エデンへの誘い
ベルリン・ミッテ区の最高級ペントハウス。
重厚なマホガニーのデスクの上で、リベラル政党のキングメーカー、ヴァン・デル・ヘルゲンは、氷のような冷徹さでタブレットの画面を眺めていた。
画面の中では、かつて自分が「ドイツの良心」として丹念に磨き上げたはずのトーマス・ベックが、子供のように口を震わせ、あの「亡霊」の前に無惨な姿を晒していた。
「……全く使い物にならん愚か者が、」
ヘルゲンは低く吐き捨てると、手にしていた最新型のスマートフォンを、壁の絵画へ向けて容赦なく投げつけた。乾いた破砕音と共に、1000ユーロ以上する値段のデバイスが床に散らばる。
背後に控えていた秘書が、音もなく一歩前へ出た。
「……トーマス氏への支援を継続しますか、閣下?」
「支援だと? 粗大ゴミにこれ以上の税金を払う趣味はない」
ヘルゲンは椅子を回転させ、夜のベルリンを見下ろした。
「私は、奴のあの『空っぽな器』を気に入っていた。中身がないからこそ、私の望むスローガンをいくらでも注ぎ込めると思っていた。……だが、あんなインターネットの素人に、生放送のたった一時間で魂まで去勢されるとは。いくら何でも無能が過ぎる」
ヘルゲンは、暗い窓ガラスに映る自分の冷笑を見つめた。
「大衆は『高潔な俳優』に飽きたのだ。だが、あまりに利口な男は扱いにくい。……次の駒を探せ。条件はこうだ」
彼は指を一本ずつ立てながら、冷酷な選別を口にした。
「利口すぎる必要はない。だが、多少は政治の仕組が分かっている地方議員あたりがいい。……家族思いで、スキャンダルがなく、カメラ映りのいい端正な顔立ち。そして何より、自分の『善意』に酔いしれている、そこそこの『間抜け』だ。自分が世界を救っていると本気で信じ込める、救いようのない理想主義者がいい」
秘書は手元のタブレットに、いくつかの名前をリストアップし始めた。
「……例えば、ベルリン近郊のハンス・ミュラーなどはどうでしょう? 環境政策で実績があり、家庭も円満、市民からの信頼も厚い。……少し、理想が高すぎるきらいがありますが」
「ハンス・ミュラー、42歳。地方議員。……ほう、主要なスローガンは『子供たちのためのグリーン・ベルリン』か。実に、反吐が出るほど瑞々しい正義だ」
ヘルゲンはハンスの議会での演説録をスクロールし、数分前に粉砕されたトーマス・ベックの残像と重ね合わせました。
「見てみろ、この顔。自分が語る『多様性』や『持続可能性』という言葉が、一滴の不純物もない真実だと本気で信じ込んでいる。……いいか、この男の最大の特徴は、自分が何をしているのかを、自分自身すら分かっていないという点にある」
ヘルゲンは、ハンスが「青少年保護のためのネット規制」を熱心に説いている記事で指を止め、そこで低く、邪悪な笑い声を漏らしました。
「……なるほど。そこそこの間抜けだな。いや、期待以上の『逸材』だ」
ヘルゲンの唇が、獲物を仕留める直前の蛇のように歪みます。
「彼は本気で、この世界を『善意』だけで塗り替えられると思っている。自分が踏みしめている大地が、どれほどドロドロとした利権と欲望の泥沼の上に浮かんでいるか、想像すらしたことがない。……こういう男こそが、我々にとって最も扱いやすい『盾』になる。自分が盾にされていることすら気づかずに、返り血を浴びて『これは平和のための聖水だ』と微笑むような男だ」
ヘルゲンはタブレットを秘書に投げ返すと、窓の外、深夜のベルリンを支配する冷たい静寂を見つめました。
「トーマスのような『虚栄心』に駆られたプロの俳優は、一度メッキが剥がれれば終わりだ。だが、ハンスのような『信念』を持つアマチュアは、一度闇に引きずり込めば、自分の理想を守るために、地獄の番犬よりも忠実に沈黙を守る。……自分の罪を認めることは、彼の『美しい世界』の崩壊を意味するからな」
ヘルゲンは机の上のチェスの駒を一つ、無造作に倒しました。
「……ハンス・ミュラーに招待状を送れ。場所は、もちろん『エデン』だ。……彼が一生をかけて積み上げてきたその『安っぽい正義』を、ゴールドスタインの用意した極上の快楽で、根底から腐らせてやろうじゃないか」
ヘルゲンは、その名を聞いて、蛇が獲物を見つけた時のような細い目を向けた。
「……ハンス・ミュラーか。いいな、その『理想』という名の首輪を少し締めてやれば、これほど使い勝手のいい犬はいないだろう。……すぐに連絡を取れ。彼を『エデン』へ招待する。……何も知らない彼に、我々の世界の『深い味』を教えてやろうじゃないか」
ヘルゲンの唇に、死神のような笑みが浮かんだ。
トーマスという古い皮が剥がれ、ハンスという新しい「偽善」が、2025年の荒波に放り込まれようとしていた。




