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罠への誘い


 ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲン。その名は、2025年のドイツ政界において「知性と道徳の守護者」と同義であった。


 銀髪が混じり始めた完璧なプラチナ・オールバックは、一筋の乱れもなく後ろへと撫で付けられ、彫りの深い顔立ちに刻まれた短く整ったショートボアードが、彼を「経験豊かな賢者」に見せている。サヴィル・ロウで仕立てられたミッドナイトブルーのスリーピース・スーツを隙なく着こなし、その佇まいは、荒廃したSNS時代の政治において、唯一信頼に値する「高潔なナイスミドル」そのものであった。


 だが、その洗練された外装の奥底に潜むのは、猛禽類を思わせる冷徹な氷灰色の瞳だ。


 彼はリベラリズムという名の「最も美しい言葉」を武器に、大衆の良心を意のままに操る術を熟知している。彼にとって、人権や多様性、環境保護といった高潔な理想は、自身の権力を維持するための「最高級の包装紙」に過ぎない。


 彼がかつて手塩にかけて育てたトーマス・ベックが、テレビ画面の中でヒトラーという剥き出しの現実に敗北した際、ヘルゲンが感じたのは悲しみでも憤りでもなかった。ただ、「使い古した筆記具がインク切れを起こした」時のような、事務的な不快感だけだった。


 「……パフォーマーの時代は終わった。次は、自分の『善意』に窒息しかけている、真実味のある間抜けが必要だ」


 彼は、小指に嵌めたアンティークのシグネットリングを弄びながら、次なる駒――ハンス・ミュラーの資料を眺める。


 ヘルゲンという男の本質は、悪そのものではない。彼は「悪を正義という名の香水で消臭する」専門家なのだ。彼が微笑み、相手の肩を叩くとき、その手には目に見えない「エデンへの招待状」が握られている。


 彼に選ばれるということは、社会的な成功を約束されると同時に、二度と引き返せない「美しき地獄」への片道切符を渡されることを意味していた。





 ある日のミュラー家の食卓にて


 夕食の支度が整い、湯気を立てるオーガニック・パスタがテーブルに並んだ瞬間、ハンス・ミュラーは弾かれたようにリビングへ飛び込んできた。その顔は紅潮し、手にしたスマートフォンを宝物のように胸に抱きしめている。


 「モニカ、ルーカス! 信じられないことが起きた……信じられないことが!」


 椅子に座ろうとしていたモニカが、驚いて手を止める。


 「どうしたの、ハンス? そんなに慌てて」


 「電話が……電話が来たんだ。ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲン氏から。直々にだ!」


 その名が狭いダイニングに響いた瞬間、空気が一変した。モニカは持っていたカトラリーをカチリと皿に落とし、信じられないという表情で夫を凝視した。


 「……ヘルゲン議員? あの、党の重鎮の? 嘘でしょう?」


 「本当だ! 私の主張と、地方議会での実績を高く評価してくれていると言ってくれた。君のような『本物の理想』を持つ次世代のリーダーを、自分はずっと探していたんだと……!」


 ハンスの声は震え、瞳には涙さえ浮かんでいた。これまでの地方議員としての地味な活動、リベラリズムの理想を説き続けても冷笑されるだけだった日々。そのすべてが、たった一本の電話で報われたのだ。


 彼は今、自分が歴史という巨大な歯車に正しく噛み合わされた全能感に酔いしれていた。


 「ああ、ハンス! おめでとう!」


 モニカは歓喜の声を上げ、夫の首に飛びついた。


 「当然よ、あなたの努力はいつか認められるって信じていたわ。ヘルゲン氏の目に留まるなんて……これで私たちの理想が、本当に国を動かす力になるのね!」


 夫婦は手を取り合い、子供のように跳ねて喜びを分かち合った。ハンスは誇らしげに胸を張り、傍らで黙って見つめる息子に視線を向けた。


 「ルーカス、聞いたか? パパは来週、ヘルゲン氏との会合に招待されたんだ。数日間、家を空けることになるが、これはドイツの未来を決める重要な仕事なんだよ。パパがずっと話してきた『正しい世界』を、ついに形にするチャンスなんだ」


 ハンスの顔には、一片の曇りもない「正義」の輝きがあった。彼は自分が、ギュンター・ヴァン・デル・ヘルゲンという名の冷徹な捕食者が仕掛けた、最も甘美な罠の入り口に立っていることに、微塵も気づいていなかった。


 一方、ルーカスは父の歓喜の叫びを聞きながら、冷めたパスタを見つめていた。


 「……おめでとう、パパ」


 ルーカスの小さな声は、両親の狂騒にかき消された。ハンスはすでに、ヘルゲンが差し出した「選ばれし者」という名の毒杯に、心を奪われていた。

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