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真実への目覚め


 テレビ局の最上階にあるチーフ・プロデューサー、マルクスの部屋は、吸い殻の山と冷え切ったコーヒーの苦い匂いに満ちていた。窓の外に広がるベルリンの夜景は、『ベルリン・フォーラム』が引き起こした熱狂の余韻を、冷たい闇で塗りつぶそうとしている。


 デスクの向こう側で、ザビーネ・フィッシャーは一分の乱れもないプラチナブロンドを夜光に輝かせ、氷のような静謐さを纏って立っていた。彼女が指先で滑らせた白い封筒が、マホガニーのデスクを滑り、マルクスの指先に触れて止まる。


 「辞表よ、マルクス。今この瞬間を以て、私は『ザビーネ・フィッシャー』という虚飾を脱ぎ捨てるわ」


 マルクスは、深く、胃の底から絞り出すような溜息をついた。彼は充血した目で、かつての戦友を見上げた。


 「……ザビーネ、頼む。早まるな。あの『頷き』の件なら、私が盾になる。あれは高度な演出だった、あるいは敵の欺瞞を誘い出すためのキャスターとしてのテクニックだった……そう声明を出せば、放送倫理委員会だって、スポンサーだって納得させられる」


 「いいえ、マルクス。あれは演出でも、テクニックでもなかった。……私の『本能』だったのよ」


 ザビーネの声は、冬の朝の空気のように澄んでいた。


「あなたは言ったわね、歴史が始まるか終わるかだと。……私には見えたのよ。トーマス・ベックのような、中身のない空虚な正義が、あの男の放つ『鋼鉄のロジック』の前に粉々に砕け散る瞬間が。……私はもう、あの欺瞞に満ちた黄金の椅子に座って、台本通りの『中立』を演じることはできない。そんなのは、知性に対する冒涜だわ」


「馬鹿を言うな! 君はドイツで最も成功したキャスターだ。この局の顔なんだぞ! 辞めてどうする? ネットの泥沼に身を投じて、あの亡霊の広報官にでもなるつもりか!」


 マルクスの言葉は、かつての教え子に対する悲痛な警告であり、彼が守り抜いてきた「良識」という名の防波堤の最後の叫び...


 ザビーネは、ドアノブに手をかけたまま足を止めました。彼女は振り返らず、夜の闇に沈むベルリンの街並みを見つめたまま、静かに、しかし鋼のような硬さを持つ声で答えた。


 「……広報官? いいえ、マルクス。私はまだ、あの男を信じたわけじゃないわ」


 彼女のプラチナブロンドが、月光を反射して冷たく輝きました。


 「でも、あのアドルフ・ヒトラーを名乗る男……。彼が発する言葉の一つひとつが、これまで私たちが積み上げてきた『正解』を、いとも容易く粉砕していく。その圧倒的な事実を前にして、元の席に座り続けることなんて、私にはできない」


 ザビーネはゆっくりと顔を巡らせました。そのスチールブルーの瞳には、かつてのニュースキャスターとしての冷静な観察眼と、未知の深淵を覗き込もうとする狂気的なまでの知的好奇心が混ざり合っていました。


 「私が広報官になるのか、それとも彼の破滅を見届ける証人になるのか……それは、まだ分からないわ。ただ、私は『彼という現象』の最も近くで、その正体を見極めたいの。彼が現代に産み落とされた悪魔なのか、あるいは、私たちが待ち望んでいた残酷なまでの『真実』なのかをね」


 「ザビーネ……君は、火に飛び込む蛾のようなものだ」


 マルクスの力ない言葉を背中で聞きながら、ザビーネは一歩、外の世界へと踏み出しました。


 「ええ、そうかもしれないわね。でもマルクス、少なくとも、このテレビ局の温室の中で、枯れていくのを待つよりはマシよ」


 カチリ、とドアが閉まる音。


 それは、彼女が「報道」という名の安全な檻を捨て、実体のない亡霊と、一億人の熱狂が渦巻く「現実という名の戦場」へ降り立った合図でした。





 ザビーネは、プラチナブロンドの髪をスカーフで隠し、目立たないトレンチコートの襟を立てて、軋む木製階段を上っていました。一段ごとに、安っぽい洗剤と湿った埃、そして誰かが焼いたソーセージの匂いが鼻を突きます。


 (……この場所なの? 全世界を震撼させている、あの一億人の熱狂の源泉が)


 彼女が三階の突き当たり、ペンキが剥がれ落ちた「302号室」の前に立ったとき、内側から電子ロックが解錠される、場違いに鋭い音が響きました。


 ドアを開けると、そこは異様な空間でした。


 窓は遮光カーテンで完全に塞がれ、昼間だというのに深夜のような暗闇。唯一の光源は、部屋を埋め尽くす十数枚のモニターが放つ、目に刺さるような青白い光だけです。


 「……遅いよ。放送局の人間は、いつもそんなに足取りが重いのかい?」


 モニターの要塞の中から、猫背の青年――ノーマンが顔を出しました。青白い肌に、度を越して分厚い眼鏡。彼の指先は、絶え間なくキーボードを叩き、一億人のタイムラインをリアルタイムで操作していました。

 

 「我が総統がお待ちかねだよ。」


 ノーマンが顎で示した部屋の奥、影が最も濃い一角。


 そこには、安物のパイプ椅子に腰掛け、微動だにせずモニターを見つめるヒトラーの姿がありました。彼は、ザビーネが討論番組で対峙したときよりも、さらに深く、暗い「意志」を纏ってそこにいました。


 「フィッシャー嬢。……よく来たな。君が捨てた豪華なスタジオに比べれば、ここはあまりに狭く、不潔だろう」


 ヒトラーがゆっくりと立ち上がりました。彼が歩くたびに、床に這い回る無数の配線コードが、蛇のように微かな音を立てます。


 「だが、ここには『実体』がある。君が昨日まで語っていたのは、誰かが書いた台本と、空虚な数字だ。だが、ノーマンのこの指先一つで、今この瞬間もベルリンの路上では若者が叫び、アメリカの大統領が拳を振り上げている」


 ヒトラーはザビーネの目の前に立ち、そのスチールブルーの瞳を真っ直ぐに見据えました。


 「私は引っ越しを検討している。我々には、大衆を平伏させるための『石の美学』が必要だ。……君には、そのプロパガンダの象徴となるべき新本部の選定と、私の意志を世界へ届けるための『声』を任せたい。……秘書官として、私の隣に座る覚悟はあるかね?」


 ザビーネは、ノーマンが叩き出す猛烈なデータの奔流と、目の前の男が放つ圧倒的な熱量に、眩暈を覚えました。


 リベラルな文明の象徴であった彼女が、今、ベルリンの底辺にあるゴミ溜めのようなアパートで、世界を再起動させるための「共犯者」になろうとしている。


 「……はい。見極めると申し上げましたもの。……この場所から、何が始まるのかを」


 ザビーネがそう答えた瞬間、ノーマンのモニター群が一斉に、新秩序の紋章を映し出しました。


一億人の孤独な光が、ついにザビーネという「知性」と結びつき、実体としての「帝国の家」を建て始めようとしていたのです。




 ノーマンのアパートの狭い一室。サーバーの排熱と埃が混じり合う混沌とした空間で、ヒトラーはゆっくりと立ち上がる。


 彼は窓の遮光カーテンを僅かに指で押し開き、そこから見えるベルリンの無機質な高層ビル群を、冷徹な、しかしどこか哀れむような目で見つめました。


 「……見なさい、フィッシャー嬢。今のベルリンにあるのは、ガラスと鉄の『空虚』だ。個性のない箱が並び、人々はその中で魂を摩耗させている。これではいかん。建築とは、ただの容れ物ではない。それは、民衆の意志を一つに束ねる『石の言霊』でなければならんのだ」


 ヒトラーは、ノーマンのデスクに散乱していたタブレットの一枚を手に取り、画面に映し出されたベルリンの地図を鋭く指差しました。


 「私は、遠くない将来、再び政治の表舞台に立つ。新しきドイツ、新しき秩序のための政党を立ち上げる。……その時、我々に必要なのは、借り物のオフィスビルではない。……見た瞬間に、民衆がその圧倒的な威厳に膝を屈し、吸い込まれるように入党届を書いてしまうような、『魂の帰依処』だ」


 彼はザビーネの方へ向き直りました。その瞳には、かつてアルベルト・シュペーアと共に巨大な模型を囲んで語り明かした時のような、狂気的なまでの情熱が宿っていました。


 「建物そのものが、我々の思想を語らねばならん。重厚な石材は歴史の継続を、天を突く支柱は不屈の意志を、そして広大なホールは個が全体へと溶け込む歓喜を体現する。……通りかかる市民が、その門を潜らねばならないという抗いがたい衝動に駆られるような……。美しすぎて恐ろしく、巨大すぎて神々しい。そんな建物を、私は求めている」


 ヒトラーは、驚きに目を見開くザビーネに一歩近づきました。


 「私は建築には妥協せんよ。建物は、演説よりも長く生き続け、未来の若者たちに我々の勝利を語り継ぐのだから。……フィッシャー嬢、君には私の『美学』の代弁者となってもらいたい。リベラルな連中が作る、あの安っぽいプレハブ小屋のような民主主義を、石の重みで圧殺する。……そんな本部を、私と一緒に建てようではないか」


 ノーマンが、タイピングの手を止めてニヤリと笑いました。


「……総統、面白いですね。僕がネット上に作る『デジタルな帝国』に、本物の『石の殻』がつくわけだ。……ザビーネ、君のセンスで、ベルリンで一番不敵な『城』を探してくれよ」


 ザビーネは、自分のスチールブルーの瞳が、ヒトラーの語る「石の夢」に酔いしれ始めているのを自覚しました。


 一億人の登録者という「見えない力」が、ついにベルリンの硬い大地に、巨大な影を落とそうとしていました。

 



 

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