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狼の砦

 

 放課後の教室に流れる空気は、教師たちの教科書的な「正義」が支配する表面的な静寂とは裏腹に、極めて高温で、鋭く、そして不穏な熱を帯びていた。


 机の下、あるいはトイレの個室で、子供たちは肩を寄せ合い、スマートフォンの青白い光の中に「彼」を見出していた。かつて歴史の授業で「絶対悪」と教え込まれたあの特異なシルエットが、2025年のデジタル・エフェクトを纏った瞬間、それは最高にクールで、圧倒的に「正しい」反逆のアイコンへと書き換えられたのだ。


 ルーカス・ミュラーは、その熱狂の中心にいた。だが、彼が他の子供たちと決定的に違ったのは、彼の手元にあるのが単なるデジタル・データではなく、「血の通った歴史」と繋がっているという確信だった。


 「おい、ルーカス。今日もあっちへ行くのか?」


 マックスが率いる少年グループが、校門を出たルーカスの背中に声をかけた。マックスの家は、ルーカスの父が進める再開発のせいで困窮し、その苛立ちは常にルーカスへと向けられていた。だが、今日のルーカスは怯えなかった。


 「……マックス。君のパパを救えるのは、僕のパパじゃない。もっと別の『力』だよ。見たければ、ついてくればいい」


 ルーカスは自宅とは逆方向、あの古い石造りの一軒家へと迷いなく歩を進めた。


 尾行するマックスたちは、不気味なほど重厚な、蔦の絡まるフリードリヒの屋敷を前にして息を呑んだ。ベルリンのモダンな街並みから切り離された、そこだけが戦前の時間を呼吸しているような、異質な要塞。


 「……なんだよ、この家。呪われてるんじゃないか?」


 マックスが毒づきながら生垣の隙間から覗き込んだとき、開いた窓から、あの「鉄の旋律」が漏れ聞こえてきた。そして、彼らが目にしたのは、背筋を一本の鋼鉄のように伸ばし、スマートフォンの画面を凝視するルーカスと、その隣に座る、巨岩のような威圧感を放つ老フリードリヒの姿だった。


 「誰だ、そこにいるのは」


 地底から響くようなフリードリヒの問いかけに、少年たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


 「……す、すみません。ルーカスが変なところに行くから……」


 ルーカスが立ち上がり、窓際に歩み寄った。その瞳には、かつての「議員の息子」としての弱々しさはなく、絶望の淵で何かを掴んだ者だけが持つ、冷徹な光が宿っていた。


 「マックス、入っていいよ。……この人は、僕のひいお爺ちゃんのフリードリヒ...。そして、本物の『ヒトラー・ユーゲント』だった人なんだ。ベルリンの防衛戦でソビエトの戦車を二両も撃破して、総統閣下から直々に勲章を授与された……この国で最後の一人かもしれない、本物の英雄なんだ」


 その一言が、少年たちの世界を音を立てて逆転させた。


「……本物? 本物のユーゲントなのか!?」


「あのおじさんと……動画のあの人と、本当に会ったことがあるのか!?」


 マックスの瞳から、攻撃的な色は一瞬で消え去り、代わりに純粋で強烈な、ほとんど狂気に近い「崇拝」の光が宿った。彼らにとって、教科書の文字は死んでいるが、目の前の老人の皮膚に刻まれた皺と、その手に宿る「戦車の感触」は、何よりも生々しい真実だった。


 「……マックス。お前の父親が今、苦しんでいるのは、お前のパパが弱いからではない。世界が『秩序』を失ったからだ」


 フリードリヒはゆっくりと立ち上がり、かつての兵士の足取りで少年たちを招き入れた。


 「入りなさい。お前たちの世代には、まだ教えられるべきことが山ほどある。……パパたちの『偽物の正義』ではなく、私たちがこの大地に刻み込んだ『本物の記憶』をな」


 薄暗い書斎の空気が、一瞬にして「聖域」へと変貌した瞬間だった。フリードリヒが震える手で、棚の奥の小さな木箱から取り出したのは、錆ひとつない銀色の縁取りがなされた二級鉄十字章。


 「……見ろ。これが、本物の重みだ」


 フリードリヒの手のひらに鎮座する、黒い十字の勲章。窓から差し込む夕陽を浴びて、それは鈍く、冷徹な光を放っていました。


 クラス一の問題児で、授業中は常に机に突っ伏していたマックスが、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで身を乗り出しました。その瞳には、教科書の歴史上の人物を見るような冷めた視線は微塵もありません。そこにあるのは、一振りの真剣を眺めるような、純粋で、狂暴なまでの「渇望」でした。


 「……すげぇ。本物だ。……本物の、鉄十字だ」


 マックスの震える指先が、勲章の冷たい金属に触れました。学校の先生が「負の遺産」と呼び、忌み嫌うように教えるそのシンボルが、今の彼には、自分たちの惨めな現実を打ち破るための「最強の武器」に見えていました。


 「ひいお爺ちゃん、あの時の話をして。……ソビエトの戦車を、どうやって倒したの?」


 ルーカスが促すと、フリードリヒは深くパイプを燻らせ、視線を遠い1945年の焦土へと飛ばしました。


 「……ベルリンは燃えていた。空は黒煙で覆われ、太陽など見えなかった。……迫り来るのは、地響きを立てるT-34の群れだ。絶望か? 否だ。我々の胸には、総統から託された『意志』があった。……私は瓦礫の中に身を潜め、鉄の怪物が喉元を晒すその瞬間まで、心臓の鼓動すら止めて待ったのだ」


 フリードリヒが語る戦場の光景は、映画やゲームの演出とは一線を画していました。死の匂い、泥の冷たさ、そして引き金を引いた瞬間の、肩を貫くような衝撃。


 ルーカスは、隣に座るマックスを見て驚愕しました。


 いつもは教師を嘲笑い、校則を破ることだけが生き甲斐だったはずのマックスが、まるで敬虔な信者のように口を半開きにし、一言一句を漏らさぬようフリードリヒの言葉を「食べて」いたのです。


 「……先生の授業なんて、クソだ」


 マックスが、地を這うような声で呟きました。


「あいつらは『反省しろ』『謝れ』ってばかり言う。でも、おじいちゃんの話には……『誇り』がある。負けても、死にかけても、最後まで戦ったっていう……本物の誇りだ。……俺、そんな話、一度も聞いたことなかった」


 マックスは、ルーカスを振り返りました。その瞳には、これまでの反目はんもくを完全に消し去った、強固な「連帯の誓い」が宿っていました。


 「ルーカス。……お前、最高のひいお爺ちゃんを持ってるな。……俺、決めたよ。もう、あんな無能な大人たちの言うことなんて聞かない。俺たちは、おじいちゃんから『本物の戦い方』を教わるんだ」



 翌日から、学校でのルーカスの立ち位置は完全に変わった。


 彼はもはや、からかいの対象である「優等生」ではなかった。


 彼は、教室の影で密かに結成された「小さな兵士たち(ユーゲント)」の、若き指導者(Führer)として君臨することになったのだ。

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