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小さなスパイ

 ベルリン郊外、清潔な街並みが続くミュラー家の閑静な住宅街。そこに、あまりに異質で、あまりに不吉な一台の黒い車両が音もなく滑り込みました。


 ノーマンのアパートから、耳元のインカムを通じてバックアップを受けながら、ザビーネとヒトラーは「理想の聖者」ハンス・ミュラーの城を、その冷徹な眼光で解剖しようとしていました。


 「……フむ。表向きは実に慎ましい。リベラリズムの教科書通りの『良き父、良き市民』の殻だな。」


 その時、観察していたミュラー家の前に一人の少年が姿を現した、彼こそハンス・ミュラーの息子であるルーカス・ミュラー 




 「……総統、閣下……?」


 ルーカスは、背負ったランドセルの重みさえ忘れ、石化したように立ち尽くした。心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、視界が白く明滅する。目の前にいるのは、歴史の亡霊ではない。二十一世紀の冷たい外気を吸い込み、自分を射抜くような眼光で見つめる、圧倒的な「生」の重圧だった。


 ヒトラーは、少年の瞳をじっと見つめ返した。


 その瞬間、彼の脳裏を、八十年前の燃え盛るベルリンの残像が過った。


 (……フム。この真っ直ぐな、一点の曇りもない双眸そうぼう


 1945年4月、総統官邸の中庭。砲声が響き、死の臭いが立ち込める中で、彼は自分を信じて疑わない一人の少年に鉄十字勲章を授けた。泥にまみれ、あどけなさを残しながらも、自らの運命を「意志」へと捧げた、あの時の少年の面影。


 目の前に立つルーカスという少年の輪郭が、かつて自分にすべてを託して散っていった子供たちの幻影と重なり、ヒトラーの冷徹な胸の奥で、かすかな、しかし鋭い共鳴が起きた。


「……ルーカス。ミュラー議員の息子か。……良い目だ。君は、自分の主人が誰であるかを、血で理解しているようだな」


 ヒトラーの声は、冬の枯葉を揺らす風のように低く、それでいてルーカスの魂を直接掴み取るような魔力に満ちていた。


 「総統閣下! 僕は、僕は……」


 ルーカスは、パパやママには一度も見せたことのない、一人の「兵士」としての表情を浮かべた。


 「パパたちは、あなたを悪魔だと言いました。でも、僕は知っています。それは嘘だって! 僕に、何をすればいいか教えてください。……僕は、総統閣下の力になりたいんだ!」


 ヒトラーは、少年の叫びを慈しむように聞き届け、ゆっくりと頷いた。


「……任務を授けよう、若き兵士よ。……君のパパが、その『楽園』という名の地獄から何を持ち帰るか。そのすべてを、私に報告したまえ。……君のその小さな手が、この国の偽善を剥ぎ取る最初の刃となるのだ」


 ザビーネは、後部座席から発せられるその「悪魔の洗礼」を、戦慄とともに見守っていた。


 かつて少年たちを戦火へ送り出した男が、今、再び現代のベルリンで、一人の少年の魂を、その純粋さゆえに「鋭い武器」へと研ぎ澄ませていく。


「……はい、総統閣下! 僕は……裏切りません!」


 ルーカスは、自分の家の玄関を睨みつけた。そこはもはや「家族の家」ではなく、破壊すべき「偽善者の拠点」へと変わっていた。





 黒いセダンがミュラー邸を離れ、街灯が途切れ途切れに流れる夜の街道へと滑り出した。車内には、先ほどまで窓の外にいた少年の、狂信に近い熱を帯びた視線の残響がこびりついている。


 ザビーネは助手席から、バックミラー越しに後部座席の闇を窺った。そこには、彫刻のような静止を保つヒトラーの横顔がある。


 「……閣下。失礼ですが、あの少年――ルーカスとは、以前から面識がおありだったのですか?」


 ザビーネのスチールブルーの瞳は、鋭い観察眼を失っていなかった。先ほど、ヒトラーがルーカスを見つめたあの一瞬。鉄の規律で固められた彼の表情の奥底で、何かが微かに爆ぜたのを彼女は見逃さなかった。それは、現代の政治家が票田を眺める冷たい計算ではなく、もっと根源的な、遠い記憶の地層を掘り起こすような眼差しだった。


 「……否だ。フィッシャー嬢。今日、初めて会った。それ以上でも以下でもない」


 短く、拒絶に近いバリトンボイス。


 だが、ザビーネはその言葉の裏にある「空白」を感じ取っていた。


 (……いいえ、嘘だわ。あなたはあの子の中に、私たちが決して触れることのできない『過去』を見ていた)


 ザビーネは、窓の外を流れるベルリンの夜景を見つめながら、背筋に走る戦慄を隠せなかった。


 ヒトラーのあの瞳。それは、燃え盛るベルリンの灰の中で、最期まで自分を信じて散っていった無数の幼い命を――あの、あどけなさと狂気が混ざり合った「ユーゲント」たちの亡霊を、目の前の少年の輪郭に重ね合わせていたのではないか。


「……そうですか。初めてですか」


 ザビーネはそれ以上追及しなかった。


 ただ、彼女は確信した。この男にとって、ルーカスのような純粋な少年は、単なる「情報の駒」ではない。


 それは、八十年前の未完の終末を、この二十一世紀で完遂させるための「魂の引火点」なのだと。


 ザビーネ・フィッシャーは、ふとバックミラーに映った自分自身の瞳を見つめ、声に出さぬまま低く苦笑した。


 (……何てこと。私、今、本気でそんなことを考えたの?)


 さきほど、ハンスの息子ルーカスを見つめるヒトラーの横顔。その眼光の奥底に、八十年前の燃え盛るベルリンの灰の中で、最期まで自分を信じて散っていった幼いユーゲントたちの面影を読み取ろうとした自分。かつての知的で冷静な「ザビーネ・フィッシャー」なら、そんな非科学的なオカルトを口にする人間を、軽蔑の眼差しと共に一蹴していただろう。


 だが、今の彼女は違った。


 共同生活。食事、睡眠、思考のすべてにおいて「ヒトラー」であることを一秒たりとも止めないあの男の、あまりに完璧で異常な一貫性。それが、彼女の頑なだった理性を、熱を帯びた鋼のようにゆっくりと、しかし確実に溶かし始めていた。


 (……本物かどうかなんて、もう問いかけることすら無意味だわ)


 不思議と、恐怖はなかった。むしろ、歴史の教科書に閉じ込められていたはずの「本物の亡霊」が、自分の隣で息をつき、現代の欺瞞を切り裂こうとしているという事実に、彼女は抗いがたい高揚感を覚えていた。


 かつての自分が「常識」と呼んでいたものは、今や遠い異国の古びた法律のように色褪せて見える。目の前にいるこの男が「あのアドルフ・ヒトラー」であるという非現実を、あたかも明日の天気を受け入れるかのように、当然の事実として思考している自分。


 「……ハンス・ミュラー、か。彼は再び『エデン』という名の地獄へ這って行くことになるだろう」


 夜の街道を走る車内、ヒトラーの声は断定的な響きを帯びていました。ザビーネは、隣で前を見据える彼の横顔を盗み見ました。


「……確信があるのですか、閣下? 彼は、自分が信じてきた『理想』と、あの島の『醜悪な現実』の狭間で、今まさに引き裂かれているはずですが」


 「フィッシャー嬢、人間は一度味わった『共犯の味』からは逃げられん。ヘルゲンは、彼に絶望という名の劇薬を与え、それを中和するための『さらなる特権』を差し出す。……彼は、自分の汚れを正当化するために、より深く沈んでいくしかないのだ。……ノーマン、聞こえるか」


 インカムから、エナジードリンクを啜るノーマンの乾いた声が返ってきます。


「……了解、総統。ハンスのPCは今現在オフライン。あの家は、……でも、僕たちには、中に入るための『生きた鍵』がいるよね」


 ザビーネは、先ほど車の窓を叩いた少年の、あの熱狂的な瞳を思い出しました。


「……ルーカス。あの少年に、内側から『眼』を植え付けさせるのね」


「左様だ」


ヒトラーの唇に、薄く、冷徹な弧が描かれました。


 「外部からのハッキングなど、所詮は表面的なものに過ぎん。……真の制圧とは、内側から崩壊させることだ。……ノーマン、あの少年に、君の作った『小さな玩具』を届けろ。……ハンスが二度目の『聖域』への旅から戻る頃には、彼の書斎も、寝室も、そして彼の呼吸のすべてが、我々のモニターに映し出されていなければならん」


 ザビーネは、自分のスチールブルーの瞳が、鏡のようにヒトラーの意志を映し出していくのを感じました。


「……了解しました。ルーカス君に、目立たない超小型のWi-Fiブリッジと、指向性マイクを渡します。……彼は、パパが『エデン』の土産話を誰に電話しているのか、そのすべてを僕たちのサーバーへ流す『中継局』になるわけだ」


 「……若き兵士よ。君のパパを守るための『魔法の機械』だと教えれば、彼は喜んで仕掛けるだろうな」


 ヒトラーのジョークとも取れる言葉に、ザビーネは戦慄を覚えました。


 ハンスが、息子を守るためにと信じて国を動かそうとしているその背後で、その息子自身が、父の破滅を決定づける「デジタルの罠」を家中に張り巡らせようとしている。


 「……石の神殿を建てる前に、まずは『家庭』という名の城壁を崩す。……閣下、あなたの戦略は、いつも残酷なほどに合理的ですわ」


 セダンは、ベルリンの深い闇へと消えていきました。


 明日、ルーカスのランドセルの中には、教科書の代わりに、「父を裁くための眼」が忍び込まされることになる...


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