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仮面の不在

 

 ザビーネが秘書官としてこのアパートに詰め始めて数日間。彼女が最も衝撃を受けたのは、世界を熱狂させる「一億人の主」が、日々の生活において驚くほど「無」であることでした。


 ノーマンのデスクの脇、モニターの青白い光が届かないキッチンの片隅で、ヒトラーは質素な食事を摂ってた。


 それは、環境意識の高い富裕層向けの、一杯15ユーロもする高級ヴィーガン・ボウルではありませんでした。近所のディスカウントスーパーでノーマンが買ってきた、1ユーロのキャベツと、数個のジャガイモ。それをただ茹でただけの、味気ない皿です。


 「……閣下。失礼ながら、ノーマンの口座には広告収入が積み上がっています。もっと……お身体を労わるような、良質な食事を摂ることも可能なはずですが」


 ザビーネがスチールブルーの瞳に戸惑いを浮かべて問いかけると、ヒトラーはフォロワーたちを熱狂させるあの眼光で、静かに彼女を見上げました。


「フィッシャー嬢。私は、美食のために戻ってきたのではない。……胃を満たす快楽に溺れる者は、いずれその肉体の弱さに支配される。私は、このドイツという巨大な生命体の『意志』そのものでなければならんのだ。……一人の人間としての欲望など、今の私にはノイズに過ぎんよ」


 彼は酒も飲まず、タバコの煙も嫌いました。


 ノーマンがエナジードリンクの空き缶を転がし、ピザの箱を積み上げる横で、ヒトラーは古びた軍服にアイロンをかけ、常に背筋を伸ばし、一分の隙もない静寂を纏っています。


 ザビーネは、かつて討論したトーマス・ベックを思い出していた。彼は「人道や平等」を説きながら、裏では贅沢な日々を過ごしていた。


 だが、目の前のこの男はどうでしょう。


 彼は、自分自身の肉体を、新秩序を成し遂げるための「冷徹な機械」として完璧に管理している。


 (……この人は、自分という個人を殺しているんだわ)


 ザビーネは、自分のプラチナブロンドの髪を直し、震える手で彼に、物件の候補リストを差し出しました。


 富にも、酒にも、女にも動じない。


 ただ「石の美学」と「国家の再起動」という巨大な理想だけに燃えるその禁欲は、現代の享楽にふやけた人々にとって、どんな武力よりも恐ろしい破壊力を持っていた。


 ノーマンのアパートの狭いキッチン。サーバーの排熱で乾燥した空気の中に、ザビーネが持ち込んだ微かな香水の香りと、茹でたジャガイモの素朴な匂いが混じり合ってた。


 ザビーネは、かつてテレビ局の喫煙所で、リベラルな理想を語りながらチェーンスモーキングを繰り返していたトーマスやマルクスたちの姿を思い出していました。彼らにとってニコチンは、言葉の空虚さを埋めるための不可欠な道具でした。


 ヒトラーは質素なフォークを置き、ザビーネの立ち姿を、そのスチールブルーの瞳でじっと見つめました。


 「……フィッシャー嬢。君がそのプラチナブロンドの髪に、不潔な脂ぎった煙の匂いを纏わせていないことを、私は心から称賛するよ」


 ヒトラーは、珍しく口角を微かに上げ、皮肉めいた、しかし親密な響きを含むジョークを口にしました。


 「今の堕落したドイツにおいて、過去の栄光と比べて数少ない『進歩』と言えるのは、諸君がその肺を自ら汚す習慣を捨てつつあることだ。……皮肉なものだな。かつての私に忠実であったはずの親衛隊員や閣僚たちですら、私がどれほど健康を説き、厳命を下しても、物陰に隠れて毒を吸うのをやめようとはしなかったというのに」


 彼は遠い目をして、かつてのベルリンの地下壕やベルグホーフでの、煙に巻かれた会議の光景をなぞるように語りました。


 「ゲーリングも、ヒムラーも……彼らは国家への忠誠を誓いながら、自分の肉体への欲望には勝てなかった。私の前では直立不動でいながら、一歩部屋を出れば、隠し持った葉巻に火をつけていたのだ。……それに比べれば、フィッシャー嬢、君という『個』の規律は、かつての私の側近たちよりも遥かに洗練されているよ」


 ザビーネは、その言葉に背筋が震えるような感覚を覚えました。


 一億人を熱狂させる独裁者が、かつての「英雄」たちを引き合いに出し、自分という一人の女性の「禁欲的な美徳」を認めている。それは、どんな高価な宝石を贈られるよりも、彼女のジャーナリストとしてのプライドと、女としての自尊心を深く、鋭く愛撫しました。


「……光栄です、閣下。……私は、自分の言葉が煙で濁るのを好まないだけです」


「……どうやら私は、人の嗜好という矮小な城壁を崩すことに関しては、およそ才能がないようだよ、フィッシャー嬢」


 彼は、デスクで三枚のモニターを睨みながら、毒々しい色の缶を一気に飲み干しているノーマンの背中を指差しました。


 「あそこに座っているノイマンを見たまえ。私は彼と出会ってからというもの、彼にその『エナジードリンク』なる、得体の知れない化学物質の塊を摂るのをやめるよう、折に触れて説得を試みている。……心臓の動悸が軍鼓のように高鳴り、脳が不自然に熱を帯びる。そんな毒を煽って、どうしてまともな思考ができるというのだ? だが、彼は聞く耳を持たん。むしろ、それがないと世界と『同期』できないとさえ言い張る始末だ」


 ヒトラーは、かつての側近たちが隠れてタバコを吸っていた思い出と、目の前の現代の若者を重ね合わせ、深く首を振りました。


 「……一億人の民衆を演説で煽動し、国家の進路を180度転換させる。……それよりも、一人の若者に不健康な飲み物をやめさせることの方が、よほど難しい。政治という巨大な彫刻を刻むよりも、個人の『舌の癖』を矯正することの方が、私にとっては難事業だというわけだ」


 その言葉に、デスクのノーマンが空き缶を「プシュッ」と小気味よい音を立てて開け、振り返りもせずに答えました。


 「……無理だよ、総統。これは僕にとっての『ガソリン』なんだ。……石を積んで本部を建てるのが総統の譲れないこだわりなら、このカフェインの奔流が、僕にとってのそれなのさ。」


 ヒトラーはザビーネの方を向き、お手上げだというように微かに肩をすくめました。


 「……見たかね? 意志の力をもってしても、あのケミカルな誘惑には勝てん。……君がタバコを吸わないという、その一点だけで、私は君をあそこに座る天才よりも遥かに信頼に値する『自制の士』だと評価しているのだよ」


 ザビーネは、この「一億人の主」が、一人の引きこもりの青年の不健康な習慣に本気で手を焼いているという、あまりに世俗的で、しかしどこか親密な光景に、思わず口元を綻ばせました。



 共同生活が始まって数日、ザビーネ・フィッシャーは、ノーマンのアパートという「あまりに卑俗な現実」の中で、「あまりに非現実的な一人の男」を観察し続けていた...


 彼女のブルーの瞳は、どんな些細な綻びも見逃さないジャーナリストのそれでしたが、観察すればするほど、彼女の理性は悲鳴を上げ始めていました。


 ザビーネは、泊まり込みで業務に取り組んでいた数日前の深夜、ふと目が覚めてリビングを覗いた時の光景が忘れられなかった。


 ノーマンが椅子でいびきをかいて寝落ちし、モニターのバックライトだけが明滅する静寂の中。ヒトラーは、誰に見られているわけでもないのに、古びた椅子に浅く腰掛け、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、地図を凝視していました。


 (……この人は、一秒たりとも『ヒトラー』であることをやめない)


 もしこれが俳優なら、カメラが回っていない場所では煙草を吸い、溜息をつき、背中を丸めて「素の人間」に戻るはず。だが、彼は違いました。朝の質素な食事の最中も、ノーマンへの短い指示の最中も、そして一人で沈黙している時でさえ、その一挙手一投足、眼光の鋭さ、言葉の選び方に至るまで、寸分の「役作り」の痕跡がないのです。


 (……まさか、本物? ……いいえ、そんな非科学的なことはありえないわ)


 ザビーネは、自分のリベラルな理性が提示する「極めて精巧な狂人」という結論と、目の前の圧倒的な「存在感」の間で激しく揺さぶられていました。


 もし、1945年に死んだはずの男が、その意志と記憶を持ったまま、2025年のベルリンに受肉していたとしたら...


ザビーネは、手元のタブレットからふと目を上げ、キッチンの硬い椅子に座る男の後ろ姿を見つめました。その背筋は、定規で引いた線のように垂直で、微塵の弛緩も許していません。


(……私は何を考えているのかしら)


ふいに脳裏をよぎった「本物ではないか」という非科学的な仮説に、彼女は自嘲気味な笑みを漏らしました。


プラチナブロンドの毛先を指で弄びながら、彼女は自分の理性が、この数日間でどれほど劇烈な「毒」に冒されたかを自覚しました。21世紀の高度な教育を受け、論理とエビデンスを至上としてきた自分が、目の前の男のあまりに徹底された「一貫性」の前に、オカルトじみた幻想を抱き始めている。


(……本人に聞いたところで、答えは決まっているわね)


「閣下、失礼ですが、あなたは1945年に地下壕で亡くなった、あのアドルフ・ヒトラーその人なのですか?」


そんな問いを投げかけたとして、返ってくるのは、あの湿り気を帯びた、拒絶を許さないバリトンボイスでの「肯定」以外にあり得ない。彼は一度たりとも、自分が「役者」だとは言わなかった。最初から、呼吸をするように当然の事実として「総統」であり続けている。


(聞くだけ無駄だわ。……でも)


ザビーネは、ブルーの瞳を細めました。


もしこれが世界を欺く壮大なパフォーマンスなのだとしたら、その「役作り」に人生の全時間を捧げる狂気こそが、もはや「本物」以上の価値を持っている。そして、もし万が一、億に一つの確率で、歴史の裂け目から本物が這い出してきたのだとしたら……。


(……これほど面白い冗談は、歴史上どこにもない)


彼女は、自分がかつていたテレビ局の、あの安全で退屈な正義の檻を思い出し、今のこの「狂気」に満ちたアパートの空気を深く吸い込みました。



 

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