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さらば愛しき人よ

 ベルリン とあるアパート 大学生エリアス・ウェーバーと恋人ミア



 ベルリンの質素なアパート。二人の間には、いつものように環境保護団体の活動資料や、ヴィーガンの軽食が並んでいました。しかし、部屋の中央に置かれたタブレット画面の中では、2025年のドイツを揺るがす「地殻変動」 例のベルリン・フォーラムでのヒトラーとトーマス・ベックの対決が流されていた。


 「……信じられない。トーマス・ベックが、あんなに追い詰められるなんて」


 ミアは、ハーブティーのカップを握りしめたまま、画面を凝視していました。彼女にとって、トーマスは「正義」の象徴であり、自分たちの理想を代弁してくれる騎士でした。しかし、画面の中の彼は、脂汗を流し、論理の破綻を露呈させ、無惨に瓦解していく。


 隣に座るエリアスは、一言も発しませんでした。


 ただ、その瞳には、ミアがこれまで見たことのないような「冷徹な光」が宿っていました。


 『……ベック氏。君の語る「自由」は、君の高級なディナーを保証するだけの、特権階級の免罪符ではないのか?』


 ヒトラーの言葉がアパートの一室に木霊する...


 そして、決定的な瞬間が訪れた。


 ヒトラーが「若者からスマホを奪う者こそが、真の独裁者だ」と言い放った直後。


 カメラは、プラチナブロンドの知性派キャスター、ザビーネ・フィッシャーのアップを捉えました。


 彼女の瞳が潤み、吸い込まれるように、一度だけ、深く頷いた。


「……うそ。ザビーネまで……!?」


 ミアは絶叫に近い声を上げ、顔を覆いました。


 テレビ画面の中では、あの「男」が、リベラリズムの守護者たるトーマス・ベックの喉元に、論理という名の鋭利な剃刀を突き立てている。ザビーネ・フィッシャーが、祈るような、あるいは恍惚とした表情で一度だけ深く頷いた瞬間を目撃したミアは持っていたハーブティーのカップをソーサーに激しく叩きつけた。


 ミアにとって彼女は憧れであったのだ。リベラルなジャーナリズムの最後のリトマス試験紙だったと言えるのかもしれない... それがどうしてという気持ちがミアの脳内を支配した。あのザビーネがナチズムの権化たる現代によみがえったヒトラーの亡霊に魂を売ったように思えた瞬間だった。


「……信じられない。ねえ、エリアス、見た? ザビーネまで……彼女、正気なの? あんな、歴史のゴミ箱から這い出してきたような男の言葉に、肯定の意を示すなんて!」


 ミアの声は、震えるような憤りに満ちていた。彼女にとって、ザビーネのあの「頷き」は、自分たちが信じてきた知性と道徳が、白昼堂々、暴力的にレイプされたも同然の屈辱だった。


 「……どう思う? エリアス、何か言ってよ!」


 詰め寄るミアに対し、エリアスは椅子に深く腰掛けたまま、虚ろな、どこか遠くの地平を見つめるような瞳で短く答えた。


 「……分からないな。……ただ、彼女も疲れていたんじゃないかな。……僕たちみたいに」


 その声は、力なく、感情の起伏をわざと削ぎ落としたような空虚な響きを持っていた。ミアは「そうね、あまりの衝撃に、彼女も混乱したのね」と、自分を納得させるように無理やりな解釈を口にしてキッチンへ去っていった。


 だが、エリアスの内側では、かつてないほど激しい「肯定の炎」が渦巻いていた。


 

 翌朝、ミアは、来週の環境デモで配るための手書きのビラを、床いっぱいに広げていた。彼女はペンを走らせながら、熱っぽく語り続ける。


 「ねえエリアス、あんな男の動画に騙される人たちは、結局、教育が足りないのよ。私たちがもっと『正しさ』を根気よく説き続ければ、いつか彼らも目を覚ますわ。多様性こそが、この国の唯一の救いなんだから」


 エリアスは、キッチンで安いインスタントコーヒーを淹れながら、その背中を眺めていた。


 スーパーで1ユーロ値上がりした卵のパックを棚に戻し、割引シールが貼られたパンを手に取るような今の生活。ミアが語る「多様性」という美しい言葉が、その「1ユーロの重み」に喘ぐ自分たちの現実を、一ミリも救っていないという違和感が、澱のように胸に溜まっていく。


(……教育が足りない、だって?)


 エリアスは一口、苦いコーヒーを啜った。


(ミア。君がそうやって見下している『無知な人々』こそが、毎日オイルまみれで働き、この国のインフラを支えているんじゃないのか。君の語る正しさは、どうしていつも、誰かを見下すことでしか成り立たないんだろう。……ザビーネがあの時頷いたのは、君が言うような『狂気』に当てられたからじゃない。彼女も、君のその『欠点のない正論』に、窒息しそうになっていたんじゃないのか)


 「エリアス? 聞いてる?」


 ミアが振り返り、不安げに首を傾げた。その瞳は、かつて二人で夢見た理想を今も純粋に信じている、濁りのないものだった。


 「……ああ、聞いてるよ。そうだね、教育は大事だ」


 エリアスは、虚ろな微笑を浮かべて答えた。


 自分の口から出た言葉が、冷たいプラスチックのような嘘の響きを持っていることに、自分自身が一番傷ついていた。


 (……僕はまだ、あの男を『正しい』と断言することはできない。彼の背後にある歴史の影、あの冷徹な眼光……。それを受け入れることは、僕がこれまで築き上げてきた自分自身を殺すことだ。ミア、君を裏切ることと同義だ。


 でも……君たちの言葉は、もう僕の心に届かないんだ。『不寛容に寛容である必要はない』。君がそう叫ぶたびに、僕には君たちが、自分たちと違う意見を持つすべての人々を、問答無用で『敵』と定義して排除しようとしている独裁者に見えてしまう。


 あの男の動画を消せ、見るな、考えるな。そう命令する君たちの指先は、僕が忌み嫌っていたはずの『抑圧』そのものではないのか。僕はまだ、彼の軍門に降ったわけじゃない。でも、君たちが守ろうとしているこの『清潔で正しい世界』の、あまりの息苦しさに、僕はもう耐えられそうにないんだ。……ミア。君を愛しているけれど、君の語る正義が、僕をこの部屋から追い出そうとしているんだよ...)


 エリアスは、ミアに見えないように、テーブルの下でスマートフォンを握りしめた。


 画面は暗いままだが、その中には、ザビーネのあの「頷き」が、暗闇の中で自分を待っているような気がしてならなかった。

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