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腐敗したコネクション

 

 ノーマンのデスク周辺は、常に十数枚のモニターが放つ不規則な極光と、高性能サーバーの冷却ファンが奏でる乾いた低周波に支配されていた。


 エナジードリンクの空き缶を乱暴に置いたノーマンが、分厚い眼鏡の奥に潜む知的な狂気をぎらつかせ、ザビーネを呼び寄せた。


「……ねえ、ザビーネ。気付いてた? 僕たちがアメリカ大統領のタイムラインに割り込むよりずっと前に、誰かが丁寧に『裏道』を舗装してくれていたんだよ」


 ノーマンの指先が鍵盤の上で踊る。メインモニターに、ドイツ国内の全ネットワークトラフィックを熱源として可視化した地図が浮かび上がった。ベルリンを中心に、サンクトペテルブルクやモスクワ、エカテリンブルクといったロシアの主要都市から伸びる無数の蒼い線が、蜘蛛の巣のようにドイツを締め上げている。


 「ロシアの対外情報庁(SVR)の仕業だ。連中、僕たちに黙って『ヴォスクレセーニエ』……つまり『復活』なんて出来すぎたコードネームを付けて、総統の演説を全世界に強制ブースト(増幅)させてたんだよ」


 「ロシアが……? なぜ、彼らがそこまでのリスクを?」


 ザビーネは、手にしていたタブレットを握りしめた。スチールブルーの瞳に動揺が走る。西側リベラル社会の不倶戴天の敵が、自分たちの背後で巨大な拡声器を回していた。その事実が持つ、国際政治上の恐るべき重みに、彼女のジャーナリストとしての理性が警鐘を鳴らした。


 しかし、背後の闇に沈んでいたヒトラーは、ピクリとも眉を動かさなかった。


 「……連中のやりそうなことだ。驚くには値せんよ、フィッシャー嬢」


 ヒトラーは、食べ終えたジャガイモの質素な皿を片付け、静かに立ち上がった。その声には怒りも、ましてや感謝も含まれていない。ただ、歴史の必然を淡々と読み上げるような、冷徹な「既視感」があるだけだった。


 「東からの風は常に冷たく、そして打算的だ。彼らは私を救世主として迎えたのではない。……ドイツという欧州の心臓部を麻痺させるための、使い勝手の良い『毒』として、私を培養しようとしたに過ぎん。彼らは、我々が西側の秩序を焼き尽くした後の灰の中から、自分たちの利益を収穫ジニェーツするつもりなのだ」


 ヒトラーはノーマンの肩越しに、ロシアのBOT網が描き出すデジタルの迷宮を冷ややかに眺めた。


 「ノーマン。……彼らの用意した『燃料』は、今のところは利用させてもらおう。だが、連中には教えてやらねばならんな。……この私が、誰かのチェス盤の『駒』として終わるような男ではないということを。……彼らが注ぎ込んだそのガソリンで、いずれ我々が、東の草原ステップをも焼き尽くす日が来ることをな」


 ノーマンが、エナジードリンクを一口含み、毒気のある笑みを浮かべた。


 ザビーネは、この狭く不潔なアパートの一室が、もはやドイツ国内の騒乱の枠を完全に超え、世界規模の情報戦の火薬庫に変貌したことを痛感していた。


 「……閣下。そうなれば、我々を支援する『ふり』をしている連中こそが、最も危険な敵になりますわね」


 「……敵を知るには、まず友の振りをさせることだ。……面白い。ヴォスクレセーニエ、か。……死者の復活を望んだのは彼らだ。ならば、その復活がもたらす『裁き』も、彼らには受けてもらわねばならんな」


 「……ねえ、総統。ロシアの連中、ただのBOT拡散だけじゃなくて、もっとエグい『保険』を大量に抱え込んでるみたいだよ」


 ノーマンは、三枚の湾曲モニターに映し出される、ロシアSVR(対外情報庁)の攻撃用トラフィックを凝視していました。彼はエナジードリンクを一気に煽り、空き缶をキーボードの横に叩きつけます。


 「……おかしいんだ。ロシアの連中、自分たちのBOT網を僕たちに貸し出しているだけだと思ってたけど、それにしては『守り』が固すぎるポイントがある」


 ノーマンの指先が、複雑なノード図を拡大しました。ドイツ国内のインターネットを「復活」の熱狂で焼き尽くそうとしているロシアのデータストリームが、ある一点においてだけ、不自然なほど迂回し、鉄壁の暗号化の層を形成していました。


 「この『特定の送金ルート』だけは、セキュリティが段違いに高いファイアウォールで包み込んで守っている。……まるで、自分たちの心臓部を守るみたいにね」


 ノーマンは眼鏡を指で押し上げ、その「守られた聖域」の深淵に、自作の解析ワームを潜り込ませました。


 数分後、暗号が剥がれ落ち、生々しいデータの羅列が吐き出されました。そこにあったのは、モスクワのシェル会社から、カリブ海にある匿名口座への、毎月数千万ユーロ単位の送金記録。


 そして、その受取人の名義。


『Beneficiary: J. Goldstein / Foundation for Global Harmony』


「ジェフ・ゴールドスタイン……!?」


 ザビーネが、モニターの端に表示された「世界調和財団」というあまりに皮肉な名前に、スチールブルーの瞳を鋭く光らせました。


 ノーマンは、ポテトチップスの粉がついた指でキーボードを叩き、さらに画面に一連の不可解な資金の流れを映し出しました。


 「ドイツの政治家や、名だたる経済界の重鎮たちの名前が、奇妙なパズルのピースみたいに繋がってるんだ。その中心にいるのが……ジェフ・ゴールドスタイン...」


 ザビーネは、その名を聞いて息を呑みました。


「ゴールドスタイン……。トーマス・ベックが心酔していた慈善事業家のこと?」


「定期的にゴールドスタインは自分の所有しているプライベート・アイランド...通称エデン島で何かしらの会合を開いているみたいだね...政財界の大物たちも出入りしているみたい。……やっぱりダメだ、総統。ゴールドスタインの『エデン島』は、軍事レベルのジャミングと独自の衛星回線でガチガチに固められてる。さっきの資金ルートよりも強固なセキュリティ...今の段階では外部の『出入りリスト』を掴むのが精一杯。内部で具体的に何が行われているのか……その決定的な証拠だけは、ノイズの向こう側に隠れて見えない」


 ノーマンのアパートに満ちるサーバーの排熱が、一瞬にして凍りついたような錯覚を覚えるほどの沈黙が流れた。


 ノーマンは、エナジードリンクの空き缶をデスクの端へ追いやり、震える指で数枚の粒子が粗い画像をメインモニターに展開した。それは、エデン島へと向かう極秘のチャーター便を、遠距離から捉えた衛星写真の断片だった。


 「……これを見てくれ。ジャミングの隙間を縫って、僕が解析レンダリングし直した一枚だ。……タラップを上がっているこの影。体格指数から推測して、成人じゃない。……子供たちの集団だ。それも、一人や二人じゃない。定期的に、身寄りのない地域から『人道支援』の名目で集められた子供たちが、あの島へ運び込まれている」


 ザビーネは、画面に映る小さな、しかし明らかな子供たちの輪郭を目にした瞬間、喉の奥がせり上がるような激しい拒絶反応に襲われた。スチールブルーの瞳が、恐怖と嫌悪で激しく見開かれる。


 「……子供たち? ……あんな絶海の孤島に、これほどの人数を? 救援活動だなんて、そんな嘘……」


 その時、闇の中からヒトラーの、地底から響くような重厚な声が重なった。


「……案ずるな、フィッシャー嬢。具体的な証拠など、今の私には不要だ。……人間という生き物の、底なしの醜悪さなど、私は嫌というほど見てきた。……絶海の孤島、法が届かぬ聖域、そして選ばれた特権階級。その三つが揃えば、そこで行われるのは決まっている。……弱者を、自らの歪んだ欲望を満たすための『素材』として消費する、救いようのない饗宴だ」


 ヒトラーはゆっくりと立ち上がり、モニターの青白い光に照らされた自身の冷徹な影を壁に落とした。


「私がかつて見てきた、退廃した貴族や腐敗した高官たちが、地下室で貪っていたものと何ら変わりはせん。……そこにあるのは『神の楽園エデン』などではなく、人間の皮を被った獣たちの、吐き気を催すような『食卓』だよ。……彼らは、未来という名の生贄を喰らって、自らの延命を謳歌しているのだ」


 ノーマンが、さらに出入りリストをスクロールさせた。そこには、あの男の名前が刻まれていた。


『Visitor ID: TB-0902 / Name: Thomas Beck』

「……トーマス・ベック」


 ザビーネは、その名を目にした瞬間、自分の血が沸騰するような激しい怒りを感じた。プラチナブロンドの髪の下で、彼女の額に青筋が浮かぶ。


 視界が歪むほどの、激しい目眩が彼女を襲う。喉の奥から、酸っぱい胃液のようなものがせり上がってくるのを必死に抑え込んだ。


 (……ああ、なんてこと。私は、この『汚物』と同じ空気を吸っていたというの?)


 脳裏に、数日前、局のラウンジでトーマスと交わした会話がフラッシュバックする。


 プラチナブロンドの彼女を、値踏みするように、品性のない湿り気を帯びた目で見つめていたあの男。


 『ザビーネ……君と勝利の美酒を酌み交わす準備はできている』


 あの時、腰に回されようとした彼の手。香水の匂いの奥に隠しきれなかった、特権階級特有の腐臭。


 (『子供たちの未来のために』。……よくも、あの口で。あの、欲望に塗れた汚れた口で、そんな言葉を吐けたものだわ)


 ザビーネは、自分の右腕を、あたかも毒虫に這い回られたかのような感覚で擦った。


 あの日、彼に誘われたこと、そしてその誘いを「仕事」という建前で受け流してしまった自分自身にさえ、殺意に近い嫌悪が込み上げる。


 彼のあの笑顔、あの知的な振る舞い、あの「ドイツの良心」を気取った演説。そのすべてが、エデン島という名の地獄で子供たちの悲鳴を買い叩くための、醜悪な塗り絵に過ぎなかったのだ。


「……気持ち悪い」


 ザビーネは、スチールブルーの瞳を激しく震わせ、絞り出すように呟いた。


 彼女の知性は、もはやトーマス・ベックという存在を「人間」として認識することを拒絶していた。


 ノーマンのデスクを囲むサーバーラックの排熱が、熱帯のような淀んだ空気を吐き出している。ザビーネはその熱気の中に立ち尽くし、脳内に散らばった忌まわしい記憶の破片を、震える手で繋ぎ合わせていた。


(……ベック財団。人道支援。そして、あの男が勝ち誇ったように口にした、守護者の名)


 ザビーネの脳裏に、かつて仕事の付き合いで同席した酒の席、カクテルグラスの縁をなぞりながら、下卑た選民意識を隠そうともせずに囁いたトーマスの声が蘇る。


『ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲン氏がいる。彼が、私の政界進出の道筋をすべて整えてくれているんだよ』


 リベラリズムの権化、ドイツの知性と称えられるあの「聖者」の名。もし、トーマスの背後にいたのが彼だとしたら。そして、そのトーマスがこの「地獄のリスト」の常連なのだとしたら。


 ザビーネはまだ、背後の闇に座るヒトラーにこの疑念を口にする勇気はなかった。それが「事実」であることの恐怖に、彼女の理性が最後の抵抗を試みていたからだ。彼女は一歩、モニターの壁へと歩み寄り、エナジードリンクを煽っているノーマンの肩を掴んだ。


 「……ノーマン。もう一度、その出入りリストを洗って。検索ワードは『ヘルゲン』。ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲン……その名があるかどうか、今すぐ確かめて」


 「ヘルゲン? あの政界の聖人君子を? まさか……」


 ノーマンは鼻で笑いながらも、キーボードを叩いた。分厚い眼鏡の奥の瞳が、高速で流れる文字列を追う。検索クエリが走り、データベースの深淵が、沈黙の回答を吐き出した。


『Matches Found: 1 / Visitor Name: G. v. d. Helgen / Status: Platinum/V.I.P.』


「……あったよ。ザビーネ」


 ノーマンの声から、いつもの軽薄な響きが消えた。彼は椅子を回転させ、青白い顔で彼女を見上げた。


 「島に出入りした回数が一回や二回じゃない...彼はこの島の『共同所有者コー・オーナー』に近い扱いを受けている。」


 ザビーネは、胃の底からせり上がる猛烈な不快感に、思わず自分の口元を強く押さえた。スチールブルーの瞳が、激しい戦慄と、それを上回る怒りで燃え上がる。


 (……ああ、なんてこと。この国を統治しているのは、理想でも多様性でもない。エデン島という名の肥溜めで、子供たちの叫びを共有し、互いの弱みを握り合う『獣の結束』だったのね)


 トーマスが財団を立ち上げようとしていたのは、慈愛のためではない。ヘルゲンという巨大な蜘蛛の巣の一部として、この汚れたシステムを「慈善」という名の香水でコーティングするためだったのだ。


 「……フィッシャー嬢。何か面白い『繋がり』でも見つけたかね」


 闇の中から、ヒトラーの、すべてを見透かしたような重厚な声が響いた。


 ザビーネは振り返り、真っ直ぐにその声の主を見つめた。彼女の瞳からは迷いが消え、代わりに、この偽善に満ちた世界を根底から焼き払いたいという、狂気的なまでの破壊衝動が宿っていた。


 「……ええ、閣下。……この国の『正義』の心臓部に、最も醜悪な癌細胞を見つけましたわ」



 


 





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