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ベルリン・フォーラムの余波

 ミュラー家のリビングは、その夜、まるで教会のような厳粛な空気に包まれていました。


 壁に掛けられた大型の有機ELモニターには、討論番組『ベルリン・フォーラム』のスタジオが映し出されてる。父ハンスと母モニカは、ソファに深く腰掛け、祈るような面持ちで画面を見つめてた...


 「見て、ルーカス。今夜、正義が勝つ瞬間をその目に焼き付けるのよ」


 モニカがルーカスの肩を抱き寄せ、期待に満ちた声で囁きました。画面の中では、彼らが敬愛する俳優トーマス・ベックが、完璧なスーツに身を包み、知性溢れる表情で座っています。対峙するのは、あの「亡霊」のような男。


 ハンスは誇らしげに頷きました。


 「トーマスは我々リベラルの象徴だ。あの怪物が撒き散らす『毒』を、彼は理性の光で焼き払ってくれる。これこそが、民主主義が成熟した証なんだよ」


 番組が始まり、トーマスが「人道」と「多様性」を盾に、激しい口調でヒトラーを糾弾し始めると、ハンスは膝を叩いて歓喜しました。


 「そうだ、その通りだ! 歴史を直視しろと、もっと言ってやれ!」


 モニカも、トーマスの高潔な言葉に酔いしれ、うっとりと画面を見つめています。彼らにとって、この討論は勝利が決まっている「公開処刑」のはずだった。


 しかし、議論が中盤に差し掛かった頃、リビングの空気が微かに変質し始めました。


 画面の中の「男」が、一度も声を荒らげることなく、淡々と、しかし冷徹な精度でトーマスの「正論」に含まれる矛盾を突き始めたからです。


「ベック氏。君は常に『歴史』という鏡の中の自分を見て悦に入っている。だが、スタジオの外を見てみたまえ。君が『歴史』を語る間にも、インフレに喘ぎ、ガソリン代が払えず、冬の寒さに怯える国民がいる。

 

 君の正義は、お腹を空かせた子供たちを温めることができるのか? 君の道徳は、崩壊しつつあるドイツの産業を救えるのか?

 

 君は私を『過去の悪』と呼ぶ。だが、国民にとっての『現在の悪』とは、彼らの痛みを見ようとしない、君のような特権階級の無能さのことではないのか?」


 ルーカスは、パパの横顔を見ました。ハンスの額に、嫌な汗が浮かんでいます。トーマスが言い淀み、顔を真っ赤にして感情的に喚き始める一方で、ヒトラーの言葉は、まるで鋭いメスのように、ミュラー家が信じてきた「正義」の皮を剥ぎ取っていきました。


 そして討論終盤...ヒトラーが「未成年SNS禁止法案」を『新時代の焚書』と断じ、カメラを真っ直ぐに見据えて「真実を隠す者こそが独裁者だ」と言い放った瞬間――。


 司会のザビーネが、あろうことか深く頷く姿がアップで映し出されました。


「……うそ……」


 モニカの声が震えました。


 画面の中のトーマスは、もはや知的な俳優ではなく、言い訳を繰り返す惨めな中年男性にしか見えなくなっていた。彼が語る「多様性」という言葉が、ヒトラーの放つ「生存の論理」の前に、カサカサと音を立てて崩れ去っていく。


 「ふざけるな! こんなのは放送事故だ!」


 ハンスが突然、獣のような声を上げて立ち上がりました。彼の顔は屈辱と恐怖でどす黒く染まり、震える手でリモコンを掴むと、力任せに電源ボタンを押し込みました。


プツン。


 鮮やかだった画面が、冷たい漆黒へと吸い込まれました。


 リビングに残されたのは、ただならぬ殺伐とした沈黙と、ハンスの荒い呼吸音だけでした。


 「……見ちゃダメだ、ルーカス。あんなのはペテンだ。巧妙な嘘だ。……いいか、パパたちが言っていることだけが正しいんだ。あんな男、二度と見るんじゃないぞ!」


 ハンスの声は荒く、リビングの空気を切り裂きました。彼はルーカスを「守る」という名目で画面を消しましたが、ルーカスにはそれが、「負け戦から逃げ出した兵士の背中」にしか見えませんでした。

ルーカスは、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめました。


(……パパ、おかしいよ)


 内心の独白が、少年の胸の中で黒い渦を巻き始める。


 数分前まで、パパは自信満々に「正義が勝つ瞬間を見ろ」と言って、僕をこの椅子の前に座らせた。でも、その「正義」が言い負かされ、自分たちの都合の悪い真実が暴かれ始めた途端、パパは目隠しをするように画面を奪った。


 (「多様性を認めろ」って言うのに、パパは総統閣下の意見という「多様性」を、僕から遠ざけようとしている。……パパが言っている「自由」は、パパが勝っている時だけのルールなんだ)


 「……ルーカス、部屋に行きなさい。もう寝る時間よ」


 母モニカの声も、どこか上擦っていました。彼女は自分の信じていた「完璧な世界」が、あのザビーネの頷き一つで崩れ去ったことに、生理的な恐怖を感じていたのです。


 ルーカスは無言で立ち上がりました。


 「……おやすみなさい、パパ。ママ」


 彼は、両親が期待している「従順で無垢な子供」を演じるように、力なく返事をしました。しかし、階段を上る彼の背中には、もう以前のような甘えはありませんでした。


 自室のドアを閉め、鍵をかける音。


 ルーカスは暗闇の中でベッドに倒れ込み、シーツの中に潜り込みました。そして、パパが一番嫌がっているはずの「武器」――スマートフォンを、暗闇の中で点灯させました。


(……パパは隠した。でも、インターネットは隠さない)


 彼は検索バーに、総統の言葉を打ち込みました。


『真実は、隠すものではなく、戦いの中で勝ち取るものだ』


 青白いバックライトに照らされたルーカスの瞳は、もはや「教育される側の子供」のものではありませんでした。それは、親の「矛盾」という裂け目から漏れ出した真実を、自らの手で掴み取ろうとする、「潜伏する反逆者」の瞳だった。




 

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