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潜伏の教え  

 時は少し戻りフリードリヒの家 


 ルーカス・ミュラーはフリードリヒのあのナチス式敬礼に圧倒されていた。


 ひいお爺ちゃんの家に逃げ込んできたのはいいものの事態は奇妙な方向へと転がりだした...それにパパにスマホを没収されるかもしれないとの危機は全く去っていないのだ。


 「……落ち着きなさい、ルーカス。鼓動を鎮めろ」


 フリードリヒの声は、もはや老人のそれではありませんでした。戦車が迫る轟音の中で、部下に短い命令を下す指揮官のような響きです。


「おじいちゃん……?」


「いいか、よく聞きなさい。これは『戦い』なのだ。だが、戦いにおいて最も愚かなのは、功を急いで丸裸のまま敵の陣地に突っ込むことだ。私がかつてベルリンの廃墟で、あの共産主義者どもの戦車を仕留めたのも、勇気があったからではない。……トリガーに指をかけ、絶好の『タイミング』が来るまで、呼吸すら止めて待ち続けたからだ」


 フリードリヒは、ルーカスの手にあるスマートフォンを指差しました。


 「今、お前のパパとママは、お前からこれを取り上げようと躍起になっている。今ここで反抗し、これを奪われることは、兵士が武器を捨てて投降するのと同じだ。……戦略的撤退が必要だ」


 ルーカスは、ひいお爺ちゃんの言葉の重みに、ごくりと唾を飲み込みました。


「ここは……おとなしく謝罪するのだ。パパたちに従順なフリをしろ。スマホをお前の手元に、いつでも『総統閣下』の声を聞ける状態で確保し続けること。それが今の、お前の最優先任務だ。……いいな?」


「……パパたちに、嘘をつくの?」


「『擬装』と呼ぶのだよ、ルーカス。私も一緒に説得してやろう。私が厳しくお前を叱り、諭したことにすれば、あのハンスのことだ、自分の正しさが証明されたと勘違いして、すぐに油断するはずだ」


 ハンスとは...ハンス・ミュラーはルーカスの父親である 母親の名はモニカ・ミュラー


 フリードリヒは、暖炉の上の古い鏡に映る自分の顔を見ました。そこには、再び「優しいひいお爺ちゃん」の仮面を被り直した、老獪な兵士の姿がありました。


 「……さあ、顔を拭きなさい。パパたちの車の音が聞こえる。……ここからは、我々二人の『共同戦線』だ。……奴らに、我々の胸の中にあるこの火種を見せてはならんぞ」


 その時、玄関のドアが乱暴に叩かれました。


 「ルーカス! フリードリヒ、開けてくれ!」


 ハンスの焦燥しきった声が響きます。


 フリードリヒはルーカスに目配せをすると、わざと震えるような「老人の足取り」で、玄関へと向かった。


 ハンスとモニカが雪崩れ込んだとき、そこにあったのは、古びたウールブランケットにくるまって震える十歳の少年と、その肩に節くれ立った手を置き、静かに溜息をつく老人の姿だった。


 「ルーカス! フリードリヒ、一体何を……!」


 ハンスの声は怒りに震え、その目は息子の手にある「毒の端末」を、まるで不発弾でも見るかのように血走った眼差しで探していた。だが、フリードリヒはゆっくりと立ち上がり、困惑と慈愛を完璧に調合した「物分かりの良い曾祖父」の顔で孫を迎え入れた。


 「……ハンス、モニカ。騒々しいぞ。この子は今、自分の過ちを認めて、私に泣きついていたところだ」


 老人の声からは、先ほどの鋼鉄のような響きが跡形もなく消え失せていた。代わりに、家族の絆を尊ぶ、枯れた老人の質感がそこにはあった。


 「おじいちゃん、ルーカスが……あんな、あんな恐ろしい動画を見ていたなんて……」


 モニカが膝をつき、ルーカスの顔を覗き込む。彼女の瞳には、息子が「汚染」されたことへの絶望が浮かんでいた。


 「ああ、分かっている。私からも厳しく言い聞かせたよ。……いいか、ルーカス。パパたちの言う通りだ。あのような刺激的な言葉は、お前のような子供には劇薬が過ぎる。歴史の証人である私から見れば、あれは単なる『出来の悪いパロディ』だ。……そうだろう?」


 フリードリヒの視線が、わずかにルーカスを射抜いた。それは合図だった。


 ルーカスは、ひいお爺ちゃんが淹れてくれたココアの、あの暴力的なまでの甘さを喉の奥に感じながら、人生で初めての「擬装」を口にした。


 「……ごめんなさい、パパ。ママ。僕、マックスにひどいことを言われて、なんだかむしゃくしゃして……。パパたちが反対することをわざとしてみたかったんだ。あのおじさんの言っていること、よく分からなかったけど……パパたちが怒るから、面白がっちゃったんだよ」


 ルーカスはモニカの胸に顔を埋め、わざと肩を小さく震わせた。


 「ああ、ルーカス……!」


 モニカは息子を壊れ物を扱うように抱きしめた。


 「そうなのね。あなたが悪いんじゃないわ。あのアルゴリズムが、あなたの心の隙間に付け込んだのよ。ハンス、見て。この子はちゃんと理解しているわ」


 ハンスの毒気が、目に見えて抜けていくのが分かった。彼は自分の「リベラルな教育」が、最終的に息子の良心に打ち勝ったのだと信じ込んだのだ。


「……スマホは返してやりなさい。取り上げれば、この子はまた隠れて暗闇を探すようになる。私が責任を持って、この子が『正しい道』を歩んでいるか、時々チェックしてやろう」


 フリードリヒがハンスの肩に手を置いた。その手は驚くほど温かく、そして、獲物を逃さない万力のような確信に満ちていた。


 「……分かりました。おじいちゃんに免じて、今回は信じよう。ルーカス、パパもお前を信じたいんだ。多様性と自由を愛する、誇り高い息子であってほしいんだよ」


 ハンスは、自らの寛容さに酔いしれるような顔で、ルーカスにスマートフォンを差し出した。


 「さあ、帰ろう。明日はパパと一緒に、本当の歴史を勉強しようじゃないか」


 夜のベルリンを走るハンスの最新型EV。その静かな車内で、ルーカスは窓の外を流れる街灯の光を見つめていた。


 ポケットの中にあるスマートフォン。それはもはや、親に与えられた玩具ではなかった。


 それは、ひいお爺ちゃんという「老兵」と、画面の向こうにいる「総統」と、そして世界中の一億人とを繋ぐ、「潜伏者のための通信機」へと変貌していた。


 ハンスは満足げにハンドルを握り、鼻歌まじりに「対話の勝利」を確信していた。


 だが、ルーカスの指先は、暗闇の中で静かに電源ボタンをなぞっていた。

彼の瞳には、もはや十歳の少年の無垢さはなく、絶好の「タイミング」を待ち続ける、若き兵士の冷徹な光が宿っていた。

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