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Da unten im Tale

 

 ベルリンの空は、エリアスの心そのもののように低く、鉛色の雲に覆われていた。


 大学へ向かう地下鉄の駅の前で、立ち止まった。胸の上には、昨夜から解けない氷のような重しが居座っている。人生で初めて、彼は講義をサボることを決めた。今の自分には、教授が語る「中立な政治学」も、ミアが信じる「混じり気のない正義」も、鼓膜を滑り落ちていくだけの空虚な記号でしかない。


 彼は当てもなく、湿り気を帯びたベルリンの街を歩き始めた。


 ブランデンブルク門へと続く大通りに差し掛かったとき、不快な喧騒が静寂を破った。


 「独裁者の再来を許すな!」


 「自由なドイツを守れ!」


 小規模だが、切迫した叫び声を上げるデモ隊。彼らは「NO NAZIS」と書かれた色鮮やかなプラカードを掲げ、ネットの海から溢れ出した「あの男」の実在する脅威を必死に押し留めようとしていた。


 (……ああ、やっぱり、現実に現れたんだ)


 エリアスは足を止め、遠巻きにその光景を眺めた。画面の中の数字やドットでしかなかった対立が、今、目の前の石畳の上で、生身の人間たちの怒号として具現化している。


 すると、デモ隊の行く手を阻むように、数人の若者たちが立ちはだかった。彼らはプラカードこそ持っていないが、その瞳にはエリアスが鏡の中で見たのと同じ、あの「冷徹な光」が宿っている。ヒトラーのフォロワーたちだ。


「おい、いつまで古い悪夢に怯えてるんだ!」


「お前たちの『自由』こそが、俺たちを飢えさせているんだぞ!」


 フォロワーの一人がデモ隊のプラカードを掴み、引き裂こうとする。突き飛ばし合いが始まり、パトカーのサイレンが遠くから近づいてくる。罵声と肉体がぶつかり合う音。


 エリアスは、その小競り合いから視線を外すことができなかった。


 デモ隊が叫ぶ「正義」は、あまりに古臭く、無力に見えた。一方で、彼らに食ってかかるフォロワーたちの怒りは、あまりに生々しく、破壊的なエネルギーに満ちている。


(ミア、見て。君が信じている『平和な対話』なんて、もうどこにもないんだ)


 エリアスは、胸の重しがさらに深く沈み込んでいくのを感じた。


 自分はどちらの側にも立てない。デモ隊の偽善も、フォロワーたちの狂気も、どちらも自分の一部であり、同時に自分を拒絶している。


 彼は、乱闘が本格化する前に背を向けた。


 逃げ出したのではない。ただ、このベルリンの路上に現れた「新秩序」の胎動が、自分の想像以上に深く、冷酷に世界を侵食し始めていることに、耐えられなかっただけだ。


 ポツリと降り出した冷たい雨が、彼のブロンドの毛先を濡らしていく。


 冷たい雨がベルリンの石畳を濡らし、エリアスの吐く息は白く濁っていた。


 デモ隊の怒号から逃れるように小走りで角を曲がったその瞬間、目の前に現れた巨大な影を避けることはできなかった。


 「うわっ!」


 鈍い衝撃と共に、エリアスは地面にしりもちをついた。ぶつかったのは、彫刻のようにいかつい体躯をしたアフリカ系の男性だった。弾け飛んだエリアスのスマートフォンが、水たまりの上を滑り、不運にも画面を上にしてその男性の足元で止まった。


 最悪なことに、自動再生されていた画面には、あの「ちょび髭の男」が、眼光鋭く演説する姿が鮮明に映し出されていた。


「……おい。これは何だ?」


 男性の低い声が、雨音を切り裂いた。彼はスマートフォンを拾い上げると、画面をエリアスの顔の前に突きつけた。そこにはナチスの亡霊と、それを見つめていた「支持者」であるエリアスの構図が完成していた。


「あ、違うんだ、これはただの……」


「何が違うんだ? 貴様、俺たちをこの国から追い出したいのか!?」


 男性の瞳に激しい怒りが宿る。エリアスは弁明しようと言葉を探したが、恐怖で喉が引き攣り、まともな言葉が出てこない。


 「違う、僕は……」


 「黙れ、レイシスト!」


 怒りに任せた硬い拳が、エリアスの頬を直撃した。視界が火花を散らし、彼は再び冷たい地面に叩きつけられた。追い打ちをかけるように男性が足を持ち上げたその時――。


 雨のしぶきがアスファルトを叩く音が、一瞬、真空に吸い込まれたかのように静まり返った。


 「そこまでになさい。警察よ」


 路地の奥から響いたその声は、女のものにしては低く、そして研ぎ澄まされた鋼鉄のような冷徹さを帯びていた。


 地面に這いつくばり、泥水と鉄の味のする血を吐き出していたエリアスが、霞む視界を無理やり持ち上げる。視線の先に現れたのは、雨を撥ね退ける漆黒のトレンチコートを纏った、長身の女性だった。


 彼女は迷いのない、規律そのもののような足取りで近づいてくる。街灯の鈍い光が、濡れたプラチナブロンドを白銀に輝かせ、その下に潜むスチールブルーの瞳は、燃え盛る怒りを露わにする大男を、まるで動かない標的を検分するかのように射抜いていた。


 大男が威嚇するように一歩踏み出す。だが、彼女は眉一つ動かさず、腰のホルスターに添えた指先だけで、その場の空気を支配した。


「……ベルリン市警、クララ・ヴァイス警部補。暴行罪の現行犯で拘束してもいいのだけれど? それとも、ここで『法』と『秩序』のどちらに従うか、今すぐ選ぶかしら」


 彼女が放つ圧倒的な威圧感――それは公権力の執行者というよりは、獲物の急所を熟知した捕食者のそれに近かった。大男は、彼女の瞳の奥にある底知れぬ「何か」に本能的な恐怖を感じたのか、毒づきながら闇の中へと消えていった。


 雨は激しさを増し、路地裏の汚れた水たまりがエリアスの頬を冷たく刺していた。


 殴られた箇所の熱い痛みと、鼻腔に広がる鉄錆のような血の匂い。エリアスが泥の中に散らばった意識をかき集めようとしたとき、視界に滑り込んできたのは、軍靴のような硬い音を立てて止まった漆黒の編み上げブーツだった。


「立てるかしら」


 頭上から降ってきたのは、憐れみなど微塵も含まれていない、氷の結晶のような声だった。


 エリアスが顔を上げると、そこには雨を弾く漆黒のトレンチコートを纏った長身の女性が立っていた。濡れたプラチナブロンドが街灯の下で白銀に光り、その影に潜むスチールブルーの瞳は、まるで行き倒れた野犬を見るかのように冷徹だった。


 彼女は屈み込み、水たまりに沈んでいたエリアスのスマートフォンを指先で拾い上げた。


 泥を拭い、バックライトが点灯する。浸水しかけた液晶画面には、ノイズ混じりに演説を続ける「あの男」の、狂気的なまでの眼光が映し出されていた。


 「……アドルフ・ヒトラー」


 彼女の唇が、その禁忌の名を静かに、だが噛みしめるようになぞった。彼女は画面をオフにすると、スマホをエリアスの目の前に突きつけた。


「……君。これのフォロワーなの?」


 エリアスは息を呑んだ。警察官という、公権力の執行者から発せられたその問い。捕まれば終わりだという本能的な恐怖が背筋を駆け抜け、彼は喉の奥で震える声を必死に絞り出した。


「……あ、違います。それは……ただ流れてきただけで、僕は……」


「嘘をつくのはやめなさい。瞳を見れば分かるわ」


 彼女、クララ・ヴァイスは、エリアスの弁明をナイフのように切り捨てた。そして、怯えるエリアスの顎を強引に持ち上げると、その冷たい瞳の奥にある「何か」を覗き込むように顔を近づけた。


「……君は、彼の中に『救い』を見ている。違うかしら?」


 エリアスは言葉を失った。目の前のこの美しい「秩序の番人」が、自分の内側にある最も暗く、最も熱い秘密を見抜いている。


 「……怖がらなくていいわ。私も、一億人のうちの一人よ」


クララは薄く、残酷なほど美しい微笑を浮かべると、スマホをエリアスのポケットにねじ込んだ。


「名前は?」


「……エリアス。エリアス・ウェーバーです」


「そう。エリアス、立ちなさい。……雨の中で震えているだけでは、何も変えられないわよ。君のような『意志』を持つ若者には、もっと相応しい場所がある」


 彼女が差し出した黒い手袋の手。それは法を守る「警察官」の手でありながら、エリアスには、新しい世界を構築するための「鋼鉄の招待状」に見えた


 雨脚はさらに強まり、叩きつけられる水滴がエリアスの切れた唇を執拗に攻め立てた。


クララは倒れ込んだエリアスの脇に手を差し込み、驚くほど力強く彼を引き起こした。漆黒のコートの袖が、泥にまみれたエリアスの服と擦れる。


「……警察沙汰にはしたくない。頼む、大ごとにしないでくれ。あいつも、僕がぶつかったのが悪かったんだ……」


 エリアスは恐怖と羞恥が混ざり合った声で懇願した。スマホに映っていた「あの男」の影が、公的な記録に残ることを何よりも恐れたのだ。クララはその言葉を聞くと、鼻で小さく、冷笑のような音を鳴らした。


「賢明ね。今のこの国で、被害者が『彼』のフォロワーだと知れれば、守ってくれるはずの法が牙を剥くわ。……立てる? 病院まで送り届けてあげる。私の私用車がすぐそこに停めてあるわ」


 彼女に抱えられるようにして、エリアスは路地の入り口に停まっていた、警察車両ではない無標識の黒いセダンへと乗り込んだ。車内は、革の匂いと微かな消毒液、そして彼女の纏う冷たい香水の香りに満ちていた。


 雨に煙るベルリンの夜、黒いセダンの車内は、ワイパーが刻む規則的なリズムと、フロントガラスを叩く激しい雨音に支配されていた。


 助手席のエリアスは、ズキズキと脈打つ頬を押さえながら、ハンドルを握るクララの横顔を盗み見た。彼女の冷徹なスチールブルーの瞳は、夜の街灯を反射して鋭く光っている。


 「……どうして、警察官のあなたが、あの男の味方をするんですか」


 エリアスの問いに、クララはすぐには答えなかった。彼女は滑らかな動作でシフトレバーを操作し、加速する。その指先には、迷いという名のノイズが微塵も感じられない。


「……君は、彼が投稿した『良き隣人』という動画を見たかしら?」


 クララの声は、低く、どこか遠い記憶をなぞるような響きを帯びていた。


「……見ました。彼は言っていた。『諸君、道端の異邦人を責めて何になる? 彼らを呼び寄せ、空手形を掴ませ、無責任に放置したのは、この国の無能な政府だ』……と」


 エリアスがその言葉をなぞると、クララの唇がわずかに、悲しいほどに歪んだ。


 「そうよ。彼は、リベラリズムという名の『甘い毒』が、招かれた側も、迎える側も、等しく犠牲にしていると喝破した。……私には、同期がいたわ。名前はエリック。……彼も、君のようなブロンドの髪をした、正義感の強い男だった」


 クララの指が、ハンドルの革をミシリと鳴らした。


 「二年前、エリックは職務質問中に、不法滞在の男に刺されて死んだ。男は、政府が『自由の楽園』だと謳って呼び寄せ、そのままスラムに放り出した犠牲者の一人だった。……エリックを殺したのは、その男のナイフじゃない。彼らをコントロールもせず、守りもしないまま、『多様性』というお題目を唱え続けた、この国の腐りきったシステムよ」


 彼女は信号待ちで車を止め、ゆっくりとエリアスに向き直った。その瞳には、深い絶望の果てに辿り着いた、狂気的なまでの「秩序への渇望」が宿っていた。

 

 「彼こそ私たちが毎日、最前線で血を流しながら求めていた、唯一の『誠実な答え』だった。」


 エリアスは、言葉を失った。


 彼女が抱えているのは、ネット上の安っぽいナショナリズムではない。法を執行する現場で、同僚の死という「現実」を突きつけられ続けた末に、唯一の救いとして見出した「鋼鉄の真実」だったのだ。


 「……私は、もう誰も、無意味な理想の犠牲にしたくないの。……たとえ、そのためにこの国を一度焼き払うことになってもね」


 信号が青に変わる。クララは再び前を見据えた。


 エリアスは、自分のポケットにあるスマートフォンが、かつてないほど重く、そして熱を帯びているように感じた。


 エリアスはクララにもう病院へは行かなくてもいいと伝えるとクララはなら自宅まで送ると告げた。




 黒いセダンは、雨に濡れたベルリンの路地を滑るように進み、彼とミアが暮らす古びたアパートの前で静かに停車した...


 「...ここまで送ってくれてありがとうございます。」


 エリアスは、ズキズキと疼く頬を抑えながら、助手席のドアを開けました。クララの語った「同僚の死」と「同じ家に住むべきではない」という冷徹なロジックが、まだ彼の脳内で激しい余震を起こしている。


 「そう。無理はしないことね、エリアス。……君のその傷は、真実を知るための『代償』だと思っておきなさい」


 クララはシートベルトを外し、優雅な、しかし威圧感のある動作で車から降りました。「警察官として、怪我人を玄関まで送り届ける義務があるわ」という彼女の言葉は、拒絶を許さない命令に近いものでした。


 アパートの階段を上り、部屋のドアの前に立ったとき、内側から激しく鍵が開く音がしました。


 「エリアス! どこに行ってたの!? 電話も繋がらないし……」


 飛び出してきたミアは、泥と血に汚れたエリアスの姿を見て悲鳴を上げました。しかし、彼女の言葉は、エリアスの背後に立つ「影」に気づいた瞬間、凍りつきました。


 そこには、街灯を反射して白銀に輝くプラチナブロンドと、雨を弾く漆黒のコートを纏った、あまりに美しく、あまりに場違いな女性警官が立っていました。


 「……こんばんは。ベルリン市警のクララ・ヴァイスです。ウェーバー君が路上で小競り合いに巻き込まれているのを見つけ、保護しました」


 クララは、完璧な「公僕」の仮面を被り、慈愛に満ちた、しかしどこか見下すような微笑をミアに向けました。


 「……えっ、あ、ありがとうございます。警官の方……。エリアス、大丈夫なの? 誰にやられたの?」


 ミアは混乱しながらエリアスの腕を取りましたが、彼女の視線は、クララのスチールブルーの瞳に釘付けになっていました。ミアが信じている「市民に優しい警察」という理想を具現化したような美貌。しかし、その奥底に潜む、冬の湖のような冷たさに、ミアの本能が微かな警鐘を鳴らしました。


 「幸い、大した怪我ではないようです。……ただ、ウェーバー君。今のベルリンは、君が思っている以上に『分断』が進んでいる。……大切にしなさい、そのスマホも、自分の意志も」


 クララはミアの存在を無視するかのようにエリアスにだけ視線を送り、短く頷くと、踵を返して階段を降りていきました。


 「……エリアス、あの人、何? すごく……なんていうか、不気味なほど綺麗だったけど」


 ミアの問いかけに、エリアスは何も答えられなかった。


 ミアが握っている自分の右腕は温かい。けれど、先ほどクララに触れられた顎のあたりには、まだ凍るような「鉄の感触」が残っていた。


 「……ただの警察官だよ。助けてくれたんだ」


 ミアが守ろうとしている「優しい世界」の中に、あのクララという名の「鋼鉄の秩序」が入り込んでいることを、今の彼は口にすることはできなかった。



 



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