわけだ。……これこそが、偽善を打ち破るための最も相応しい形と言える。」


 ノーマンが、エンターキーを静かに、しかし決定的な重みをもって叩きました。


 「さあ、ハンス・ミュラー。君の息子が、君の首に『最後の晩餐』を届けに行くよ。……胃袋の中で時限爆弾が動いているとも知らずに羽ばたく、哀れな鳥たちの背中に乗せてね」


 ノーマンのアパートに充満する熱気が、作戦の全貌が組み上がると同時に、勝利を確信したような高揚感へと変わった。


 ザビーネは腕を組み、モニターに映し出されたペリカンの飛行ルートと、避妊具に包まれたスマートフォンのシミュレーション図をスチールブルーの瞳で凝視した。


 「……いけるわ。これなら完璧よ」


 彼女の声には、かつてニュース番組で特ダネを確信した時のような、鋭い熱が宿っていた。


 「デジタルな鉄壁を、あまりに卑俗でアナログな手法で食い破る。ロシアの防諜インテリジェンスも、ヘルゲンの潔癖な計算も、まさかペリカンの胃袋の中に真実が隠されているなんて夢にも思わない。……ノーマン、すぐにハンスへ渡す『アプリ』の最終調整に入って」


 ザビーネが前のめりになったその時、キーボードを叩くノーマンの手が止まった。彼はエナジードリンクを一口含み、眼鏡の奥で冷徹な、ハッカー特有の「時間感覚」を光らせた。


 「……いや、ザビーネ。焦りは禁物だ。」


 ノーマンは椅子を回転させ、浮き足立つ彼女を制するように手を上げた。


 「ハンスはまだ、自分の魂が焼かれる痛みにのたうち回っている段階だ。そんな状態の奴を今すぐ投入しても、島に降り立った瞬間に顔に出て、ゴールドスタインの私兵に即座に処理されるのが関の山だよ。……一発勝負の『収穫』は、彼が三回目、あるいは四回目以降に島を訪れた時だ」


 ノーマンは冷酷な合理性を淡々と説き始めた。


「一回目は恐怖で腰を抜かし、二回目で絶望に沈む。だが、三回目、四回目ともなれば、人間は嫌でもその地獄の風景に『慣れる』んだ。……僕たちが求めているのは、その『慣れ』だ。監視カメラの死角、警備員の交代サイクル、そしてペリカンが最も多く集まる入江の岩場……。それらをバードウォッチングのように冷徹に観察できるようになるまで、彼には地獄に通い詰めてもらう必要がある」


 闇の中に座るヒトラーが、その言葉を重厚な沈黙で肯定した。


 「……左様だ、フィッシャー嬢。……恐怖は一過性のものだが、規律は永遠だ。ハンス・ミュラー。彼には、自分が信じてきた『自由』という名の甘えを捨て、我々の意志を運ぶための、精密な『肉体の歯車』になってもらわねばならん。……ノーマン、彼が自宅に戻るたびに、その脳内に島の構造を、血管の走行のように叩き込め」


 ザビーネは、自分の早まった確信を恥じるように、一度目を閉じて深呼吸をした。


 理想主義者のハンスを、地獄に慣れさせ、死角を盗み見る「工作員」に作り替える。その残酷なまでの「忍耐」こそが、このアパートの三人が共有する、真の新秩序ニュー・オーダーのやり方なのだ。


 ノーマンのアパートを支配するサーバーの熱気と、エナジードリンクの化学的な匂い。その混沌とした空間に、石碑を刻むような重厚なバリトンボイスが響き渡った。


 ヒトラーはゆっくりと立ち上がり、モニターに映し出されたエデン島の、偽りの美しさに満ちた海岸線を杖で指し示した。


 「……よろしい。デジタルな虚飾を剥ぎ取り、人間の汚濁と野生の翼を交差させる。……これこそが、偽善に満ちた現代への、我々からの痛烈な回答だ」


 ヒトラーは、傍らに立つザビーネのスチールブルーの瞳を射抜き、その唇に薄く、残酷な弧を描いた。


 「……作戦名を命名しよう。『Das verlorene Paradies(失楽園)』だ」


 そのドイツ語の響きが狭いアパートの壁に反響した瞬間、ザビーネは背筋を氷が走るような戦慄を覚えた。


 (……失楽園。……これほどまでに相応しい終末の音はありませんわ、閣下)


 エリートたちが作り上げた、罪を隠蔽するための「エデン」。そこから、ハンスという名の汚れたアダムが、真実という名の禁断の果実を、ペリカンの翼に乗せて吐き出す。



 ベルリンの片隅にある六畳一間の帝国から、一羽の鳥と一人の男の魂を使った、世界で最も残酷な「楽園追放」の物語が、今、書き始められた。



 

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