選ばれた贄
ノーマンのアパートに充満する熱気の中で、ザビーネの指先がタブレットの画面を鋭く叩きつける。
「……閣下、ノーマン。ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲンの直近の動向に、不可解な『ノイズ』が混じっています」
ノーマンがエナジードリンクを啜りながら、サブモニターにハンス・ミュラーの顔写真を映し出しました。どこにでもいるような、清潔感だけが取り柄の、真面目そうな中堅議員の顔であった。
「ハンス・ミュラー。ベルリン近郊の地方議員。……実績? まあ、公園の遊具を新しくしたり、自転車道を数キロ伸ばした程度だね。リベラル派の中では『誠実な若手』って言われてるけど、国政を動かすような器じゃない。……なのに、あのヘルゲンが、数日前から彼に執拗にコンタクトを取っているんだ」
ノーマンは、ヘルゲンの専用回線からハンスの個人携帯へと飛んだ、暗号化された通話ログのメタデータを提示しました。
「……一時間の密談。そして、その直後に発行された、一通のプライベートジェットの搭乗チケット。目的地は……例の『エデン島』だ」
ザビーネは、自室のベッドで震えながらスマホを見つめていたエリアスの顔を思い浮かべました。あるいは、この男が「次の犠牲者」であることを直感し、スチールブルーの瞳を細めました。
「……トーマス・ベックが使い物にならなくなった。だからヘルゲンは、代わりの『清潔な看板』を急いで探していたのね。……よりによって、こんなにも『隙』のある男を選ぶなんて」
闇の中に座るヒトラーは、モニターに映るハンスの顔を、憐れむような、しかし冷徹な眼差しで射抜きました。
「……フム。ヘルゲンという男の嗅覚は、実に正確だよ。フィッシャー嬢。……彼が求めているのは、有能な政治家ではない。……自分の放つ『善意』という名の毒に酔いしれ、自分が誰を傷つけているかさえ気づかぬまま、敵を攻撃してくれる、従順な『間抜け』だ。ハンス・ミュラー……。この男の瞳を見ろ。自分が世界を救っていると本気で信じ込んでいる。これほど御しやすい駒はあるまい」
ヒトラーは、ゆっくりと立ち上がり、ノーマンが解析した「エデンへの航路」を指差しました。
「ヘルゲンは、この男に『理想の実現』という甘い夢を見せ、あの島へ連れて行く。そして、そこで彼が一生をかけて積み上げてきた安っぽい正義を、ゴールドスタインの用意した『汚辱』で根底から腐らせるつもりだ。……一度泥にまみれた聖者は、二度と主人に逆らえぬ忠犬へと変わるからな」
ザビーネは、冷たい戦慄を感じながらも、手元の資料に「ハンス・ミュラー:監視対象」と深く刻み込みました。
「……閣下。彼が島で『洗礼』を受ける前に、手を打つべきでしょうか?」
「……否だ。泳がせておけ。……彼が絶望の淵に立ち、自分が信じていた世界が崩壊したその瞬間。……そこが、我々が彼の魂を、そしてヘルゲンの首筋を、一気に刈り取る『タイミング』だ。」
ハンス・ミュラーは、ベルリンの風を切り裂きながら走る黒い公用車の後部座席で、かつてない全能感に身を委ねていた。
膝の上に置かれたスマートフォンには、先刻届いたばかりの、ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲン直筆の署名が入ったデジタル招待状が輝いている。
(……ついに、扉が開いたんだ)
ハンスは、自分の端整な顔立ちが車窓に映るのを満足げに眺めた。
彼は、自分がこれまで積み上げてきた「誠実さ」という名の積み木が、ついに国家の頂点に届いたのだと確信していた。一時間1.5ユーロの駐輪場代の是非を議論していた地方議会の窮屈な日々。リベラリズムの理想を説くたびに、現実主義を標榜する古参議員たちに鼻で笑われてきた屈辱。そのすべてが、この「エデン島」への招待という最高級の免罪符によって、黄金色に塗り替えられたのだ。
「パパの仕事は、世界をより美しく、子供たちに誇れるものにすることなんだよ」
今朝、ルーカスの頭を撫でて言い残した自分の言葉を思い出し、ハンスの胸は高潔な義務感で熱くなった。
彼は、ヘルゲンという「聖者」が自分を選んだのは、自分の内に眠る混じり気のない正義を見抜いたからだと、一抹の疑いもなく信じ込んでいる。自分がこれから向かう場所が、ロシアの工作資金で潤い、子供たちの悲鳴を糧にエリートたちが醜態を晒す「去勢の祭壇」であることなど、彼の瑞々しい理想主義は、想像することさえ拒絶していた。
空港のプライベート・ターミナル。
そこには、ジェフ・ゴールドスタインが手配した、純白の機体がハンスを待っていた。
「ミュラー議員、ようこそ。……『エデン』へ。そこでは、あなたの望むすべての理想が、形を成して待っていますよ」
機内食を運ぶ客室乗務員の慇懃な笑みに、ハンスは「ありがとう」と、これ以上ないほど紳士的な、そして救いようのないほど無知な微笑みを返した。
彼は、自分が「理想」という名の香水を全身に浴びて、自らの処刑台へと昇っていることに気づいていない。




